現風景3
足元が、ふらつく。
アルコールは俺から現実感を奪っていく。
……それは不安とか、苦しさから俺を切り離して。
つかみどころのない感覚。重力から放たれたその、一瞬の浮遊感。
それは、今の俺にとって、幸福感と言い換えても差し支えない。
「おい、危ねえだろ! 気をつけろ!」
俺とぶつかった男が、強い口調で吐き捨てた。俺はヘラヘラ笑って、謝罪を言葉にもせず、ただ重力に任せて前に倒れ込んだ。受身も取れずに転んで。唇がじんじんと痛んだ。
誰かが、俺のことを笑っていった。無様な酔っぱらいだと思ったのだろう。
……助ける人は居ない。当然だ。酒に逃げるしかない、負け犬だと思ったのだろう。
むろん、否定するつもりもないが。
そのままアスファルトに転がり、排気で白く濁った空から、星を探してみる。みえるはずもない。……はずもないが、かすかな希望を込めて。
「大丈夫ですか?」
俺の目の前に、淡いピンク色のハンカチが現れる。
目線を動かすと、スーツ姿の女が、俺を心配そうに見下ろしていた。
俺は首をふって。
その同情を。哀れみを。否定して。
ああ――。
クソみたいな世界だ。
クズみたいな人間だ。
世界など滅びろと俺は願った。
……。
けど。
けれど違ったのだ。
本当に、ダメなのは。
変えるべきなのは。
それに気づいた時は、もう遅い。
もう取り返しがつかないのだ。
全部そうだ。全部そうだった。
だからこれからは、ただの負け犬の愚痴が続くだけだ。
俺は。
俺は……。
いったい、何がしたかったのだろう。
……いや、それも違うな。「今はもうできない」。そんな言葉に逃げ込んで。いまだに、俺は逃げ道を作って。感傷にひたって。
身体をゆっくりと起こす。
痛むのは、顔だけではないようだ。
けど、それを探すのも馬鹿らしくて、立ち上がり。
服についたホコリを払う。
俺は、何がしたいのだろう。
……そして、それは今もかなうことなのだろうか?
○
「日出くん、今日も早いね」
部長の俺にたいする態度は軟化していた。
……けれどそれが俺の人生に、思ったほど影響を与えなくて。
その事実に俺は驚くとともに、落ち込んだりもした。……つまり、他人の動向に左右されるのなんて、本当はどうでもいいことなんじゃないかって。
「今日は病院に行くんだって? じゃあ残業頼めないなぁ」
断ってから一度も頼んだこともないくせに。
「……すいません。定期検診は、医者に言いつけられてますから」
「いいんだ。けどなぁ、今日は長谷川も休みだしなぁ」
「長谷川が?」
「体調を崩したって。季節はずれのインフルだって、みんなは笑っている」
あの、めったに風邪をひかない男が?
俺はその言葉が気になって、就業後、長谷川のもとを訪れることにした。
○
電車に乗ると、いまだに具合が悪くなる。
……だが、移動方法がほかにないのだからしかたない。
俺は総務からもらってメモ書き通りにしたがって、改札をくぐった。
……。
ずいぶん貧相なアパートに住んでいるな、というのが感想だ。
あの社交的なスポーツマンが、ここに住むのか? もらう給料だって俺と変わらないはずなのに、どうして……。
だが、いろいろと事情があるのだろう。俺は深く考えないことにして、階段を登る。
ピンポーン。
チャイムを鳴らす。
……。
妙なゆっくりした物音で、部屋の主が扉を開けた。
……それは、いつもの快活な男ではなく、今にも崩れ落ちそうな弱々しい男だった。
「ああ、お前か……。どうした、なんかあったのか」
「お前が風邪をひいたときいて。迷惑かなと思ったけど、来てみたよ。
これ、見舞いだ」
俺は途中の薬局でかった袋を手渡してやる。
「すまんな。いやあ、久しぶりに風邪をひいたんだけど、勝手がわからなくてな。
おかゆもろくに作れないし、辟易してたとこなんだ」
「誰か居ないのか? 親とか、彼女とか。……アヤネも居るだろう」
「親は飛行機に乗る距離だし、彼女とは先日別れたばかりだ。
こんなときに来てくれるのはお前くらいだぜ、親友」
そういって、冗談めかして長谷川は俺の肩を叩いた。
「……なあ、病院には行ったのか?」
「ああ。風邪だと言われたよ。あとは過労。
少し休んで、すぐまた復帰するさ。なんせ俺が抜けたら、お前らが大変だろうからな」
その笑顔も、どこか弱々しい。
「なんかあったら、言えよ」
「そりゃこっちのセリフだぜ。日出、また悩んでるんじゃないか?
すぐに言えよ」
「病人に心配されるほどじゃないさ」
俺は笑って。
ゆっくりと閉められたドアを見つめていた。
肌は土気色になっていたし。
目は充血していた。
……病院にかよっているといっていたが。
本当に大丈夫だろうか?
