父への断罪
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ヴァイスブルク公爵邸の離れに設けられた書斎には、淡い午後の光が差し込んでいた。窓辺に置かれた白百合が、かすかな芳香を漂わせている。
リーゼロッテは革張りの椅子に深く腰掛け、エルザが差し出した報告書に視線を落としていた。銀灰色の髪が肩を滑り落ち、薄紫水晶の瞳が文字の上を静かに追う。
「お嬢様、予想通りの展開でございます」
エルザの声は、いつも通り淡々としていた。しかしその茶色の瞳には、五年間の準備が実を結びつつある確かな手応えが宿っている。
「王太子殿下の没落に伴い、シュヴァルツェン伯爵——いえ、お父上の立場も急速に悪化しております。王太子派閥への深い関与、不正な資金の流用……次々と明るみに出ているようですわ」
リーゼロッテは報告書から顔を上げなかった。その表情には、微塵の驚きも浮かんでいない。
「しかし、お父上はまだ抵抗を諦めていないようです。新たな策を練っているとの情報が」
「……精神異常」
リーゼロッテが静かに呟いた。その声は、氷のように澄んでいた。
「え?」
「父上の新たな策でしょう? 私が精神を病んでいると主張し、後見人を立てる。そして伯爵家の財産を——私の手から奪い取る」
エルザは一瞬目を見開いたが、すぐに苦笑を浮かべた。
「……流石でございます、お嬢様。情報網の報告より早くございますわ」
「修道院への幽閉が失敗した以上、次に父上が打つ手は限られていますもの」
リーゼロッテは報告書を机に置き、窓の外へ視線を移した。穏やかな春の庭園が広がっている。かつて母と歩いた、あの庭とよく似た景色。
「娘の精神異常を訴え、法的に無力化する。父上らしい、実に父上らしい手段ですわ」
「お嬢様……」
「でも——それは、想定内ですわ」
リーゼロッテの唇が、ゆるやかに弧を描いた。それは蜜のように甘く、そして毒のように冷たい微笑。
椅子から立ち上がり、書斎の奥へと歩みを進める。本棚の一角——古い魔道書が並ぶその隙間に、彼女の細い指が伸びた。
「お嬢様?」
「見ていてちょうだい、エルザ」
指先が特定の本の背表紙に触れた瞬間、かすかな魔力の波動が走った。本棚の一部が音もなくスライドし、隠し収納が姿を現す。
その中には、厳重に封印された革の束が収められていた。
リーゼロッテはそれを取り出し、机の上に広げる。黄ばんだ羊皮紙の束、インクの染みが滲んだ帳簿、そして——王宮の紋章が刻まれた封筒の数々。
「これは……」
「伯爵家の裏帳簿よ」
リーゼロッテの声は、感情を完全に排した冷徹なものだった。
「五年前から、密かに作成していたの。父上の横領の記録、脱税の証拠、王太子派閥への不正な資金提供……全てが、ここに」
エルザは息を呑んだ。帳簿に記された数字の羅列、取引先の名前、日付——それらは全て、シュヴァルツェン伯爵家の闇を白日の下に晒すに足る証拠だった。
「婚約期間中、お嬢様はずっと……」
「ええ。従順な婚約者を演じながら、父上の書斎に出入りする機会を作っていたの。王太子への報告という名目でね」
リーゼロッテは帳簿のページをめくり、ある箇所で手を止めた。
「そして——これが、最も重要な証拠」
彼女が示したのは、一枚の古びた領収書だった。王宮の調合師——特殊な毒物を扱う専門家への支払い記録。日付は、五年前。
母が亡くなる、二ヶ月前。
「母上を殺した毒は、王宮の調合師にしか作れない特殊なものだった」
リーゼロッテの声が、わずかに震える。しかしすぐに、その震えは氷の下に沈められた。
「そして父上がその調合師と密会していた記録も、全て揃っているわ。日時、場所、支払った金額……逃れようのない、完璧な証拠」
エルザは深く頭を下げた。
「五年間、お傍でお仕えしてまいりましたが……お嬢様の周到さには、改めて感服いたします」
「あら、エルザ。貴女も共犯者でしょう? 貴女の情報収集なくして、これらの証拠は揃わなかったもの」
「もったいないお言葉です。では、いよいよでございますね」
「ええ」
リーゼロッテは証拠の束を丁寧に革袋に収めた。その手つきは穏やかだが、瞳の奥には五年分の憎悪と決意が渦巻いている。
「父上との、最後の対決よ」
書斎を出たリーゼロッテは、正面玄関へと向かった。春の午後の陽光が、白い回廊を金色に染めている。
