墜ちる㕶星、拾う百萬星。 〜42
「連合スペースガード」から、世界を揺るがす声明が発せられた。
ただし、その内容などについて、一切、何の前触れもなかった訳ではない。
彼等が口を開いたのは、長い沈黙を守っていた末であると、少なくとも有識者達には認識されてた。
ーーー声明の発表を後へ後へと回せば回すほど、その内容は危険や波乱に満ちたモノとなると予想されていた。
時間を掛ければ掛けるほど、ラオスに於ける人民共和国の所業について精査すべき点が多かった。狡猾に隠蔽されていた。だから、声明を纏め上げるまでに長い時間を要した。
そう言う、ネガティブな証明に他ならないからである。
思考能力と言う、事実上の超能力を持ち合わせた人類の極少数派にとっては、やっと発せされた声明については「やっとか・・・」と言う感じで受け止められた。
だから、声明を発したタイミングとその内容のいずれついても、大して驚かなかった。むしろ、予定調和であると、すんなり受け入れられた。
しかし、大した能力も持ち合わせず、その上、本物の努力を発揮した経験を持ち合わせない人類の大多数派にとっては、声明を発したタイミングと内容のいずれについても青天の霹靂。
大変に驚いた。真顔で「マジか?」と呟いたり、口を大きく開けてぽかんとして見せた。そして、単純に驚いただけで、内容を理解した末に愕然としなかったのは、その次の展開がどんな未来像を描くか・・・想像するに足りる、知的と好奇心を持ち合わせていなかったからだ。
イロイロと他人任せが過ぎて、生存本能が相当に希薄になっているせいだから、とも言い直せた。これから自分を取り囲むだろう危機の連続を、他人事であるかの様に感じていたせいである。どうしてそうなったのかと言えば、強力すぎる社会福祉の弊害に求める事が出来る。
自分で考えなくても、社会がいつも問題を自動的に解決してくれる。だから、自身で能動的に為べき事は何もない。そんな価値観を先進国のに住む人類の大多数派を共有してしまっていた。
とは言え、価値観のピントがかなりズレていた御陰で、大多数派が脊髄反射で軽挙妄動に駆り立てられる事はなかった。
問題は、一般人ではなく、極少数派の一部の方で起こった。彼等は、特に人民共和国にいる者達は過剰反応してしまった。過度の絶望。過度の被害妄想。過度の対抗意識などなど。結果として、軽挙妄動に駆り立てられてしまった。
人民共和国にいる彼等は、思考能力と言う超能力を持ち合わせていた。だが、思考した結果を真正面から受け止めるだけの胆力を欠いていた。賢い人達の多くが共有している、一種の恐怖本能が分断本能を刺激した。
ラオス紛争を通じて、これまでに国内社会へ蓄積して来たダメージを語る数値を目にした事が最後のトドメとなった。簿記の技術が精一杯に詰め込まれた収支表は、破産レベルを突破して、更に遙か先を行っていた。
ーーーそれで心のバランスが崩れた。
正気からの徐々に逸脱し始めたのだ。いや、行動原理から正気の枠が取り払われたのだ。
人民共和国の新しい支配層は、正確には前任者がラオスで行った非正規活動の真相が世界中にバレてしまい、面子を失ったと感じた。別に、それらの活動が道徳的に間違っているとは思い付かなかったが、隠し通せるにならば隠しておきたかった。
一方で、民主主義国家群が揃って、自分達に非友好的である事に腹を立て、ラオスで行った非正規活動をネタに、阿片戦争時の様に酷い因縁を吹っ掛けて来るのではないかと疑った。
その疑いは歴史的なトラウマを酷く刺激した。最終的に、過大視本能までが起動し、過度な恐怖が人民共和国の新しい支配層の表彰意識を支配し始めた。
ーーーガクブルと言う反応だ。
大多数派である普通の人であれば、心配する程度で済ませただろう。まさか、ヤバイほどに過度な反応は示さなかっただろう。しかし、賢い人は我々と違って恐怖本能を遺伝子レベルで共有している。神経が我々よりもずっと過敏なのだ。
そして、恐怖を強く感じてる者同士が話し合えば、エコー・チャンバー効果で過度な反応を更に強めずにはいられない。
大多数派である普通の人と、思考能力と言う超能力を持ち合わせている少数派は考え方が異なる。だから、お互いを理解し合えないし、お互いの振る舞いが奇妙に見えたり馬鹿げて見えたりする。
