見限りは静かに——十五年、約束の席に立ったのは私だけ。対の時計を返した日から、あの家の隣は空席です
【祝いの朝・玄関の間】
二つの懐中時計を順に耳へ当てると、針音はわずかにずれていた。アウレリアは蓋を開き、自分の時計の分針を先に進め、それから対になったもう一つの竜頭へ指をかけた。
階上で扉の閉まる音がした。二つの針が重なったところで、クレメントが玄関の間へ下りてきた。
「行けない」
手袋をはめながら、それだけを言った。アウレリアは時計を閉じ、二つとも掌へ載せた。
「先方では、あなたのお席も整えられております」
「君が立てばいい。先方も、そのつもりで待っているだろう」
今日待っている老夫婦は、クレメントが幼い頃にひと夏を過ごした家の者だった。夫の好んだ焼き菓子を今でも祝いの卓へ載せる人たちで、前の祝いでは、次こそ本人を連れてくるようにとアウレリアの手を二度握った。
クレメントは外套を受け取り、袖口を直した。出かける支度ではあったが、アウレリアと同じ馬車に乗る支度ではないらしい。
「約束の席には、二人で立つものですのよ」
「大叔母上にも、うまく言っておいてくれ」
返事になっていない言葉は、十五年のあいだに角を失っていた。アウレリアは夫の時計を小さな革袋へ収め、自分の時計と並べて腰へ下げた。
婚礼の日、二人の掌へ対の時計を置いたのはペトロネラだった。祝いにも弔いにも、夫婦のどちらか一方しか立てぬときは、もう一方の時計も携える。それが二人で交わした取り決めであり、ペトロネラはその場で二つの針を確かめていた。
取り決めを口にする者は、もういない。アウレリアが朝ごと二つを合わせるので、誰も確かめる必要がなかった。
「帰りは遅くなる」
クレメントはそう言い残し、先に外へ出た。玄関前には別々の馬車が二台待ち、彼は後ろを見ずに片方へ乗り込んだ。
アウレリアは残った馬車の前で一度立ち止まった。御者は扉を開けたまま、彼女の隣にもう一人が来るのを待っている。
「参りましょう」
腰を下ろすと、革袋の中で二つの時計が触れた。重なった針音は、馬車が走り出してもしばらく聞こえていた。
祝いの家では、玄関まで老夫婦が出ていた。夫の姿を探して伸びた首が元へ戻るより早く、アウレリアは二人分の祝辞を述べ、クレメントの幼い日の話を聞き、彼なら笑うところで代わりに口元を和らげた。
帰り際、老婦人は包みを二つ持たせた。一つにはアウレリアの好む薄い焼き菓子を、もう一つにはクレメントが昔好んだ菓子を入れたという。
「今度は、伯爵もご一緒に」
「ええ。お言葉を伝えます」
老婦人の手は、馬車の扉が閉じるまでアウレリアの指に重なっていた。
* * *
【弔いの帰り・辻】
雨上がりの辻で馬車が止まったとき、道の向こうからクレメントの笑い声がした。弔いの家で一日低い声だけを聞いていた耳には、それが石壁を跳ねてよく届いた。
アウレリアは黒いヴェールの端を上げた。明るい窓の並ぶ建物の軒下に夫がいて、数人と肩を並べていた。胸元へ身を寄せて何かを言った者に、彼はもう一度声を上げて笑った。
御者が馬をなだめているあいだに、向こうの一団が通りを渡ってきた。アウレリアは庇の柱の陰へ半歩下がった。黒い衣装とヴェールの前を、クレメントは目を向けずに通り過ぎた。
風が彼の外套の裾を持ち上げた。襟から、祝いの卓に飾られる白い花の香りがした。
呼べば届く距離だった。アウレリアは柱へ添えていた手を下ろし、革袋から夫の懐中時計を取り出した。
蓋を開く。針は朝に合わせた刻から、少しも遅れず進んでいた。
辻の先で、クレメントがまた振り返った。連れの誰かを待っただけで、黒いヴェールの女には視線を留めなかった。
「奥様、道が空きました」
御者の声に、アウレリアは時計を閉じた。馬車へ戻ると、座席には弔いの家から預かった香草の匂いが残っていた。
自分の時計も取り出し、二つをもう一度だけ耳へ当てた。朝に揃えた音は、まだひとつに聞こえた。
屋敷へ戻ったのは日が落ちてからだった。玄関の間にはクレメントの外套が掛けられており、白い花の香りがそこまで先に帰っていた。
「弔いは済んだか」
居間から聞こえた声に、アウレリアは黒い手袋を外した。指先へ細かな皺がついていた。
「ええ。皆様、あなたによろしくとのことでした」
「そうか」
