秘密の拠点
フューズは、イリヤを背負ったまま黙り込んでいた。
頭の中は混乱でいっぱいだった。
こんな出来事、今まで経験したことがない。
アニメやゲームの中でしか見たことのないようなことが、今、自分の身に起きている。
しかも――。
背中にいるイリヤは、人間ではなかった。
裂けた皮膚の奥から見えるのは血肉ではなく、金属のフレームと淡く光る回路。
触れた感触も、人肌の温もりではなく冷たい機械だった。
だが、不思議と恐怖はなかった。
この時代、アンドロイドは人間社会に溶け込んでいる。
だからフューズも、完全に受け入れられないわけではなかった。
むしろ問題なのは――。
「……どうすればいいんだよ……」
病院へ連れていくべきか。
それとも、自分で修理するべきか。
だがフューズは、アンドロイドを修理した経験など一度もない。
「俺、こういうの全然わかんねぇんだけど……」
そんな時だった。
「心配するな。その女性なら助かる」
低い声が、前方から聞こえる。
顔を上げると、そこにはマスターが立っていた。
服は破れ、手には血が滲んでいる。
それでも本人は気にした様子もなく、いつもの軽い表情を浮かべていた。
「マスター……その怪我……」
「大丈夫だ。それより急ぐぞ。うちなら修理設備がある」
フューズは一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
今はイリヤを助けることが最優先だ。
「……わかりました。行きましょう」
「ああ」
二人は人気のない路地を進んでいく。
夜の東京には細かい雨が降り始めていた。
ネオンの光が濡れた道路に反射し、街全体が歪んだデジタル映像のように揺れて見える。
◇
一方その頃――。
リゼとテディは、高層ビルの屋上を飛び移りながら移動していた。
まるで忍者のように、静かに。
「リゼ、大丈夫か?」
「ええ、問題ありません」
リゼは風に髪を揺らしながら答える。
「でも、あの人間……なんだったんですか?」
「……」
「なぜ撤退したんです? 捕まえられたはずなのに」
テディはしばらく沈黙していた。
やがて低い声で答える。
「あの子は捕まえられない」
「……どうして?」
リゼは眉をひそめた。
テディほどの存在が、あそこまで警戒する理由が理解できない。
「あの少年には二つの問題がある」
「二つ?」
「一つ目は、あの力だ」
テディの赤い瞳が暗く光る。
「あれは既存のシステムでは説明できない。時代そのものを変えかねない力だ」
リゼは黙って聞いていた。
「そして二つ目は――“彼”の存在だ」
その瞬間。
テディの声がわずかに揺れた。
リゼは初めて、テディの中に恐怖のようなものを感じる。
「……“彼”って、誰ですか?」
「……」
テディは答えない。
代わりに小さく息を吐いた。
「今は知らなくていい。とにかく、あの力には近づくな」
リゼはそれ以上追及しなかった。
長い付き合いだからわかる。
これ以上聞いても、答えてはくれない。
「ああ、そうだ」
テディがふと思い出したように言う。
「情報提供者には礼を言っておけ」
「……はい、先生」
二人の姿は、そのまま東京の夜景の中へ消えていった。
◇
しばらく歩いたあと、フューズは一つの高級マンションの前で足を止めた。
「……ここ?」
「ああ、俺の拠点だ」
「えっ」
フューズは思わずマンションを見上げた。
どう見ても超高級物件だ。
まさかマスターがこんな場所に住んでいるとは思わなかった。
「……マスターって、金持ちだったんですか?」
「はっはっは! もっと尊敬してもいいんだぞ?」
「今ので逆に怪しくなったんですけど」
「ひどっ」
二人はエントランスを抜け、エレベーターへ入る。
「何階ですか?」
「Sフロア」
「……S?」
フューズはボタンを見回す。だが、どこにもS階の表示はない。
「マスター、そんな階ないですよ?」
「あー……そうだった」
マスターは黒いカードを取り出し、操作パネルの下へ差し込んだ。すると――。
エレベーターが動き始める。だが様子がおかしい。
「……え?」
途中で停止したかと思うと、今度は後ろへ動き出した。
「なっ!?」
さらに左右へ揺れながら進み始める。まるで空間そのものを移動しているようだった。
そして数秒後。静かな音と共に扉が開く。
その先に広がっていたのは――真っ暗な空間だった。
「ようこそ」
マスターが両手を広げる。
「SIRIUS CLANへ!」
「……いや、何も見えないんですけど」
「え?」
マスターが振り返る。
「……あれ?」
本当に真っ暗だった。
「おーい、誰かー!」