真剣な会議を行うなら、賢者だけでなく、敢えて馬鹿者も一緒に参加させる意義はこの点にある。或いは、賢者にも馬鹿者にも「等しく一票」でなければならない理由はこの点にこそある。状況が変われば、賢者と馬鹿者の価値が逆に入れ替わる事も有り得るのだ。
少数派である賢い人達の代表。例えば、太平洋戦争期の後半、マンハッタン計画へと参加した科学者達。特に歴史に少しでも名前を残した者達は、明らかに変人・奇人が多かった。実際、後の世に生きる我々・大多数派は、彼等について、彼等が抱えていた誇大妄想や被害妄想や嗜好の確執やら何やらの、眉を顰めたくなる様な逸話をいくらでも掘り起こせる。
伝記を数ページ読むだけで、どうがんばっても、私生活を穏やかに暮らせそうには見えない。もし、そうであれば、サイコパス的反社会性を秘めていたんじゃないかと邪推したくなってしまう。
何なら、第二次世界大戦前後の歴史を飾った、合衆国の大統領や軍の将軍でもその異常性については同様だ。その異常性への不理解が、残される伝記やインタビューや逸話で「傲慢極まりなく、自己中心的だった」とか「○○の妄想に取り付かれていた」みたいに評価される。
しかし、我々・大多数派=凡人が群れて彼等の異常性を揶揄する事は、変人達が残した奇天烈な逸話以上に滑稽でもある(実際の所はお互い様と言うところかも知れない。彼等の方でも我々・凡人を大抵の場合は見下しているのだから)。何故なら、人間の能力と言うものは、個人レベルで多少の高低差はあるが、基本的にはステータスの割り振りで発揮される才能の大小が決まるからだ。
一時的に日本国を支配したG.H.Q.の親玉、ダグラス・マッカーサーは相当なマザコンで、自己中心的で、尊大で、本人以外には訳の分からない使命感を抱いて生きていた様だ。だが、その一方で太平洋戦争終結までに限れば極めて優秀な指揮官であり、統率力もピカイチであった様だ。
マッカーサー大元帥の場合、一人の人格の中に、駄目人間と天才的な人間が同居していたのだ。矛盾している様に見える両面は、決して切り離す事の出来ない。何故なら、それでやっと一人の人間であったからだ。そして、こう言うケースは別に珍しくない。結構、有り触れている。
自動車のエンジンの開発で、低速トルク重視傾向と高速出力重視傾向を両立する事は出来ない。それから、軽い車重で高い直進性の追求は不利だし、重い車重で高い旋回性能や急減速の追求は不利だ。マルチな特性を追求して開発すれば、かならず機能貧乏に陥る。
褌には短し、手拭には長し。
栃木県日光市のいろは坂の下りコースであれば、合衆国のマッスル・カーは日本の軽自動車に勝てない。逆に、登りコースであれば、日本の軽自動車は合衆国のマッスル・カーに勝てない(※1)。
人間も同じだ。
あちら立てればこちらが立たぬ
二足の草鞋を履く事は出来ない。
いろは坂の下りコースと登りコースの両方で最強の戦闘力を持つ自動車は、どうにも作り様がない。もちろん、同じ技術レベル同士であればだが。
委曲求全なんて、まず起こり得ない。
計算能力の才能があからさまに高い個体であれば、他のステータスがその分だけ欠如している例が多々見られる。他の才能であっても同じだ。天才がクズ・エピソードに困らないのも、多分ここら辺が原因だろう。
計算能力の才能があからさまに高く(見え)、社交性があからさまに低い個体。
何らかの能力の才能があからさまに高く(見え)、奇妙な拘りを信じられないくらいに捨てられない個体。奇妙な余りに、偏執的にすら見えてしまい、それが何かの儀式であると言う印象を与えてしまったりもする。
論点は二つ。
一つ目は、我々凡人は容易に替えや代えが効くが、才能があからさまに高い(とされた)個体の方はそうでもないと言う事。何故なら、彼等が人類の文化=文明と学問と社会の歴史を切り開いて来たからだ。もし、彼等が活躍しなければ、我々は現代でも毛皮などの服をまとって野生動物を追っ掛け回すだけの野外生活を続けていたに違いない。
(彼等が活躍しなかった方が良かったかも知れない。スマホとSNSが生み出す世界的な同調圧力に屈した弱者が、精神的に去勢されてしまう様な現代社会へ進歩するより、皆でドングリを拾って生きていた縄文時代の方が現代よりもずっと平和だったんじゃねーの? と言う意見もあるだろうから。)
