蜘蛛の糸を手繰る者
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アウグスト・フォン・ゲルトナーの逮捕から三日が経過した。
ヴァイスブルク公爵邸の離れに設けられた書斎には、淡い午後の光が窓から差し込んでいる。リーゼロッテは机に向かい、羊皮紙に記された報告書に目を通していた。銀灰色の髪が微かに揺れるたび、その薄紫水晶の瞳には冷徹な光が宿る。
「王太子派閥は相当動揺しているようですね、お嬢様」
エルザが紅茶を置きながら報告する。その声には、どこか楽しげな響きがあった。
「アウグスト様は取り調べで早々に口を割られたとか。他の貴族たちも、我先にと距離を置き始めております」
「蟻の巣に水を注いだようなものですわね」
リーゼロッテは報告書から目を離さずに呟く。その表情は穏やかな微笑みを湛えているが、目は笑っていない。
「しかし、これは序章に過ぎません。本当の標的はまだ健在ですわ」
エルザは軽く頷き、懐から別の羊皮紙を取り出した。
「マリアベル・エーデルシュタインについて、新たな情報が入りました。彼女が慰問していた聖ローレンツ孤児院——あの施設は六年前に廃院となっております」
「廃院……」
リーゼロッテの指が報告書の端で止まる。
「ええ。原因は運営資金の枯渇……表向きは。しかし、当時の院長が地方の村で隠居生活を送っていることが判明いたしました」
銀灰色の睫毛が持ち上がり、リーゼロッテの瞳に鋭い光が灯る。
「まだ生きていらっしゃるのですね。そして、わざわざ人目につかぬ場所に隠れている」
「何かを恐れているのかもしれません。あるいは——」
「口封じを恐れている」
リーゼロッテは静かに立ち上がった。パステルカラーのドレスの裾が床を撫でる。
「七人の子供が衰弱死した施設。マリアベルが慰問するたびに犠牲者が出た場所。その真実を知る者が、まだこの世にいる」
窓の外を見つめるリーゼロッテの横顔は、儚げでありながらも、どこか刃のような鋭さを秘めていた。
「エルザ、その村の場所は?」
「王都から馬車で二日ほど。リンデンブルクという小さな村でございます」
リーゼロッテは微笑んだ。しかしその笑みは、蜜のように甘く、毒のように危険なものだった。
「私自身が参りますわ。書面や伝聞では、真実は見えてきません」
離れの応接間に、レオンハルト・フォン・ヴァイスブルクが姿を現したのは、その日の夕刻のことだった。
漆黒の髪と深い紺碧の瞳——その端正な顔立ちは常のように無表情だったが、リーゼロッテを見つめる目だけは微かに揺れていた。
「地方へ行くと聞いた」
挨拶もなく切り出されたその言葉に、リーゼロッテは優雅に紅茶のカップを置く。
「まあ、もうお耳に入りましたの?」
「エルザから報告があった。お前が危険を冒そうとしていると」
リーゼロッテはエルザに視線を向けた。侍女は涼しい顔で「お嬢様の安全のためでございます」と言い切る。
「危険など——」
「ある」
レオンハルトの声は静かだが、有無を言わせぬ重みがあった。彼は応接椅子に腰を下ろすことなく、窓辺に立つリーゼロッテの傍まで歩み寄る。
「マリアベルを操る者がいるなら、お前の動きも監視されている可能性がある。王都を離れれば護衛の目も届きにくくなる」
「私は療養中の令嬢ですわ。地方の湯治場で静養することの、何がおかしいのでしょう?」
リーゼロッテは微笑みながら切り返す。しかしレオンハルトは眉一つ動かさなかった。
「俺を欺こうとするな。湯治場に行くつもりがないことは分かっている」
沈黙が流れる。
やがてリーゼロッテは溜息をつき、微笑みの仮面を僅かに緩めた。
「……直接、確認する必要がありますの。文書や報告だけでは、人の表情は読めません。本当のことを話しているかどうか——それは、目を見なければ分からない」