扉の向こうで紙をめくる音がした。アウレリアは二つの時計を取り出し、翌朝また合わせられるよう、玄関脇の小卓へ並べた。
* * *
【半月後・夫方の祝いの席】
「まあ、今日もお一人で。アウレリアは本当によくお立ちになること」
夫方の祝いの席で、年長の婦人は悪びれずに笑った。アウレリアの肩越しにもう一人を探すこともなく、差し出した手をすぐ彼女の両手へ預けた。
「クレメントからも、祝いを申し上げます」
「ええ、ええ。あなたがいらっしゃれば同じですもの」
長卓には、クレメントの名を記した椅子も用意されていた。アウレリアはその隣に立ち、祝われる若者が近づくと、空いた椅子の分まで身体をずらして道を譲った。
祝いの言葉を述べる順番になり、若者の叔父が前へ出た。背後から肩へ手を伸ばしかけた別の親族を見て、アウレリアは先に叔父へ声をかけた。
「先日の件では、弟君がずいぶん助けてくださったとうかがいました」
叔父の肩がこちらへ向いた。その隙に、背後の親族は伸ばした手を下ろし、別の者との会話へ移った。叔父は背後を見なかった。
「弟から聞いていましたか」
「ええ。お二人とも、今日を待っておいででしたでしょう」
叔父は若者へ向き直り、先ほどより一段低い声で祝いを述べた。アウレリアはその背中が卓へ戻るまで見送り、次に待つ婦人には、亡くした家族へ触れぬ深さで頭を下げた。
誰に先に挨拶し、誰の前ではクレメントの名を短くし、誰には幼い日の逸話を添えるか。十五年で覚えたものは、名簿に並ぶ名より、人がこちらへ背を向けたときの方によく表れた。
「伯爵はお忙しいのね」
「本日は、行けないとのことでした」
「でも、あなたが欠かさず来てくださるでしょう。ご夫婦でお顔を見せていただいているようなものよ」
婦人は杯を上げ、隣の者も頷いた。誰の視線も、空いた椅子には落ちなかった。
席の端でペトロネラが杯を置いた。婚礼の日と変わらぬ細い指が、アウレリアの腰に下がった二つの時計を一度見た。
「こちらへいらっしゃい、アウレリア」
「ご挨拶を終えてから参ります」
「急がなくていいよ」
ペトロネラはそれ以上呼ばず、先に居間へ引き取った。返答を急がせないのは、十五年前から変わらない。
席が進み、アウレリアは空いた椅子の前の杯が下げられるのを見た。家の者は慣れた手つきで皿も片づけ、最初から一人分だったように卓布を整えた。
退出する親族が次々とアウレリアへ手を差し出した。クレメントへ伝えてほしい言葉が重なるたび、彼女は相手の顔と声を覚え、どの言葉を誰へ返すべきか分けて受け取った。
最後の一組を見送ったあと、腰の時計へ手を伸ばした。帰りの刻を確かめるために取り出したのは二つ目の方だったが、蓋を開く前に指が止まった。
廊下の先では、ペトロネラの居間に明かりがついていた。
* * *
【その夜・大叔母の居間】
居間の卓には茶が二人分用意されていた。アウレリアが腰を下ろすと、ペトロネラは何も尋ねず、一つ目の杯を彼女の前へ押した。
窓の外では、帰る馬車の音が遠ざかっていた。先ほど手を握った人々の顔を順にたどり、アウレリアは受け皿へ添えた指を止めた。
来月の弔いで、あの老婦人は誰の腕につかまるのか。その次の祝いで、古い行き違いを抱えた二人を誰が離して座らせるのか。
「まだ、あの人たちが待っているかい」
ペトロネラは茶を飲まずに聞いた。
「はい」
「なら、消えるように来なくなるのはおよし。待つ先を、いつまでもあなたにしてしまう」
アウレリアは杯を置いた。腰から二つの懐中時計を外し、掌へ並べた。
「終えても、よろしいでしょうか」
「終えるなら、私が立ち会うよ。次に立つ者を、こちらで定められるようにね」
ペトロネラの返事はそれだけだった。理由を尋ねる言葉は続かなかった。
アウレリアは自分の時計を耳へ当てた。次に夫の時計を当てると、二つの針音には、祝いの席を出てから生じたわずかなずれがあった。
いつもなら蓋を開き、竜頭を回すところだった。指は蓋の縁に触れたまま動かず、やがて時計を耳元から下ろした。
夫の時計だけを両手へ載せる。卓を挟み、ペトロネラの前へ差し出した。
「今後、名代には立ちません。取り決めの期が満ちましたので」
ペトロネラは片手で取らなかった。椅子から立ち上がり、婚礼の日と同じように両手を差し出して、時計を受け取った。