例えば、先鋭的な能力の持ち主であると言う事は、平時にはだいたい素晴らしい個性である。しかし、非常時には取り返しの付かない選択をし易い。或いは取り返しの付かない選択を他者に強いる事が出来るくらいに、無駄に大きいパワーを持っているので大変に迷惑な個性となりえる。
二つ目は、評価する為の視点を変えれば、才能があからさまに高い(とされた)個体は、別のシーンではまったくの役立たずで我々凡人の方が高い才能を発揮すると言う事。例えば、我々が人生の伴侶に求めたいのは、核分裂を実行させるまでの作業を支える計算を担える「珍しい才能」ではなく、自分に対して優しさや共感を発揮してくれる当たり前の「社会性」である(※2)。
連日の残業で疲れ果てて帰宅した時に、家で出迎えてくれるパートナーを選べるなら、「珍しい才能」の持ち主と当たり前の「社会性」の持ち主のどちらが好ましいだろうか。そして、我々にとって、パートナーに日常的に求めたい癒やしは、"核分裂関係の証明作業の話題"と"慰めや励ましを意図した話題"のどちらだろうか。
だから、我々・凡人もそんなに捨てたものじゃない。世間から高く認められる才能を発揮出来ていなくても、別に気を落とす必要はない。どんまい。まいみーぱんはー。のーぶろぶれむ。さましあつあいな。
えー、つまり。何だ。これからこの物語の中で起こる、賢い人達の賢いとは言えない振る舞いの連続・積み重ねは実に不可避であって、仕方がない事で、諦めて受け入れてしまった方が問題解決への最短ルートを選べると言いたいだけである。
「連合スペースガード」から世界を揺るがす声明が発せられから約12時間後。
人民共和国・海南省周辺、例えば楡林基地が騒がしくなって来た。南海艦隊が突然にフルで活動を始めたせいである。
まずは、本土防衛用に温存しておいた戦力ではなく、定期整備を終えて訓練に備えていた攻撃原潜が、地下基地から公然の秘密のトンネルを抜けて、南シナ海の浅い深度をナマコが海底の泥を租借しながら進む様に、合衆国の情報衛星に温かく見守られながら、潜行を続けていた。
テストを含めた慣熟訓練をすっとばして、緊急作戦へと従事したのだ。
続けて、長大な桟橋に実っていた、全ての空母群艦艇が海に向かって解き放たれた。水上艦艇用ドックの方では、艤装の切り上げ作業を始めていた。乾ドックのいくつかでは注水が始められていた。
桟橋から離れた艦艇群の構成を見れば、人民解放軍・海軍が強襲着上陸艦艇群を組むつもりである事は明白だった。
これは、
紅い皇帝と紅い貴族の消滅。
「連合スペースガード」の声明。
2038〜9年に、人民共和国からの攻撃を躱すだけでなく、一時的な無力化を達成した"神懸かりの巫女"である朝間ナヲミの消滅に成功。
狭まりつつある民主主義国家群への苛立ち。
などなどへの反応であった。
朝間ナヲミの消滅の件は見込みであり、実際は誤認であった。だが、そう考えるしかなかった。
過去に不合理な力でボードゲームを容易にひっくり返して見せた、朝間ナヲミと言う不確定要素さえなければ、何事も力業で押し切れると言う戦略に基づいた計画が立てられるからである。そうでも考えなければ、作戦一つ立て様がなかった。
紅い皇帝と紅い貴族の消滅後に、人民共和国の舵取りを担わなければならない者達、新世代・白京政府は、生活苦、いや人生苦を訴える人民達の不満が限界まで高まっている事を十分に承知していた。
この巨大な国内問題の解決・解消どころか、緩和も事実上は不可能である事も明白だった。
(国体の維持を前提とすれば。唯一の正しい共産主義者の集まりである偉大なる党は、絶対に間違いを犯さない。)
人民共和国を取り囲む国外問題の解決・解消どころか、緩和も事実上は不可能である事も明白だった。
(国体の維持を前提とすれば。間違いを犯すのは、唯一の正しい共産主義者の集まりである偉大なる党に指導される人民の方である。)
前者は、人民から主体性を根刮ぎに奪う種類の奇妙な「主義教育」を貫いた事が招いた弊害だ。だから、人民の理性に訴えて、経済改革を行う間だけでも窮状に耐えて欲しい、みたいな指導を受け入れるだけの集団的な知性の発揮を期待出来なかった。
後者は、世界向けて全方面で喧嘩を売り過ぎた弊害だ。たった今自分達に対して拳を振り上げつつある敵者達と交渉する為に仲介者を求めようにも、そんな都合の良い強者との繋がりは全て切れていた。
