「それ」 亜実
一番先に朝食を済ませた亜実は、飾り気のない一人部屋で、出発の支度を黙々と進めている。廊下へのドア付近の壁にかけられたハンガーには、クリーム色の夏ジャケットが吊り下がっている。その内側には、マシンピストル『グロック18C』の収まるホルスターが、予備マガジンやサプレッサーと共に隠されていた。
亜実たちへ支給された短機関銃『APC9-K』は、豊川が持ち運んでおり、フルオート射撃できるその銃は頼るべき火力だ。単独で逃走し潜伏する亜実にはなおさら。プリウスの燃費がいくら良いといえ、皆で合流する日まで走り回れはできない。
今日七月十八日がその合流日だ。田島健一からマイクロマシンを除去する二回目の実行だ。一回目の失敗(まさかの住所違い)を返上すべく日である。任務の期限は七月二十日に設定しているため、この二回目で成功してもらわないと困る。
亜実はチームリーダーの責任を普段以上に強く覚えながらも、プレッシャーまでは感じていない。人受けはさておき、冷静さを失わない点は彼女の長所である。本能や感情で行動しがちな者には見習ってもらいたい。
「キャラ研修のレジュメ、必要だっけ?」
「アタシは一応持ってく」
「あっ、そうなんだ。……取りに戻るから先行ってて」
「ウン、了解。急ぎなよ」
安いビジネスホテルを想起するうるさい会話や足音が、ドア越しに廊下から聞こえてくる。ここで耳にした事のある声だが、亜実は気にせず支度を続けた。赤の他人だから。
亜実が身を寄せる寄宿舎には大浴場や食堂もあり、彼女(三十二歳だが美人)は声をかけられた際、男女関係なく淡々と返事した。無視すればいいと思われるかもしれないが、酷く冷たい対応はかえって目立つ。
そして、そんな生活はこれで終わりだ。これから彼女は部下たちと合流し、田島からマイクロマシンを除去する。本来の正しい住所へ赴き、彼の頭部から銃弾よりも精微な代物を……。
亜実がその一室を隠れ家にしたのは、七月十三日の夕方だ。失敗した日の翌々日である。同月十八日の今日までここを利用できたのは、我々が擁する某会社のおかげだ。彼らに研修所を隠れ家として用意させた。
彼らの協力もあり、彼女は警察の追跡を上手く撒けている。訪れた警官は一人もいないし、電話による問い合わせもゼロだ。
その研修所は、任地の東京都八王子市から比較的近い千葉県北西部にあり、寄宿舎も備わっている。人の出入りが少ないわけじゃないが、国道から少し離れており目立たない。亜実一人が隠れるには絶好の場所だ。
協力させている会社は、東京都内(二十三区外)で例の遊園地『青海レッドオーシャン』を運営しており、我々の組織から派遣した人間が社長を務める。現社長の爺さん(明るく朗らかだが、女癖の悪いハゲ男)は、「それ」世界(NGY1180)の管理者(植民地の総督同様)も兼務だ。……いや、「管理者」が本業であり、社長のほうは誰でもいい。文字通り「世界を管理する者」という存在なのだから。
とはいえ、世界の管理者といっても、我々の組織に属する身分であり、マンションや別荘地の管理人と実際は変わらない。たいした権限も無い雇われの身だ。
つまり、管理者の彼が亜実を匿ったのは貸し借りでなく、単なる務めだ。彼女を「コネ入社の新入社員」と称し、研修所に一人分設けてくれたのも仕事に過ぎない。
ところが、比較的簡単な仕事にも関わらず、彼は彼女に恩着せがましい言葉(セクハラの類も含む)を並べ立てる始末……。管理者として一世界を任され、社長も務めているという事から、偉そうに振る舞っている。単身赴任からのダブルワークで大変だろうが、わかりやすく愚かな男だ。
「実は、あなたより有能な人間に心当たりがあります。女性でも男性でも何人か。いえ、何人も」
賢明な彼女は彼をそうあしらってやる。ハッタリでなく、実際そうだろう。
「…………」
彼は言葉に詰まった。幸い、その後で懸命に謝罪を口にした。
そして、それから三十分も経たない内に、件の研修所を紹介してもらう。現場の八王子市から多少離れているものの、駐車スペース付きの安心安全な宿だ。まあ、ドーミーインには劣るが。