金属の冷たい重みが、アウレリアの掌から離れた。ペトロネラは時計を胸元で包み、一度だけ深く頭を下げた。
白い髪が垂れ、顔が見えなくなった。アウレリアも頭を下げたが、ペトロネラの方が長くその姿勢を解かなかった。
「次の祝いからは、私たちで立つ者を決める。あなたへ知らせを戻すことはしないよ」
「お願いいたします」
「十五年、欠けた席を欠けたままにしなかったことは、私が覚えている」
ペトロネラは顔を上げ、受け取った時計を卓へ置かず、そのまま両手で持っていた。アウレリアの腰には、一本分の鎖だけが残った。
居間を出ると、廊下の窓から祝いの家の門が見えた。玄関では最後の明かりが消され、待っていた人々も、もうそれぞれの部屋へ戻っていた。
* * *
【翌月・弔いの席】
翌月の弔いでは、クレメントの隣の椅子だけが空いていた。親族たちは入室するたびそこへ目をやり、後から来る黒い衣装を待つように通路を空けた。
開始の刻になっても、アウレリアは現れなかった。空席の背へ手を置きかけた老婦人が、クレメントを見た。
「奥様は、遅れておいでなの?」
「今日は来ない」
「お身体でも?」
「そうではない」
老婦人の指が椅子の背から離れた。近くにいた者たちが順にクレメントへ顔を向けた。
「では、どなたがあちらのご親族へご挨拶を?」
「その必要があれば、誰かがするだろう」
「誰かとは、どなたです?」
クレメントの口元が強張った。弔いの家の者が列の先で待っていたが、クレメントはその者と背後の老婦人を見比べたまま、口を開かなかった。
別の親族が空いた椅子を見た。これまでなら、アウレリアが先に立って双方へ声をかけ、頭を下げる順番まで整えていた場所だった。
「伯爵が奥様のご実家の席へ立たれたのは、いつでしたかしら」
「今、その話をすることではない」
「いつかと、お尋ねしただけです」
「アウレリアが出ていた」
「毎回?」
返事はなかった。親族の一人が隣の者を見たが、その者も首を動かさなかった。
「一度も、伯爵は立っておられないの?」
妻が立てば済む席だ。誰が立とうと、家の名で立つのは同じことだろう——
クレメントは空いた椅子へ目を向けた。家の名を告げる者も、相手の顔を見分ける者も、そこにはいなかった。
老婦人の顔から、問いかける形が消えた。代わりに弔いの家の者へ身体を向け、自分で名乗り、深く頭を下げた。
その背後でも、一人ずつ親族が並び直した。クレメントに尋ねる者はもうなく、彼の隣だけを空けたまま、列はゆっくり進んだ。
ペトロネラが杖をつき、列の最後へ立った。クレメントの前を通る際、足を止めた。
「次から立つ者は、こちらで決めたよ」
「大叔母上まで、あれの勝手を認めるのですか」
「時計は私が受け取った」
ペトロネラはそれだけ告げ、弔いの家の者へ向かった。深く頭を下げる白い髪を前に、クレメントは口を閉じた。
式が始まり、人々は席へ着いた。空いた椅子は最後まで運び去られず、クレメントのすぐ隣にあった。
* * *
【ひと月後・妻方の本家】
妻方の本家では、玄関に入る前から人が待っていた。エーヴァルトは階段を下り、使用人へ任せず自分でアウレリアの外套を受け取った。
「長旅だったでしょう。まず休んでください」
「先に、ご挨拶を」
「挨拶なら、こちらからするべきです」
エーヴァルトはアウレリアの正面に立った。廊下の奥では若い夫婦が足を止め、二人の話が終わるのを待っていた。
「十五年、どの席でも人を取り違えなかったあなたに頼みたい」
実務の話をするときの声だったが、彼の手には書付も鍵もなかった。アウレリアが顔を上げるまで、続きを急がなかった。
「一族の祝いと弔いを取りまとめてほしい。ただし、誰かの代わりに立ち続けてくれという話ではありません。あなた自身の席を、ここに置きたい」
「わたくしの覚えていることが、こちらで役に立つでしょうか」
「役に立たない日も、ここにいてください。そのうえで、必要なときには頼らせてほしい」
廊下の奥で若い妻が夫の袖を引いた。エーヴァルトが目を向けると、二人はためらいながら近づいてきた。
「早速で申し訳ありません。次の祝いにお招きする方のことで、伺ってもよろしいでしょうか」