「なら俺も行く」
「なりません」
今度はリーゼロッテが遮った。その声は穏やかだが、はっきりとした拒絶が込められている。
「レオンハルト様が動けば、必ず目立ちます。今はまだ、私が動いていることを悟られたくありませんの」
レオンハルトの表情が僅かに歪む。それは彼にしては珍しい、感情の発露だった。
「……ならば、せめて護衛をつけさせろ。お前が気づかぬところで見守る者を」
リーゼロッテは彼を見上げた。紺碧の瞳と薄紫水晶の瞳が交錯する。
「……そこまでおっしゃるなら」
彼女は小さく頷いた。その仕草は、これまでの冷徹な策略家とは異なる、どこか人間らしい柔らかさを帯びていた。
レオンハルトの表情が僅かに和らぐ。
「無理はするな」
「私はいつでも、自分にできることしかいたしませんわ」
その言葉が、どこまで本心なのか——レオンハルトには分からなかった。しかし彼は何も言わず、ただ静かに頷いた。
翌日の早朝、リーゼロッテとエルザは王都を出発した。
質素な商家の馬車に乗り込んだリーゼロッテは、いつもの淡い銀灰色の髪を茶色の染め粉で隠し、地味な灰色のドレスに身を包んでいた。顔には軽い化粧を施し、頬には泣きぼくろまで描かれている。
「お嬢様、その姿……本当にご自分かと疑いたくなりますわ」
エルザが感心したように言う。彼女もまた、侍女服ではなく庶民の旅装に着替えていた。
「商家の未亡人、ベルタ・シュミット。夫の墓参りのために故郷を訪れる——これが今回の設定ですわ」
リーゼロッテは窓の外を見つめながら淡々と語る。街道沿いの風景が流れていく。王都の華やかさが遠ざかるにつれ、景色は素朴な田園地帯へと変わっていった。
「覚えておりますわ。しかし……」
エルザは言葉を選ぶように口をつぐんだ。
「何か?」
「いえ……お嬢様が自ら足を運ばれるのは、初めてのことかと思いまして」
リーゼロッテは微かに目を伏せた。
「いつもは貴女や協力者に任せていましたものね。でも今回は……私自身の目で確かめたいのです」
馬車が揺れる。窓から差し込む光が、リーゼロッテの変装した顔を照らす。
「あの孤児院で何が起きていたのか。マリアベルという少女が、どのようにして『聖女』になったのか。そして——」
彼女の声が、僅かに震えた。
「母上が政争に巻き込まれて殺された真相にも、いつか辿り着かなければなりません」
エルザは黙って主人の言葉を待った。
「母上は……道具として使われて。私と同じように」
馬車の外では、鳥の声が響いている。のどかな風景とは裏腹に、車内には重い沈黙が漂っていた。
「……いつか、必ず真相に辿り着いてみせます。しかし今はまず、目の前の敵から片付けますわ」
リーゼロッテは顔を上げた。その瞳には、再び冷徹な光が宿っている。
「マリアベル・エーデルシュタイン。彼女の仮面を剥がすための鍵が、リンデンブルクの村にあるはずです」
二日後の午後、馬車はリンデンブルクの村に到着した。
小さな村だった。石畳の道には雑草が生え、家々の壁は色褪せている。かつては賑わっていたであろう村は、今では老人たちが細々と暮らすだけの場所に変わっていた。
「あの家でございます」
エルザが指差したのは、村の外れにある質素な一軒家だった。藁葺きの屋根は傾き、庭には手入れの行き届かない花壇があった。
リーゼロッテは馬車を降り、深呼吸をした。商家の未亡人、ベルタ・シュミットとしての仮面を完璧に被り直す。
扉を叩く。
返事はない。
もう一度叩く。
「……どなたかね」
しばらくして、掠れた声が聞こえた。扉が僅かに開き、皺深い顔が隙間から覗く。白髪の老婆——かつての院長だろうか。
「突然のご訪問、申し訳ございません。私はベルタ・シュミットと申します。少しお話を伺いたいことがありまして」