返事はない。マスターはため息を吐き、パンッと手を叩いた。
次の瞬間。部屋全体に光が灯る。
「……っ!」
フューズは目を見開いた。広い。とにかく広かった。白を基調とした空間。
中央には巨大なU字型ソファ。壁には映画館のような大型スクリーン。
さらに複数の扉が並び、まるで秘密基地のような雰囲気を放っていた。
「ルーム、返事しろ」
『はい、リーダー』
突然、機械音声が響く。
フューズは思わず周囲を見回した。
「今の声……誰ですか?」
「この施設の管理AIだ。名前は“ルーム”」
マスターはイリヤを指差す。
「メディカルポッドを準備して、彼女を修復してくれ」
『了解しました』
天井が開き、機械アームが伸びる。
そしてイリヤの身体を優しく持ち上げ、そのまま東側の部屋へ運んでいった。
「お、おい!?」
「安心しろ。ちゃんと治る」
フューズは少し迷ったあと、頭を下げた。
「……お願いします」
『最善を尽くします、ゲスト』
機械音声が静かに答える。
「さて」
マスターは自分の服を見下ろした。
「俺も着替えたいんだが……」
「いや、その前に説明してくださいよ」
「うーん……」
「待て、愚か者」
突然、別の声が響いた。フューズが振り返る。そこには、眼鏡をかけた男が立っていた。
綺麗に整えられた髪。鋭い目つき。冷たい雰囲気。
まるで人を寄せ付けない。
「誰だよあんた」
「桐早だ」
短く答える。その態度が妙に癪に障った。
「あと誰が愚か者だ!」
「お前だ」
「このっ――!」
「ああ、ちょうどいい!」
マスターが間に入る。
「桐早、フューズに説明してやってくれ」
「……なぜ私が」
「頼む。俺もう限界」
マスターはボロボロの服を引っ張って見せる。桐早は小さくため息を吐いた。
「……仕方ありませんね」
そしてフューズを見る。
「少し頭の弱い君にも理解できるよう説明してあげますよ」
「ケンカ売ってんのか!?」
「じゃ、あとは任せた!」
マスターは逃げるように南側の部屋へ消えていった。
「……なんなんだあの人」
「同感です」
桐早はソファへ座る。
「君も座ってください。立ったままだとうるさいので」
「絶対性格悪いだろお前……」
フューズも向かいへ座った。すると自動的にテーブルが開き、飲み物と軽食が現れる。
「……すげぇ」
「では質問をどうぞ」
桐早は冷静に言った。フューズは真剣な表情になる。
「全部だ」
「……」
「あの力は何なんだ。なんでセントが俺を襲った。黒服の奴らは何者なんだ。全部知りたい」
桐早は静かに目を閉じた。そしてゆっくり口を開く。
「その前に、一つだけ覚えておいてください」
「……?」
「私たちは君の味方ではありません」
空気が冷える。
「……は?」
「むしろ敵です」
フューズは眉をひそめた。
「だったらなんで助けたんだよ」
「それは私ではなく、あの紫頭に聞いてください」
「紫頭ってマスターのことかよ……」
フューズは頭を抱えた。訳がわからない。だが桐早は構わず続ける。
「“インターネット浄化事件”は知っていますね?」
「四年前の……?」
「ええ。全てはあそこから始まりました」
桐早の目が鋭くなる。
「RCB――《Real Computer Brain》。人類の脳とネットワークを直接接続する革命的技術」
「……」
「ですが同時に、人間の脳をネット汚染へ晒す危険な技術でもありました」
フューズはゆっくり頷く。
「だからネットを浄化した……?」
「その通りです。ウイルス汚染された情報が脳へ流れ込めば、人間そのものが壊れる」
桐早は静かに続ける。
「しかし政府は、やり過ぎた」
「……やり過ぎた?」
「ディープウェブにまで手を出したんです」
その瞬間。空気が変わった。
「ディープウェブ……」
「そこは我々ハッカーにとって、最後の領域でした」
桐早の声にわずかな怒気が混じる。
「ですが政府は強制浄化を開始。結果――一年間に及ぶ大規模サイバー戦争が発生しました」
フューズは息を飲む。学校では決して教えられない歴史。
「最終的に政府は勝利し、ディープウェブを封鎖した」
「……どうやって?」
桐早は少し黙る。その目に、怒りとも悲しみともつかない感情が浮かんでいた。
「理由は二つあります」
「二つ……?」
「一つは、世界最高峰のAI――《SAI》の存在」
そして。桐早はまっすぐフューズを見た。
「もう一つは――」
静かな声。だが、その言葉は重かった。
「キング・オブ・ハッカーズ。“HACK”の裏切りです」
フューズの心臓が大きく鳴る。
「……HACK……?」
桐早は目を細めた。
「そして、その人物こそ――」
短い沈黙。
「おそらく、君です」