○
「結婚式のスピーチ?」
俺はあまりにも意外すぎる提案に、声が裏返る。
「ど、どうして俺なんだよ」
「ね、お願い。ほかにアテがある人、みんなに断られて」
「俺はべつにいいけど……。
新婦側のスピーチを男がやったんじゃ、体裁が悪いだろう」
「あ、そか」
アヤネは首をかしげてみせた。
「それじゃ、何か余興をしてよ。
手品でも、漫才でも、コントでも。
できるだけバカバカしいほうがいいな。なんせ固い人ばっかりだからさ。
長谷川くんといっしょに――」
「わかったよ、わかった。
どうしてそんなに俺にやらせたがるんだ」
するとアヤネは、唇を突き出して。
カップに残ったコーヒーをすすった。
「だってそうでもしないと、イヅルは私の結婚式に来ないでしょ?」
う。
確かに、面倒くさいと思って、断ろうと思っていた。
めでたいことはめでたいし、祝いたい気持ちもあるのだが。
……だが、アヤネ側の客席は代理店の華やかなメンバーがあつまり、学校の連中だってそうそうたる学歴が集うのだろう。俺みたいなペーペーの居場所なんてない。
そう思うと、気がひけるのだ。
「わかったよ。出席する。……その代わり、俺の席、みんなから離してくれよ」
「りょーかい。でもあんたも寂しくなるでしょ? 私も会社やめるし、長谷川くんも実家に帰っちゃうし……」
「……どういうことだ」
アヤネの視線は、まっすぐだった。
「……ごめん、聞かなかったことにして」
「言えよ」
「言えない」
「身体が悪いのか?」
「言うなって言われてるから」
「そういうことじゃないだろ!」
俺は思わずかっとなって、アヤネの腕を掴んでいた。
アヤネは顔を伏せて、肩をふるわせている。
……大人気なかった。
「悪い」
「ごめんなさい。でも、言ったらあなた、心配するでしょう?」
そういって、アヤネは――。
○
くそっ、くそっ。
くそっ!!
俺は電車に乗り、長谷川のアパートに向かっていた。
『イヅルが会社にこれなくなって』
『人が減ったのに、業務量は変わらないから』
『長谷川くんが、それを引き受けたの。
自分から言い出して』
どうして。
どうしてそんなことをしたんだ!
どうして、俺に何も言ってくれなかったんだ……。
『あなたが帰ってきてから』
『本当は元に戻るはずだったんだけど』
『……あなたの態度を見て、部長があなたに仕事をふれなくなったみたい』
『その矛先が、長谷川くんにむいて』
ああ、どうして気づいてやれなかったのだろう。
どうして自分のことばかり考えてしまったのだろう。
助けてくれる人間が。
守ってくれた人間が居たのに。
『病院に行ったけど、診断名はつかなくて』
『……精神科に通ってたらしいの』
そりゃそうだ。
どうしてあんなに顔色が悪い?
目が充血している?
長谷川は、寝ていなかったのではないか?
かんかんかんかん、と。
急ぎ足で階段を登って。
息を切らしながら。
俺は。
長谷川の部屋の前にたどりつく。
チャイムを鳴らし。
「おい、いるだろ! あけてくれ。
話が、あるんだ」
返事は、ない。
俺は数秒待って。
耐え切れずに、乱暴にドアノブをまわす。
案外にも、抵抗なくドアは開いて。
部屋の中はがらんどう。
最悪、自殺している可能性も考えていた俺は、少しだけ安堵のため息をつく。
6畳の畳の中心に。
長谷川が目を開いたまま、横になっているのを見つけた。
「おい、長谷川。大丈夫か!」
「……ああ、お前か」
長谷川は、億劫そうに、顔だけをこちらに向けた。
「悪いな。風邪、治らなくてさ。
実家に帰ることにしたんだ」
「……」
俺はこいつに。
何を言えばいいんだろう。
どうして教えてくれなかったのかと、なじるのか。
優しい言葉をかけてやればいいのか。
助けてやりたいと思うけれど。
俺は、無力だ。
長谷川をこんなにしてしまったのに。
……こいつを、助けてやることができない。
その言葉すら、見つけられない。
……。
俺は。
俺は?
ふ、と笑いが漏れる。
こんなときにも自分のことばかり。
違うだろ。
しっかりしろ。
俺なんてどうでもいいんだ。
長谷川のために。
してやれることを全部やればいいんだ。
魔法(奇跡)の基本は、「思うこと」から。
そう学んだはずだから。
「気にするなよ。空気が合わなかったんだろ?
お前は田舎生まれだからな」
「……ふ、そうかもな。
ああ、また山でも登りたいよ。
日出は冬山を登ったことはあるか?」
「ない。登りたいとも思わん。
寒いし、辛いじゃないか」
「……そういうなって。
気温が低くなるにつれて、音がなくなっていくんだ。
世界でこんな静かな場所があるのかって、驚くぜ。
登頂まで行くと、頭の中がすっきりして、自然と一体になったような気になれるんだ」
「……また、行けるといいな」
「行くさ。すぐにでも。
そしたらいっしょに行こうぜ」
「考えとく」
行って俺は。
……俺には、まだ。
やらなきゃいけないことがある。
○
「部長!」
部長は俺のあまりの勢いに、少し気圧されていた。
「長谷川の仕事を、全部俺にふってください」
「でも君はまだ通院中だし……」
「そんなこと……どうでもいい。
長谷川は辞めるんでしょう? 人手が必要なはずだ。
それともまた新たにスケープゴートを作りますか?
俺たちみたいに」
「そ、そんなつもりは……」
「長谷川の仕事のほとんどは、俺がやってきた仕事です。
引き継ぎも問題ないはずだ。今日から代わります」
言って。
俺は。
カタカタカタ、とパソコンのキーボードを叩きまくった。