都合の良い弱者との繋がりならば豊富に残っていた。だが、彼等との交際は、金銭と言う強力接着剤があってこそ成り立つ刹那的な付き合いである。金の切れ目が縁の切れ目。控え目に見ても追い詰められている人民共和国の白京政府に対して、好んで友情を発揮するバカはいない。むしろ、既に白京政府の陰口をたたきながら、民主主義国家群へ尻尾を振って腹を見せて横たわる程のラブコールを送っているに決まっていた。
誰にでも最低限の門戸は開いている筈の、カソード系ローマ教会も偉大なる党が、今となっては最悪の形で絶縁して久しかった。だから、宗教界を頼る選択も無くなっていた。
天井を突き破って落ちて来た「人民共和国の今」を担っている彼等は、既に八方塞がりである現状を瞬時に洞察出来るくらいには現実主義者であった。
紅い皇帝と紅い貴族達を怨みたい気持ちがたくさんあった。だが、将来的に自分達は次の紅い皇帝と紅い貴族達となりたいので、怨んでばかりもいられなかった。去った者から今の彼等が相続したのは、資産だけでなく借金も含まれていた。彼等の見立てでは、資産額の方が借金額を上回っていた。見積もりの正誤については、全てが終わった頃には明らかになるだろう。
白京政府は決断を下した。彼等にとっての忠実な僕である南天門要塞の守り手達に、台湾海峡を目指す航海を命じた。
とにかく、どうにかして、国内問題を国外問題へとすり替えるつもりだった。いや、付け替えるつもりだった。
社会状況を戦時へともって行けば、人民の意思を統一したり、気を引き締めたり、戒厳令を発する条件が整う。戦場はどこでも良かった。手っ取り早いと言う理由だけで、台湾民国を選んだ。実効支配されている二箇所の占領地だけを、再解放するつもりだった。
その程度の我が儘ならば、民主主義国家群も容認してくれると期待しての事だ。白京政府は、極めて平和的に戦いを始めて、周辺国に向けて、自分達が至極平和的であり、尚且つ受け入れ易い国家である事実をアピールする気概に満ちていた。
ーーー人民共和国の対する悪い印象は全て誤解である。全ては合衆国と日本国の隠謀に過ぎない。
気が狂っている様にしか思えないが、それが白京政府の嘘偽りない本音だった。
ーーーこれまでのラオスでの戦いは正義である。悪だと感じるなら酷い誤解である。
何と言う巨大な認識の違いだろうか。
人民共和国の中と外では、社会が支える文化と価値観が圧倒的に異なるらしい。
だが、仕方がない。白京政府の政治の椅子に新たに座って、何とかバカでかい国家を制御しようと頑張っている、思考能力と言う超能力を持ち合わせた人類の極少数派は、本気そう信じていた。そして、彼等の信じる事実を、外の世界の人々にも共有して欲しいと願っていたのだ。
これは「単純化本能」とか言われる、人類特有のエラーに違いない。
一つの問題を深く掘り下げ続けると、やがてその問題がどう言う訳か必要以上に重要であると信じてしまったり、深く掘り下げて発見した解決方法が奇妙な程に素晴らしく感じられてしまう傾向があるらしい。
それは、一つの問題や一つの解決方法に固執すると言う精神状態を作り出す。もし、集団がそれを共有してしまうと、もうどうしようもならない状態に陥る。
これは、銀河英雄伝説でロイエンタールさんが漏らした、自分達が「銀河の深淵に向かって滅亡の歌を合唱することに・・・」と言う最悪な状況を作るのに最適な温床である。
愚策は新たな愚策を呼び込み、負の連鎖を無限に生み続ける。
「単純化本能」に陥った人々の合い言葉は、「今すぐ手を打たなければ、取り返しのつかないことになる」である。
おい、待て。既に「取り返しのつかないこと」になっている。「今すぐ手を打」った所でどうにかなる程度に小さな問題ではない。
バカではないから、それくらいは分かっている。しかし、それでも止められない。
この状況に、一番最初に反応したのは台湾民国でも、他の民主主義国家群の国家でもなかたった。何と、同じ人民共和国、直轄市、最大の都市である上海だった。
これまで白京政府に嫌と言う程に痛め付けられて来た豊富な経験を持つ上海の人民は、白京政府に対して「No」を突き付けた。
ーーーオレはヤツラの一員ではない!!
