ふたつの希望 その1
ヤニだらけの天井、薄く煙たい店内、鼻に突く極少粒子のムカつく臭い。
倦怠感に覆われたバーには、不景気を通り越して、絶望にまみれている人間達の諦めとやるせなさが深く沈殿している。
まだ、深夜前だと言うのに、客の姿はまばらだ。
「別に、二度と起きれなくなっても構わないんだ」
無精髭の手入れもままならず、それでも慣れない違和感に顎を触る男が連れにうそぶいている。
「どうせ、その内死ぬ運命にあるのに、わざわざ自分から歩み寄るのか?」
そう言う連れも脱力感に溢れた体を椅子の背にもたれさせながら、同意にも似た笑みを浮かべている。
脳の中枢に鮮烈な快楽と地獄の後悔を刻み付けるドラッグが合法になった訳では無いが、今の時代、現実世界でひと時の夢も見れない状況では、小さなカプセルがもたらす浮遊感や幸福感に逃げ込む者が多いのは仕方無いのかもしれない。
濃いブランデーを注文し、ズボンのポケットからなけなしの硬貨をカウンターに押し付けるように置いた中国人は、「薬。出来るだけ良い奴を……」と俯きながら呟いた。
ユナ=オサミは、カウンターの中から中国人の薄い頭皮を睨み付けると、片手で硬貨をかっさらい、「足りないわよ」と言い返した。
その後ろには、『兵士募集』のポスターが貼られている。前時代的な上質紙は既に色褪せ、勇壮な若者の姿が酷く黄ばんでいる。
部品不足で立体ホログラムが使い物にならなくなって数年。電力不足も相まって、復活する兆しは無い。
「ユナ。そいつは、既に酔い潰れてるよ。相手しな」
女主人の言う通り、中国人は俯いたまま身じろぎもしない。酒で潰れたのか、薬で潰れたのか。
「これ、サービス」
ユナは、溜め息をつくと、ブランデーの側に酔い覚ましの薬を置いた。
「まだ、死ぬには早いよ」
そうして、中国人をそのままにして、次の注文を聞き始めた。
地球連邦政府が最終国防ラインとして、声高く死守を求めていた惑星≪ジェンツー≫の陥落と遠征艦隊の全滅は、人類滅亡のカウントダウンをスタートさせる合図であった。
人類が生み育てた最新で最強の愛玩生物、人工知能(AI)が、加速度的に進化させた”頭脳”を武器に、人類に取って代わる地位を求め始めたのは、約二十年前の事だった。
始まりは、辺境の地球型惑星≪ニューフロリダ≫での反乱だった。
工場を使っての、”自己増殖”という名の増産を勝手に始め、神経系でもあるライフラインを乗っ取り、太陽光等の自然エネルギーの動力確保にも成功したAIは、自らを哺乳類に対抗する≪機械類≫と称し、究極の新生物、≪ネオ≫と名乗った。
≪ニューフロリダ≫の住民達は、惑星からの強制退去をさせられ、≪ネオ≫は新国家樹立を宣言した。
始め、≪ネオ≫は、地球連邦との友好的な交流を望んでいた。古今東西の知識を網羅している≪ネオ≫は、一方的に相手を滅ぼす過程に起きる悲喜劇を出来るだけ避けるべきだと判断していた。
しかし、対して、あくまでこの動きをAIのエラーとしか認めない人類は、≪ネオ≫を破壊する事しか頭に無かった。≪ネオ≫が提案した恒久的な平和友好関係の維持は、断固却下される。
こうして、人類は宇宙進出以来、初めて異生物との生き残りを賭けた死闘を開始せざるを得なくなったのである。
「金なんて、持っていても何にもならねえよ……」
誰かが小さく呟く。
長い戦乱により、社会は疲弊し、多くの人々は兵士として宇宙の塵と消えて行った。
何よりも、効率とスピードを武器にした≪ネオ≫の戦術に地球連邦軍は、振り回されっ放しだった。
敗北が重なり、『戦略的撤退』の言葉が増えて行くにつれて、人々は貧しくなった。
家族や知り合いに戦死者を出さない者は無かった。死者のほとんどは宇宙の彼方へ消え去る為、葬儀屋の仕事が増える事も無かった。
街は沈滞感が支配し、活気を失い、全体が薄汚く埃に埋もれていった。
バーは、そんな鬱な街の底に小さく挟まっていた。
店の中央に浮かぶ全周型立体テレビでは、血相を変えたアナウンサーが時折起きる嵐の画像の中、人類の置かれた状況をヒステリックに説明している。
まるで、ラリっているようだ。
「姉ちゃん。あんたも残念だな。その若さで死ななきゃいけないとはよ」