リーゼロッテは丁寧に頭を下げた。しかし老婆の目は警戒心に満ちている。
「話?私は誰とも話すことなどないよ。お帰りなさい」
扉が閉まりかける。しかしリーゼロッテは諦めなかった。
「聖ローレンツ孤児院のことについて、お聞きしたいのです」
瞬間、老婆の顔が凍りついた。
「……帰りなさい」
声が震えている。それは怒りではない——恐怖だった。
「お願いいたします。私は——」
「あの頃のことは話したくない!誰に頼まれたか知らないが、私は何も知らない!」
老婆は叫ぶように言い、扉を閉めようとする。その目には、涙が滲んでいた。
リーゼロッテは扉越しに呼びかけた。
「マリアベルという少女を覚えていらっしゃいますか?」
返事はなかった。しかし扉が閉まる音も聞こえない。
老婆は、まだ扉の向こうにいる。
「あの施設で、子供たちが次々と衰弱していったこと。そして彼女だけが——」
「やめて……」
老婆の声は掠れていた。扉の向こうで、すすり泣く音が聞こえる。
「あの子のことは……話せないんだよ。話せば……私も……」
リーゼロッテは目を閉じた。この老婆は何かを知っている。そして、それを話すことを恐れている。誰かに脅されているのか——あるいは、過去に脅されたことがあるのか。
「……少しだけ、考えさせてください」
リーゼロッテは静かに言った。
「明日、また参ります。それまでに、お気持ちを整理していただければ」
返事はなかった。しかしリーゼロッテは、踵を返した。
翌朝、リーゼロッテは再び老婆の家を訪れた。
今度は手土産を持参していた。村の商店で買った焼き菓子と、温かいスープの入った壺。
扉を叩くと、昨日より早く返事があった。
「……また来たのかい」
老婆の声には、まだ警戒心が残っている。しかし昨日ほどの激しさはなかった。
「お話を聞いていただきたいのです。どうか、扉を開けてください」
長い沈黙の後、軋む音とともに扉が開いた。
老婆は痩せ細っていた。皺深い顔には深い疲労が刻まれ、目は虚ろだった。何年も、何かに怯えながら生きてきた者の目だった。
「……中へお入り。立ち話は疲れる」
質素な室内だった。壁には古い聖像画が掛けられ、棚には埃を被った書物が並んでいる。かつて孤児院を運営していた者の名残が、そこかしこに見られた。
リーゼロッテは椅子に腰を下ろし、持参した品を老婆に渡した。
「あなた……本当は何者だい」
老婆は焼き菓子を見つめながら呟いた。
「商家の未亡人なんて嘘だろう。その物腰、言葉遣い——貴族の娘だね」
リーゼロッテは微笑んだ。
「鋭いですわね」
「孤児院で何十年も子供を見てきたんだよ。人を見る目くらいある」
リーゼロッテは深呼吸をした。そして、仮面を一枚だけ外した。
「私の母は——エリーゼ・フォン・シュヴァルツェンと申しました」
老婆の目が見開かれた。
「エリーゼ……様……」
その名前を聞いた瞬間、老婆の全身から力が抜けたように見えた。彼女は椅子の背にもたれかかり、震える手で顔を覆った。
「あの方の……娘……」
「母をご存知なのですか?」
「知っているとも。いや……忘れられるはずがない」
老婆の目から、涙が溢れ出した。
「エリーゼ様は……私たちの恩人だった。孤児院が苦しかった時、何度も支援を送ってくださった。病気の子供たちを、ご自身の手で治療してくださったこともあった」
「母が……やはり」
リーゼロッテの声は静かだった。断片的な情報から推測していたことが、今、確証となった。
「優しい方だった。本当に優しい方だった。あの方のような人が……なぜ……」
老婆は嗚咽した。リーゼロッテは静かに待った。
「……あの方には恩がある。あの方の娘だというなら……話そう。全てを」
老婆は涙を拭い、震える声で続けた。
「マリアベルのことを。あの施設で起きた……地獄のような日々のことを」