ーーーワタシはヤツラの一員ではない!!
ーーーワレワレは、あんなヤツラの一員と思われたくない!!
上海の人民が、堪忍袋の緒として長年の間使われて来た太縄が、とうとう完全に打っ千切れたのだ。
直轄市「上海」は、要衝の地。東シナ海へと鈍く突き出す、正三角形っぽい長江デルタ。東シナ海を挟んだ対岸は九州と奄美諸島だ。大陸奥へと通じる水路の入り口でもある。
白京政府は、本気で怒り狂った。ついでに、ちょっとだけ泣いてしまった。
隣接する江蘇省と浙江省が、「見えない。聞こえない。喋らない」的な緩い反応しか見せないに至っては、怒髪が天を衝いてしまった。
直ちに。強襲着上陸艦艇群が二つに分けられ、その中の一つの行き先が東シナ海の西岸へと決められた。何故、黄海から刺客を送り込むよりも有効であると判断されたのはかは分からない。しかし、これが偉大なる党が下した指導だった。
どう言う訳か、足の速い空軍による、爆撃を伴う表敬訪問は見送られた。しかし、こちらはある程度の推測が可能だ。それは近隣にある人民解放軍・空軍の主力が、既にラオス戦線へと移動させられ、消耗された後だったせいだろう。
決して、上海・蕪湖鳩江へ配備された、空軍・精鋭部隊の第九航空旅団の旅団長が、上海民国臨時政府の首謀者に名を連ねていたからではない。
政治的に絶対に正しい「赤軍」は、常に間違っている敵に対して怖れを抱く程に愚かでない。からである。
そして、これはたった一つの切っ掛けに過ぎなかった。
人民共和国の全土で、偉大なる党が支配する領域のいたる所で、切っ掛けはそれぞれ別々で、個性的で、多様性に満ちていたが、結果だけならば上海で起こったイベントと同じ物語が始まった。
広まったのではない。全く異なる事件が、何の関係もないと言うのに、同時的に多発した。それぞれが異なる道筋を辿ったと言うに関わらず、「独歩」と言う願いへと集約されて行った。
もちろん、それに変化に対して抵抗する人民もいた。いや、むしろ、どうでも良いと考えている人民が最大数だった。だが、最大数である事が最大勢力である事は意味しない。彼等は事態の変化に積極的に関与したくなかった。だから、抵抗者と革命者と言う二つの勢力が、最大数の人民達を無視して、互いに最大勢力化を巡って競った。
そして、最大数の人民達は、その競争の勝利者=最大勢力化が掲げる方針を無条件で受け入れる事にしていた。
なお、抵抗者と革命者の競争へ参加するには、自分の命と言うコインを事前にベットする覚悟を必要だったとだけ、事実を添えておく。
決して、牧歌的な競争では済まなかったのだ。
※1= ただし、一般的なドライバーに運転させた場合。
※2= もし、毎日の食卓の話題が原子物理学であるなどの、やや特殊な家庭環境であれば、社会性以上に役立つんじゃないかと思う。




