大海艦隊の忘れ形見
1919年、後の世で第一次世界大戦と呼ばれる史上初の世界大戦は、同盟国の盟主たるドイツ帝国の実質的な敗北によって幕を閉じた。
その結果として結ばれたヴェルサイユ条約により、ヴィルヘルム2世の野望の元で整備された戦艦・巡洋戦艦からなる大海艦隊も保有を禁じられ、消滅の憂き目にあった。
しかしながら、それはそれら戦艦や巡洋戦艦が全て消え去ることを意味しなかった。むしろ、中にはその後数奇な運命を辿った艦も出た。
それが後に大日本帝国海軍の高速戦艦「石見」「壱岐」となる巡洋戦艦「デアフリンガー」「ヒンデンブルク」ならびに戦艦「讃岐」こと「マルク・グラーフ」である。
第一次大戦終了時、帝政ドイツ海軍の主力艦艇のほとんどは、母国の軍港にあって無傷であった。いくつかの海戦での損失はあったものの、日露戦争時の日本海海戦のように、決戦となりうるような海戦が、ほとんどなかったゆえである。
だがそれら残存艦艇のほとんどが、戦後ドイツの手に残ることは連合国によって許されず、ヴェルサイユ条約の結果として連合国への賠償もしくは解体の憂き目にあった。
もちろん、当のドイツ海軍軍人はそんな屈辱を許すはずもなく、艦艇の多くが集結した英国スカパ・フローにおいての自沈を選んだ。
しかしながら、この時スカパ・フローに集結していたのはドイツ大海艦隊の半数ほどで、残る半数は監視目的でドイツ本国からは引き離されたものの、フランスや中立国オランダの港などにも回航されていた。
その中に、冒頭に挙げた3隻も含まれていた。
この3隻のうち「デアフリンガー」「ヒンデンブルク」は、中華民国へと譲渡された。
本格的な戦闘こそしていなかったが、中華民国も連合国側に名を連ねており、日清戦争で主力艦隊を喪っていた清国海軍を引き継いだ中華民国海軍は近代的な主力艦の獲得を狙ったのである。これは清国海軍を完膚なきまでに撃破した日本や、自国領内に租界を有する連合国各国への牽制の意味合いもあった。
さらに言えば、この頃の中国大陸は辛亥革命後の混乱を脱し切れておらず、いくつもの勢力に分かれた群雄割拠状態であった。なお、取得した時点における中華民国はいわゆる北京政府である。
普通に考えれば、そんな中華民国への巡洋戦艦の譲渡が認められるなどあり得ない筈なのだが、列強各国が簡単にこれを許した背景には、まずもって中華民国海軍が弱体であり、受け取ったドイツ海軍艦艇(巡戦2、軽巡2,大型水雷艇8)を使いこなせると見なされなかったことに加えて、この当時列強各国では第一次大戦の戦訓を反映した新造艦の建造に傾注しており、例え使いこなせても脅威になり得ないと見ていたからだ。
また、租界を持つ各国に対する悪感情を持つ中華民国に対する一定のガス抜きという意味合いもあった。
この中華民国に売却された戦艦2隻は「関羽」ならびに「張飛」と、三国志の英雄の名が付けられた。
これら艦艇は、失業したドイツ海軍軍人を教官役として呼び寄せて運用させると共に、将来的に中国人自身で運用することが、一応目指された。それを証拠に海軍学堂や上海の江南造船所の拡張なども、ドイツからの技術援助で行われた。
なお「関羽」と「張飛」の2隻は、後に中華民国政府が北伐により北京政府から南京政府に代わる際に、その所有者も南京政府に代わり、艦名を孫文と縁深い「武昌」ならびに「広東」に改名する案が出たが、人気のある名前だったので沙汰止みとなった。
こうしたゴタゴタはあったものの、ドイツ海軍は中華民国海軍に人材と技術の支援を、日独伊防共協定締結直前まで継続した。大戦後の混乱と不景気の中で、これらはドイツにとって有り難い働き口であったからだ。
一方戦艦「マルク・グラーフ」は「ケー二ヒ」級戦艦の1隻で、幸運にも中立国オランダにて抑留となったが、そのまま同国に売却されたものである。
本国はヨーロッパの中でも中小国に分類される同国も、アジアには広大な蘭領インドシナ(インドネシア)を有しており、その守りとして海防戦艦なども配した蘭印艦隊を有していた。この艦隊と本国艦隊用に、抑留されていた「ケーニヒ」級戦艦2隻を購入したのであった。
同国にとって、この2隻の購入は大戦後の賠償金や不景気に喘ぐドイツに対して恩を売ると共に、格安で戦艦を購入できる一石二鳥の策であった。
この旧「マルク・グラーフ」こと「ネーデルランド」は、その後蘭印に回航されて、本国にほとんど戻ることなく、アジアで活躍することになる。
ちなみに本国艦隊に配置された「グローサー・クロフェスト」こと「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」は、第二次大戦でイギリスへの脱出を図るも失敗し自沈。その後ドイツ海軍が引き揚げて「グローサー・クロフェスト」」と旧名に復して使用されることとなるが、これは別の話だ。
