17 アニタと子爵領
目の前で、帳簿付けの補佐をしている、ジャンジャックに指示を出す。
ほんの少しのアドバイスで、すぐに理解するのは想像以上の能力だった。
ジャンジャックの顔の良さを利用して、客が増えれば良いくらいの感覚で雇ったが、良い方に裏切ってくれたのは、最近で一番の喜びだ。
「オドライ。このモルニカ、って名前は、領主の名前だよな?」
「ん? そうそう。何か気になることでも?」
「いや子爵家の買い物にしては、金額が少なくないか? 桁の間違いじゃないか?」
ああ、ジャンジャックをはこの領に来て、まだ大して時間が経っていないか。
「間違いじゃないぞ、ジャン。モルニカ子爵家はその──あまり裕福ではないからな」
「そうなのか?! でもこの子爵領は貧しい感じはしないし、領地はきちんと整備されているように思えるが」
「だからだよ」
疑問符を持ち続けるジャンジャックに、コーヒーを勧める。
「せっかくだ。うちで今後も働いて貰うには、その辺のことをしっかり知ってもらう必要がある。帳簿付けは少し休憩で、話をしよう」
俺の言葉に、ジャンジャックは帳簿の途中のところに印をつけ、ノートを閉じる。こうした小さなことを処理できるのも、事務方の技能の1つだ。
「モルニカ子爵家は代々、自分たちの生活よりも、領民の生活を第一に考えてくれている、ありがたい領主様だ」
「自分たちの生活よりも」
「ああ。子爵家の第一子であるアニタ様は、学園に通うお金を節約するために、奨学生となられた」
「貴族なのにか。それはすごいな。その、アニタ……ん? アニタ嬢と同じ名前だな」
その言葉に、俺はにやりと笑った。
「アニタちゃんとアニタ様は、同一人物だぞ」
思いがけないことだったのだろう。ジャンジャックは目を見開き、動きを止めた。
「え……。アニタ嬢が子爵令嬢? 学園に通っていた? え? もしかして同じ学園か? いや、いたか、あんな素晴らしい女性……」
なにやらブツブツと独り言を言っているが、何を言っているかは良く聞き取れない。まぁ大方「子爵令嬢だったら、結婚できない」とかだろう。
「アニタちゃんは、特に隠しているつもりもなさそうだけど、表だって言うつもりもなさそうだから、黙ってるけどな」
「そ……そうなのか。でも何故……子爵令嬢が小料理屋などを。しかも本人が料理をして」
「そこでモルニカ子爵家の、財政事情さ。子爵家は貧乏なことを喧伝はしないが、隠してもいない。というよりも、そのこと自体が、彼らにとって恥ではないからだろうな」
「恥ではない? 貴族なのに、貧しいことが?」
「だって、ギャンブルや贅沢で、身代を食い潰しているワケじゃないだろう。領民のために、優先的に金を使っているんだ。俺たち領民は感謝こそすれ、悪く言うつもりなんてない。彼らだって、それをわかっている」
ジャンジャックの表情が、どんどんと変わる。何かを考えているようだ。
「なぁ、領民からの税は問題なく、徴収できているんだろう? それでどうして」
「ジャンは国税の存在を知らないのか? 俺たちが出した税金から、国が決まった金額を持っていく。それは一律らしい。それで、うちの領地は小さいし、めちゃくちゃ名産物があるわけでもないから、国に税金を納めたあとに残るのは、そんなに多くないというわけだ。さらに、残った税金は領地のために、優先的に使ってくれている」
「国の税金」
「ああ、おかしなもんだぜ。何かあったときに、国が何をしてくれるってんだ。もちろん大きな枠組みでは、助けてくれる。だけど、最初に動かないといけないのは領主だ。俺たちにしてみれば、国税なんて、王族が自分たちが贅沢するために、金を集めているように思える」
「王族の贅沢」
「もちろん、外交をしたり、魔獣の大規模討伐なんかはあるぜ? だけど、王国の税金を一律にする必要はあるのか? 王族も国民第一にして、うちの領主様方みたいな生活は、できないのか? そうやって、俺たちが思っても、おかしくはないだろう」
こくり、とうなずくジャンジャック。今後うちの店でやっていくには、その辺のことをしっかり理解してもらわないといけない。特に、この領地に住む人間の考え方については。
「でだ。アニタちゃんだけどさ」
ジャンジャックが、ぱっと俺を見る。
「彼女が働いているのは、多分妹御の学費と、デビュタントのためのドレス、それから家の生活費なんかのためだと思う」
「生活費」
「子爵家では、奥方様と妹御は裁縫をして、市で売り出したりもしている。ただ、まとまった金を安定的に得るのは、難しいだろう」
「それで彼女が?」
「多分な。もしかしたら、他にも何かあるのかもしれないが、仕入れ値の安い肉を、上手に調理して販売しているのなんて、粗利をあげる手法だ。さすがは学園で、奨学生として学ばれたお嬢様だ」
少しだけ居を正し、ジャンジャックに改めて言う。
「なぁ、ジャン。おまえはアニタちゃんのことを、本当に好きなのか?」
「当然だ。彼女は、俺の女神だからな」
「おまえのその言い方が、信用ならないんだよな」
「そうか? 真面目なんだが」
「ジャンは本当に、不思議なやつだよ。ただ……。おまえが本当に、アニタちゃんのことを好きだと思うなら、もう一つきちんと考えてくれ。彼女の家には──つまり子爵家には、男児がいないんだ」
「ということは、婿入りということだな!」
脳天気な声が返ってくる。頭が痛くなりそうだが、そんなこと、考えたことがないのだろう。きちんと順を追って教えなくては。
「そうだけど、そうじゃなくて。彼女とつきあい、婚約し、婚姻を結ぶということは、子爵領を貰い受けるということだ。それは、俺たち領民の命を、全て預かるということ」
「領民の、命を」
思ってもいなかったのだろう。ジャンジャックの瞳に少しだけ、影が浮かぶ。
「子爵家には男児がいない。つまり彼女が跡取りだ。この国は、爵位を男児が優先的に相続することになってるが、いないときは長女が継嗣となる。彼女は婿養子を得て、その二人の子が次世代の子爵になる。婿養子の夫は、子爵配としてこの領地を、守らないといけないんだよ。そして領地を守るということは、そこに住む領民を守る、命を預かるということだ」
ジャンジャックは、そんな立場になったことがないだろう。もちろん俺だってないけど。
俺たちのような多くの平民は、当たり前だが、そんな立場になり得ないのだ。
「アニタちゃんのことを好きな、おまえの気持ちはわかるよ。俺だって、彼女のことは愛おしいと思う。でも、俺はそれでも今の立場を手放すことはできない。商店について、責任があるんだ。ジャン、おまえはどうだ? 彼女を大事に思う自分の気持ちだけじゃなくて、その先をきちんと考えておけよ」
俺の言葉に、考えるところが多かったのだろう。うなずきながら、一点を見つめているジャンジャックの肩をポンとたたく。
「三十分くらい、休憩にしておこう。あとでまた戻ってくるから、それまでゆっくりしていればいいさ」
「……ああ。ありがとう」
ジャンジャックを一人部屋に残し、俺はドアをあけた。