ちなみに、もし彼が罠(隠しカメラ含む)を仕掛けたり、重過失を起こした場合、我々は彼を解任し連行する。そして、裁判にかけた上で、いわゆる「3K」の仕事に再就職だ……。「雇われ管理者」時代がマシに思えるはず。
「ウクライナ情勢がさらに悪化しつつあります。ロシアが実効支配するウクライナ南東部のクリミア橋を、ウクライナ軍がドローンによる攻撃で損傷させた事を巡り、ロシア軍は報復として、大規模なミサイル攻撃をウクライナ南西部の都市オデーサへ行なうと発表しました」
用意が一段落ついたところで、亜実は液晶テレビを点けた。三菱製の小さな画面だが、国際情勢の悪さは明白だ。とはいえ、歴史や情勢は我々の世界とほぼ変わらないため、特に驚きはない。それに情勢の悪さは、昨日今日から始まったことじゃない。
「無関係ね」
亜実も同様だった。彼女はチャンネルをNHKのEテレに変える。画面に平和が訪れ、クラシックや穏やかなナレーションが流れて始めた。
ぼんやりと数分間眺めた後、彼女は支度を再開する。たいした時間はかからず、ノートパソコンをバックパックへしまうだけとなった。部屋を出る前に、それで確認を行なう亜実。
まず、受信メッセージを確認した。スマホでも確かめられるが、こっちのほうが手早く済ませられる。
「良し良し。……けど、まだいるのね」
同じく逃亡中の部下は四人とも無事だ。現地マンション付近で警官が二人張りこんでいるが、久保に何やら策があるとの話。
亜実は次に、田島本人の予測スケジュールを確かめる。十八日から夏休み入りはすぐの事で、彼が塾の夏季合宿で家を離れる日々はその後だ(合宿前後の計六日間だけが、実際の夏休みらしい……)。
「やっぱり今日中にやらなきゃいけない」
遊び盛りの小学生の田島が、限られた夏休みを家でダラダラと過ごすとは思えない。彼はゲーム好きだが、インドアの陰キャじゃないのだ。
彼の恋人である柏崎が、デートでどこかへ連れていけと喚く光景は容易に考えられる。日帰り(この世界でも男側が払うのが前提ときた)でも外出されてしまえば、人ゴミまみれの東京で彼を見つけるのは困難だ。監視カメラのネットワークに侵入できる久保でも、「干し草の中から針を探す」という難しさ。AIを導入すれば捗るのは確かだが、時間的にも予算的にも余裕はない。
そのため任務の成功には、田島本人が在宅である事が一番望ましい。条件に合うのは、夏休み開始前の放課後かつ、塾通いじゃない日だ。三連休明けの七月十八日は塾自体が休み(その三連休はそうじゃない)であり、田島が塾の自習室へ行ってしまい留守という失敗も防げる。今日の夕方に始めるのがベストだろう。
田島が小学校にいるところを狙えばいいという意見が出るだろう。何かの営業や勧誘じゃないのだから、白昼堂々とやれば済むという話だ。
しかし、原則として任務でも、亜実たちが違法に小学校の敷地へ入る事は許されていない。つまり、アメリカンな行動は原則禁止というわけだ。自由を制限するとはいえ、我々にも束縛はある。無論、望美たちも例外じゃない。
「…………」
束縛に至る経緯や今さら感もあり、亜実は口に出さないものの、それに嫌気を覚えていた。思うように任務を進められない苛立ちもある。しかし、今のところは努力してもらう。
もし小学校へ侵入OKなら、亜実たちはためらわずに田島の教室へ乗りこみ、除去任務をさっさと済ませる。必要があれば、邪魔な先生や騒ぐ子供を静かにさせる事だってできる。だが、原則としてそれは許されない。
まず、我々の仲間が現地警察に拘束され、現地の法で裁かれる展開が嫌な点がある。それ「NGY1180」とこれ「NGY1150」を統べる側として、そんな展開はメンツ丸潰れだ。力づくでその世界を平定させねばならない。救助隊(あるいは弁護士)を送り、現地の法で裁かれる前に解決させる。
また、あまりに過激な行動はよろしくない。いくら異世界の人間相手とはいえ、むやみやたらに子供を殺されては、別の意味でメンツが潰れる……。
「どう解決する気かしら」
部下の久保から送られたメッセージを思いながら、亜実は呟く。
「……とにかく出発ね」
彼女は深呼吸すると、ノートパソコンをバックパックへしまう。そして、それを背負いながら、ドアのほうへ歩み出す。
二回目を実行するなら今日しかない。