玄関の扉を開けようとした、その時だった。
「待っていた」
低い、けれど響きの良い声が、背後から届く。
リーゼロッテは振り返った。そこには、黒を基調とした装いに身を包んだ長身の青年が立っていた。漆黒の髪、深い紺碧の瞳——レオンハルト・フォン・ヴァイスブルク。
「レオンハルト様……」
「伯爵邸に向かうのだろう」
彼は、問いの形ではなく、確信をもって言った。その無表情な顔に、普段は見せない強い意志が宿っている。
「……ええ。でも、これは私と父の問題ですわ。貴方まで巻き込むわけには——」
「前にも同じことを言ったな。あの晩餐会の時も。結果、お前は一人で危険な目に遭った」
「あれは……」
「今度は断らせない」
彼の声は穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「お前の復讐だ。お前自身が決着をつけるべきだということは分かっている。だが、護衛として傍にいることくらいは許せ」
リーゼロッテは、しばし沈黙した。彼女は本来、一人で全てを成し遂げようとする性質だった。誰かに頼ることは、弱さの証だと——幼い頃から、そう信じてきた。
だが、この男は違う。
復讐を止めようともせず、かといって無責任に背中を押すでもなく。ただ静かに、彼女の傍で見守り続けてくれた。
「……貴方は、本当に頑固な方ですわね」
レオンハルトの唇が、かすかに緩んだ。
「お前ほどではない」
「まあ」
リーゼロッテは思わず小さく笑った。五年間、誰にも見せなかった——柔らかな、少女らしい笑み。
「……分かりましたわ。護衛として、同行していただきます。ただし、書斎での対決は私に任せてくださいませ。父上を追い詰めるのは——私でなければ、意味がないのです」
「分かっている。お前が自由になるまで、俺は傍にいると決めた。それだけだ」
二人は馬車に乗り込み、シュヴァルツェン伯爵邸へと向かった。
シュヴァルツェン伯爵邸は、春の陽光の下でさえ、どこか陰鬱な雰囲気を纏っていた。灰色の石造りの外壁、蔦に覆われた塔、手入れの行き届かなくなった庭園——没落の兆候をそこかしこに滲ませている。
「状況が変わったな。前に来た時とは、明らかに空気が違う」
「ええ。前回は、父上の命令で呼び出された敗者でしたわ。でも今は——勝者として、乗り込むのです」
書斎に通された二人の前に、ハインリヒ・フォン・シュヴァルツェンが座っていた。銀灰色の髪に冷たい灰色の瞳を持つ、五十代の痩せぎすな男。かつての威厳は見る影もなく、その顔には焦りが滲んでいる。
「何用だ。公爵家の嫡男殿まで連れて、何のつもりだ」
「ご挨拶ですわ、父上。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりですわ」
「戯言を。お前が来た理由など分かっている。王太子の件で、私まで巻き込むつもりか」
「まあ、巻き込むだなんて、人聞きの悪い。父上ご自身が、進んで巻き込まれていらしたのでしょう?」
リーゼロッテは一歩、また一歩と執務机に近づいた。その足取りは優雅で、しかし確実に、追い詰める者の歩みだった。
「父上——もう終わりですわ」
彼女は懐から革袋を取り出し、中身を机の上に置いた。
「これは伯爵家の裏帳簿。父上の横領の記録、脱税の証拠、王太子派閥への不正な資金提供……全て、貴方ご自身の筆跡で記されているもの」
ハインリヒの顔が強張った。
「何のつもりだ。お前の作り物だろう」
「作り物? 父上。私が五年間、何をしていたかお忘れですの?」
リーゼロッテは一枚の古びた領収書を取り出した。
「王宮の調合師、グリューネヴァルト氏への支払い記録ですわ。日付は五年前——母上がお亡くなりになる、二ヶ月前」
ハインリヒの顔から、わずかに血の気が引いた。
「母上を殺した毒は、王宮の調合師にしか作れない特殊なものでした。『翠玉の吐息』——摂取後数週間で内臓を蝕み、原因不明の病死に見せかける。王宮でも限られた者しか調合できない、禁制の毒物」
「何を……」
「そして父上がその調合師と密会していた記録も、ここにありますわ。前回の晩餐会で、父上はおっしゃいましたわね。『母と同じ運命を辿らせる』と。あの時、私は確信しました。長年の疑惑が、確信に変わったのです」
リーゼロッテの薄紫水晶の瞳が、氷のような光を放つ。