老婆の名はグレーテルといった。
彼女は震える手で茶を淹れながら、遠い目をして語り始めた。
「マリアベルがうちに慰問に来るようになったのは……八年ほど前だった。男爵家の養女になったばかりの頃だよ。孤児院出身の子供たちを励ましたいと言ってね」
「どのような様子でしたか?」
「最初は……可憐な少女だった。いや、今思えば最初から可憐に『見せていた』だけかもしれないね。控えめで、子供たちに優しく接して」
グレーテルは茶碗を握りしめた。
「変わり始めたのは……三回目の慰問の後だった」
「変わった?」
「うちの子供たちが、次々と体調を崩し始めたんだよ。最初は風邪かと思った。でも違った。熱は出ない。咳も出ない。ただ——衰弱していく」
リーゼロッテは静かに聞いていた。エルザは傍らで控えながら、一言も漏らさぬよう記憶に刻んでいる。
「生命力が……吸い取られていくようだった。元気だった子が、みるみる痩せ細っていく。目から光が消えていく」
グレーテルの声が震える。
「七人だよ。七人の子供が、二年の間に衰弱死した。私は——どうすることもできなかった」
「その間、マリアベルは?」
「あの子が慰問に来るたびに……子供が一人衰弱するたびに、マリアベルの髪はより艶やかに、肌はより輝いて見えた。そして——ある日、あの子が『奇跡』を起こした」
「奇跡……」
「怪我をした子供の傷を、手をかざすだけで治したんだよ。でも私には分かった。あれは奇跡なんかじゃない」
グレーテルは唾を飲み込んだ。
「他の子供から吸い取った生命力で、傷を塞いでいただけだ。あの子は——奪う者だった。与える者ではなく」
リーゼロッテの表情は変わらなかった。しかしその瞳の奥には、冷たい確信の光が灯っている。
「それを調べようとなさったのですね」
「ああ。でも——」
グレーテルは首を振った。
「調べる前に、男爵夫人が押しかけてきた。そして翌日——」
グレーテルの声が途切れた。
「翌日?」
「孤児院に、莫大な寄付金が届いた。そして、一通の手紙も」
老婆は震える手で、棚から古い封筒を取り出した。
「『これ以上詮索すれば、貴女も子供たちと同じ運命を辿る』——そう書いてあった。その後、孤児院は廃院に追い込まれた。資金枯渇なんて嘘だよ。私が黙るまで、あらゆる手段で締め上げられたんだ」
リーゼロッテは手紙を受け取り、そっと開いた。
古い羊皮紙には、流麗な筆跡で脅迫の言葉が記されている。署名はない。しかし羊皮紙の質、インクの種類——全てが、これが庶民の手によるものではないことを示していた。
「この手紙の差出人は……」
「分からないよ。でも——」
グレーテルは声を潜めた。
「マリアベルの養母である男爵夫人は……王宮の誰かと繋がっていた」
「王宮……」
「あの女が去り際に言ったんだよ。『この子は王宮で大きな役目を果たすことになる』とね。それだけは、はっきり覚えている」
リーゼロッテは手紙を懐にしまった。
「他に覚えていらっしゃることは?」
「……一つだけ」
グレーテルは窓の外を見つめた。夕暮れの光が、彼女の皺深い顔を照らしている。
「あの男爵夫人……手に、珍しい指輪をしていた。銀の蔦が絡み合う意匠でね。あれは——」
老婆は言葉を切った。何かを思い出そうとしているようだった。
「どこかで見たことがある気がするんだよ。でも、思い出せない……」
「十分ですわ」
リーゼロッテは立ち上がった。そして深々と頭を下げた。
「貴重なお話をありがとうございました。母に代わって、お礼を申し上げます」
「待ちなさい」
グレーテルがリーゼロッテの手を掴んだ。
「エリーゼ様の娘……お名前は?」
「リーゼロッテ。リーゼロッテ・フォン・シュヴァルツェンですわ」
グレーテルの目に、複雑な感情が浮かんだ。