若い妻は一人の婦人について、どの席へ案内すべきかを尋ねた。アウレリアはその婦人が前の弔いで立っていた場所と、隣にいた兄の背を思い出した。
「ご当人を上座へお招きください。ご兄弟のお席は一つ離して、お二人それぞれに先にご挨拶を。どちらかを介すると、もう一方が遠慮なさいます」
「父とは昔、行き違いがあったと聞いています」
「ええ。ですが、先にお声をかければ、お二人とも祝いの言葉を持ってきてくださいます」
若い夫婦は顔を見合わせ、同時に頭を下げた。若い妻は聞き漏らさぬよう同じ言葉を小さく繰り返し、夫は席の並びを指で確かめていた。
「また、分からなくなったら伺っても?」
「何度でも。お顔を拝見すれば、ほかにもお伝えできることがあります」
二人はもう一度頭を下げ、廊下の先へ戻った。先ほどまで袖を引かれていた若い夫が、今度は妻の歩幅に合わせてゆっくり歩いていた。
エーヴァルトはその背中を見送った。
「あなたを待っていたのは、私だけではありません」
アウレリアのために用意された部屋には、窓辺へ椅子が一脚置かれていた。誰かの隣を埋めるためではなく、彼女が腰を下ろすための椅子だった。
卓の上には、まだ湯気の立つ茶があった。アウレリアは腰から懐中時計を取り出し、耳へ当てた。
針音は一つだった。蓋を開き、刻を確かめると、若い夫婦との次の打ち合わせまで半刻ある。
「お茶をいただいてから、皆様のお顔を覚え直します」
「覚え直す必要のない顔も、ここにはおりますよ」
エーヴァルトは外套を抱えたまま答えた。アウレリアは椅子へ腰を下ろし、温かな杯へ両手を添えた。
* * *
【秋・本家の客間】
秋の午後、クレメントは本家の客間に通された。アウレリアが入ると彼は椅子から立ったが、彼女は向かいの椅子を勧めず、扉のそばで足を止めた。
「久しぶりだな」
「ご用件を伺います、クレメント様」
呼び方を聞いたクレメントの指が、椅子の背をつかんだ。腰を下ろさないまま、卓を挟んでアウレリアを見た。
「家へ戻ってほしい」
「こちらが、今のわたくしの家です」
「席の件は考え直そう。大叔母上たちも、次の者を決めるのに難儀している。君が戻れば、家の者も余計な手間をかけずに済む」
アウレリアは立ったまま、返事をしなかった。廊下の向こうを、若い夫婦が誰かを迎えに行く足音が通り過ぎた。
「これからは、二人で出てもいい。毎回とは言わないが、都合のつくときには私も立つ。それなら元どおりに——」
「考え直す? 十五年、あなたの時計の針を合わせてきたのが誰か、考えたこともないのに」
クレメントの手が椅子の背から離れた。アウレリアの声も、そこで元の高さへ戻った。
「私は家のためを思っている。君にとっても、長くいた家だ。二人のあいだのことを、席一つで終わらせる必要はないだろう」
「席一つではございません」
「なら、何が不満だった。言ってくれなければ分からない」
アウレリアはクレメントの襟を見た。今日は花の香りもなく、きちんと折られた布地だけがあった。
「わたくしは、毎回お伝えしました」
「何を」
「約束の席には、二人で立つものですのよ」
クレメントは口を開いたが、言葉は出なかった。客間の時計はなく、彼が埋めるはずだった間を代わりに刻む音もなかった。
廊下から、若い妻がアウレリアを呼んだ。到着した客の一人について、前に会ったことがあるか確かめたいらしい。
「今、参ります」
扉の外へ答えてから、アウレリアはクレメントへ頭を下げた。妻として夫の分まで下げ続けた深さではなく、訪ねてきた客を見送る深さだった。
「待て。話はまだ終わっていない」
「取り決めは、もう終わっております」
「家へ帰る気はないのか」
アウレリアは扉を開けた。廊下では若い夫婦が並んで待ち、彼女の姿を見ると二人ともこちらへ歩み寄った。
「先ほどのお客様です。母の弔いでお会いした方だと思うのですが」
「ええ、その方のお顔なら覚えております」
アウレリアは客間を出た。扉を閉め切る前に見えたクレメントの隣には、誰の椅子もなかった。
若い夫婦と廊下を進みながら、自分の懐中時計を取り出す。約束の刻まで、あと十分あった。
一つだけの針音を確かめ、アウレリアは待っている人々の方へ歩いた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