「父上——貴方が、母上を殺したのですわね?」
ハインリヒの全身から、力が抜けていった。
「……お前は、いつから……いつから、こんな……」
「いつから、ですか。母上を亡くした日から——ずっと、ですわ」
「お前は化け物だ。人の心を持たない、恐ろしい……」
「化け物」
リーゼロッテは、その言葉を静かに繰り返した。そして——微笑んだ。
「化け物を育てたのは、誰でしょうね?」
その言葉が、書斎の空気を凍らせた。
「私は十五歳まで、普通の令嬢でしたわ。母上に愛され、母上を愛していた。ただそれだけの、普通の令嬢。でも父上、貴方は母上を殺した。そして私を——母を亡くしたばかりの十五歳の娘を——王太子の婚約者候補として差し出した。感情を持つ人間としてではなく、家の道具として」
リーゼロッテの瞳が、冷たく父を射抜く。
「私を化け物に変えたのは、父上ですわ」
ハインリヒは椅子に崩れ落ちた。沈黙が、書斎を支配する。
やがて——彼がゆっくりと顔を上げた。
「……そうか。全て、終わりか」
その手が、机の引き出しへと伸びる。
引き出しから取り出されたのは——一振りの短剣だった。象牙の柄に、伯爵家の紋章が刻まれている。
レオンハルトが即座に動いた。リーゼロッテの前に出て、ハインリヒとの間に割って入ろうとする。
「待ってください」
しかしリーゼロッテが、静かに手で彼を制した。
「リーゼロッテ——」
「大丈夫です」
彼女の視線は、父の手にある短剣に注がれていた。そして——その刃が向けられている先に。
「父上。その短剣は、私に向けられていませんわね」
ハインリヒの手が、震えていた。短剣の切っ先は、娘ではなく——彼自身の胸に向けられている。
「全てを失った。地位も、名誉も、何もかも。お前に……お前のような娘に……」
「逃げるおつもりですか」
リーゼロッテの声が、鋭く書斎に響いた。
「死んで——全てから逃れるおつもりですか、父上。母上を殺し、私を道具として扱い、王太子派閥と結託して不正を重ね……そして最後は、自ら命を絶って逃げる。それが——貴方の選んだ結末ですか?」
ハインリヒの瞳が、揺れる。
「黙れ……」
「随分と、楽な道をお選びですわね。けれど——私は許しませんわ」
リーゼロッテは静かに歩み寄り、震えるハインリヒの手から短剣を奪い取った。
「死んで逃げることは許しませんわ、父上。貴方には——裁きを受けていただきます」
「……裁き、だと」
「ええ。王宮の法廷で、全ての罪を公にされ、証人たちの前で断罪される。王太子派閥との不正、横領、脱税——そして、妻への毒殺。伯爵位は剥奪され、シュヴァルツェン家の名は断絶するでしょう。貴方が守ろうとしたもの全てが、貴方自身の手で潰えるのです」
リーゼロッテは声を落とした。
「そして何より——母上の前で、全ての罪を認めていただきます。母上の墓前で、貴方は跪くのです。妻を殺した罪を認め、許しを乞う——たとえその許しが、決して与えられないとしても」
ハインリヒの瞳から、最後の光が消えていく。
「……お前の、勝ちだ。完全な……勝ちだ」
「レオンハルト様。王宮に連絡を。シュヴァルツェン伯爵が、出頭の意思を示していると」
「分かった」
レオンハルトが書斎を出て行った後、父と娘だけが残された。
「……なぜだ。なぜ、エリーゼを……と、お前は聞かないのか」
リーゼロッテは窓辺に立ち、外を見つめた。
「聞いても、意味がありませんわ。どんな理由があったとしても——母上が殺されたという事実は変わらない。私が道具として扱われたという事実も。理由を知ったところで、私の心は救われませんし——貴方への怒りも消えませんわ」
そして彼女は、最後にこう告げた。
「さようなら、父上」
その声には、もはや憎しみすらなかった。ただ、決別の言葉だけがあった。
廊下に出ると、レオンハルトが待っていた。
「終わったか」
「……ええ。終わりましたわ」
その薄紫水晶の瞳には、かすかな疲労が滲んでいた。しかし同時に——長年の重荷が、ようやく下りたような、解放の光も宿っている。
「帰りましょう」
レオンハルトが、そっと彼女の手を取った。温かい。彼の手は、温かかった。
「……ええ」
二人は並んで歩き出した。没落の足音が迫る伯爵邸を後に——春の陽光の中へ。
復讐の、最後のピースが嵌まった。あとは——全てを見届けるだけだ。