「あなた……復讐するつもりだね。あの聖女に」
リーゼロッテは答えなかった。ただ、微笑んだだけだった。
「……気をつけなさい。あの子の後ろには、恐ろしい者がいる。私のように……口を封じられないよう」
「ご心配なく」
リーゼロッテの声は、穏やかだが冷たかった。
「口を封じられるのは——私ではありませんわ」
老婆の家を出ると、既に日は傾いていた。茜色の空の下、リーゼロッテは歩きながら考え込んでいた。
王宮の誰かがマリアベルを送り込んだ。禁術の力を持つ少女を、わざわざ貴族の養女として育てた。そして今、彼女は王太子の婚約者になろうとしている。
「お嬢様」
エルザが傍らで呟いた。
「黒幕は……王妃様ではないでしょうか。男爵夫人は王妃様の遠縁にあたりますし」
「その可能性は高いですわね」
リーゼロッテは空を見上げた。
「しかし、まだ確証がありません。慎重に動く必要があります」
馬車が待つ場所へ向かいながら、リーゼロッテは唇を引き結んだ。
敵は想像以上に大きい。しかし——だからこそ、落としがいがある。
帰路の馬車の中、リーゼロッテは窓の外を流れる風景を見つめていた。
夕暮れが地平線を赤く染め、やがて紫へ、そして藍へと変わっていく。二日間の旅で得た情報を、頭の中で整理していた。
その時——
懐の魔道具が微かに震えた。
「魔法通信ですわね」
リーゼロッテは小さな水晶玉を取り出した。公爵邸を発つ前に、レオンハルトから渡されたものだ。緊急時の連絡用にと。
水晶玉に魔力を注ぐと、レオンハルトの低い声が響いた。
『リーゼロッテ。無事か』
「ええ、問題ありませんわ。何かありましたの?」
『王宮で動きがあった』
レオンハルトの声は、いつもより硬かった。
『聖女が正式に王太子の婚約者として発表されるらしい。来週の王宮舞踏会で、公式に宣言されるとのことだ』
リーゼロッテの唇が、微かに吊り上がった。
エルザが心配そうにこちらを見ている。しかしリーゼロッテは、むしろ愉快そうに笑っていた。
「まあ……随分と急いでいらっしゃいますこと」
『アウグストの逮捕で焦っているのだろう。派閥の結束を固めるために、婚約を急いだと見ていい』
「焦る者は、足を滑らせますわ」
リーゼロッテは窓の外に目を向けた。闇の中に、最初の星が瞬き始めている。
「蜜壺に飛び込む蝶々ですわね」
少し間を置いて、彼女は言い直した。
「……いえ、蛾かしら」
『リーゼロッテ?』
「何でもありませんわ。レオンハルト様、情報をありがとうございます。明日には公爵邸に戻ります」
『……分かった。気をつけて戻れ』
通信が切れた後も、リーゼロッテは水晶玉を握りしめたままだった。
「お嬢様」
エルザが静かに問いかける。
「これで、マリアベル様は正式に王太子妃候補となりますわね。没落した時の衝撃は——」
「より大きくなる」
リーゼロッテは水晶玉を懐にしまい、微笑んだ。
「高く昇った者ほど、落ちる時の音は響きますわ」
馬車は闇の中を走り続ける。王都への帰路、リーゼロッテの脳裏には、これから起こる全ての筋書きが描かれていた。
「マリアベル様は今、最も輝いているでしょう。王太子の愛を得て、聖女として崇められて。まさに絶頂ですわね」
彼女は目を閉じた。
「でも——絶頂の次に来るのは、転落だけですの」
エルザは黙って頷いた。主人の言葉を、一つも疑うことなく。
夜空には、満天の星が輝いていた。その冷たい光の下、復讐の糸車は、確実に回り続けている。
そしてリーゼロッテの脳裏には、老婆が最後に告げた言葉がこだましていた。
——マリアベルの養母である男爵夫人は、王宮の誰かと繋がっていた。
その『誰か』の正体が明らかになる時、聖女の仮面は完全に剥がれ落ちるだろう。そして——その者もまた、相応の報いを受けることになる。