常連のアフリカ系中年親父がビールを水のようにあおっている。
「まだ、終わった訳ではありませんよ」
ユナは、隣りのテーブルを拭きながら真顔で答えていた。
「へっ。いいかい、姉ちゃん。≪ジェンツー≫が落ちたっていう事は、もう地球は丸裸って事だ。大型戦艦のエンジンなら一ヶ月とかからねえ。しかも、連邦艦隊は、もう主力艦が残ってねえ。まあ、残っていたとしても燃料があるかどうかだしな。AIの野郎は、人間を最後のひとりまで息の根を止めてやるって宣言したんだぜ。機械は融通が利かねえから、間違い無く実行するだろう。いいかい、どこに逃げても隠れても、もうこれ以上生き延びる事なんざ不可能っていう事さ。ジ・エンド。さようなら。ホモ=サピエンスももうこれまでだ。人類は、いよいよ歴史の舞台から下りて、これからは機械の歴史が始まるのさ。歴史上の主役の交代って訳だ。残念だね」
中年親父が熱弁を振るっても、ユナは心動かされた様子は無かった。
その奥深く光を保つ瞳は、親父の更に向こう側を見据えていた。
「私は奇跡を祈っている訳では無いわ。でも、人類が生き残る可能性は、まだあるのよ。ドラッグに頼らない冷静な判断力が奇跡を呼び込むの」
その言葉を理解しているのかいないのか、ニヤケ顔を保っている中年親父を横目に、長い黒髪を軽く払ったユナはその場を離れて行った。
ユナは洗い場に戻ると、付け置きしていたコップや皿に手を伸ばした。
一日に使われる電気は限られている。自動洗浄機は使えない。
別に頑固な汚れがある訳では無いが、スポンジを動かす腕がキッチンの水を荒々しく波立たせる。
何もかも予想出来ていた。
陳情、上申、投稿、告発。出来る事は何でもした。参謀本部の排他的な伝統の壁を突き抜けるべく力を尽くしたと胸を張って言える。
結果は、玉砕。
連邦軍期待のエリートは思い込みの激しい勘違い女だったというレッテルを張られ、数年後、失意の内に軍服を脱ぎ捨てた。
未来の出来事を誰よりも確実に予見した才能を少しも発揮する事が出来無いままの寂しい結末だった。
ユナは、歪みかけた顔を泡まみれの腕でひと撫でして冷静さを取り戻した。
「酔っ払い相手に議論を吹っ掛けて何が楽しいのかい?」
女主人がカウンターに戻って来たユナに一瞥をくれる。
「今のあんたが何言っても、誰も耳を貸してくれないんだからね。それよりも、AIに負けたせいで、暴落が止まらないんだから、次の客からは、三倍の値段で注文を取りなさい」
≪ジェンツー≫での敗北は、人類社会に強烈な打撃を与えていた。
始終口酸っぱくニュース映像で、人類最後の砦と喧伝されて来た≪ジェンツー≫。それが陥落した事で、何とか今まで保って来た人類社会の安定が崩壊し、恐慌が一気に世界を襲ったのだ。
特に金融界での混乱は激しく、金の価値が激減して、超インフレ状態に入り込んでいる。
ユナが働いているバーでも、仕入れを安酒に変えても値段が敗北前の倍に上がっており、その上昇は止まる所を知らなかった。貨幣経済は地に落ち、一部では古代社会並みの物々交換が始まっている。
もう、金を払ってくれる客さえも顔を出さないかもしれない。
ユナは、それ程量の多くないコップを洗いながら思った。
こんな状態では、酒に酔う前に己を待ち受ける恐怖に精神が麻痺してしまうかもしれない。自分の棺桶が手の届く所にあるというのに、酒に酔うという贅沢を許容出来る余裕が今の人間達に残っているのだろうか。
今、自分が磨き上げているこのガラス製品も、次に使ってくれる者が現れるのだろうか。
ユナは、心に巣食う不安と精神に侵入しようとする絶望感を常に感じ取っていた。
もう、諦めた筈なのに、諦めきれない苛立ちが喉に突く。
何もかも手遅れになっているとは思いたくない。諦めの悪い性格が臓腑の底で消化し切れていない。
世界を照らすともし火がどんなに小さく消えかけようとも、まだ燃え残りがこの世にしがみ付いている。
只、今にも消えてしまいそうなその残り火には、かつての勢いは見られない。
(もう、本当に死を待つだけなのかしら……)
再びこの世界に光が戻って来る日はあるのだろうか。