そして面白いことに「張飛」「関羽」「ネーデルランド」の3隻共が、いずれも日本での整備を数回経験することとなる。
これは戦艦クラスが整備可能なドックを有する都市が、アジアではまだ少なかったことに起因する。
中華民国海軍は上海の江南造船所を拡張したものの、予算不足や技術力の不足から、全てを自前に出来なかった。
また「ネーデルランド」の持ち主であるオランダ海軍は、シンガポールや香港のドックを借用したが、それらに空きがない時は、日本のドックを借りざるを得なかった。
さて、この3隻がアジアにやってきたことは、各国海軍に少なからぬ影響を与えた。
実際に戦うかは別として、万が一に備えてある程度の艦艇を配備しなければ、面子が立たない。
結果的にインドシナ半島を有するフランス、マレー・シンガポールを有するイギリス、そしてフィリピンを有するアメリカなども、常時1~2隻程度の旧式とは言え戦艦を貼り付けておくこととなった。
とは言え、平和な時代はこれら艦艇は植民地防衛と親善訪問の役割に徹して、時には一堂に会して合同パーティーが開かれるなど、海軍軍人同士の友好醸成に一役買ったが、それも1930年代になると暗雲が漂い出す。
1937年7月の盧溝橋事件に端を発する日中の軍事衝突は瞬く間に、宣戦布告なき全面戦争に発展した。
そして日本海軍としては中国海軍の巡洋戦艦2隻は、深刻な脅威と見なされて真っ先にターゲットとなったが、なんとこのうち「関羽」は、ちょうど日本の神戸で修理・整備中に盧溝橋事件が勃発。そのまま抑留からの鹵獲という、中国海軍にとっては悪夢の事態となった。
残る「張飛」も日本海軍による封鎖の前に、他の稼働艦艇と共に海南島に脱出したが、そこで燃料が尽きて身動きが取れなくなった。
一時はシンガポールかマニラへの抑留前提での脱出も模索されたが、乗員を引き抜かれて航行もままならず、ついでに自沈処分もままならず、後に海南島を制圧した日本海軍によって「関羽」に遅れること1年後に鹵獲されてしまった。
こうして鹵獲されたドイツ製巡戦2隻は、当初は事変の推移を見極めるために手を付けられず、他の鹵獲艦艇と共に呉と横須賀に分散して係留された。
ドイツ側の技術援助などによって、2隻とも近代化改装(ボイラーの換装や対空兵装の強化など)を行ってはいたが、主砲口径は30.5cmと小さく、建造から20年近く経過しており、当初は日本側としても、鹵獲品として戦意高揚に使う意外、あまり意義を見いだせなかった。
しかし日中戦争開始後3年が経過し、米英との関係が悪化したことに加えて、両国が日独など枢軸国に対抗して軍備拡張に乗り出したため、日本海軍としては持てる戦力を少しでも増やして対抗するため、鹵獲艦も有効活用する方針に変更した。
この結果「張飛」と「関羽」の2隻は「石見」「壱岐」と改名され、日本海軍に編入された。そのままの艦名で使用しては?という意見もあったが、最終的に日本海軍の艦艇命名規則に則って改名された。
とは言え、海外製の艦艇、特に日本海軍では少ないドイツ製艦艇となると運用には困難が付きまとった。
まず主砲。日本海軍では運用されていないドイツ製の口径30.5cm砲である。これに関しては、幸いなことに制圧した上海の造船所に30.5cm砲弾や予備砲身があったため、しばらくは問題なく運用できる見込みが立った。
高角砲や対空機銃もドイツ基準の88mm砲や37mm砲、20mm機銃であったが、これらも予備部品と弾薬が尽きるまでは利用し、その後は日本製に切り替えることとなった。
こうして半年ほどの再整備と、軽度な改装工事を行い「石見」と「壱岐」は竣工した。
この時点における2隻は、主砲口径が30.5cmということで戦艦としての働きは期待されておらず、また速力も重油専焼ボイラーやスクリューの交換などで26ノットを維持していたものの、格別に高速でもないため、最初はソ連を牽制するために第5艦隊に配備された。
しかし、1941年になって対米関係が風雲急を告げると、対米英戦のために戦力が不足していた第4艦隊に転籍している。
それまでの同艦隊は旧式軽巡と旧式駆逐艦、特設艦艇の寄り合い所帯であったため、鹵獲品とは言え巡洋戦艦の配備は歓迎された。
そして12月8日の開戦と同時に、2隻が所属する第4艦隊は、ウェーク島攻略作戦に参加することとなる。
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