1.西方の橙
西方の風は、砂の匂いがした。
乾いた熱気。
陽を浴びた石畳。
色鮮やかな布が揺れる市場。
その喧騒の中を、
フィナは静かに歩いていた。
「遅いわよ、フィナ!」
甲高い声に、
フィナは慌てて顔を上げる。
「ご、ごめんなさい……!」
異母妹のリリアが、
苛立ったように眉を寄せた。
「荷物持ちなんだから、ちゃんとして」
「はい……」
フィナは抱えていた箱を持ち直す。
本当なら。
今日の社交会には、
男爵家の娘として参加するはずだった。
けれど実際は違う。
ドレスの裾を持ち、
妹の装飾品を管理し、
必要なら給仕まで手伝う。
使用人とほとんど変わらない。
「……その髪、ちゃんとまとめたら?」
リリアが嫌そうに言う。
「ぼさぼさでみっともないわ」
淡い橙色の髪。
西方では珍しくない色なのに、
王都風の流行を好む妹は嫌っていた。
フィナは小さく「ごめんなさい」と呟く。
その時だった。
「――東方公爵家ご到着!」
会場の空気が変わった。
ざわめきが広がる。
「氷雪の魔導騎士様よ……」
「第二騎士団長……」
「本当に来たのか……?」
フィナも思わず顔を上げた。
白銀の景色みたいな会場の奥。
黒が見える。
雪国では異質な、
夜のような黒髪。
長身の青年が、
静かな足取りで入ってきた。
――ルシアン。
王国最強の魔法使い。
氷雪を操る第二騎士団長。
冷酷無慈悲と噂される公爵。
けれど。
(……綺麗な人)
フィナが最初に抱いた感想は、
恐怖ではなかった。
淡い氷色の瞳。
黒い外套。
触れれば冷たそうなのに、
どこか静かな人だった。
「見ないで」
リリアがフィナの腕を小突く。
「あんたみたいなのが視界に入ったら失礼でしょう?」
フィナは慌てて視線を落とした。
その瞬間。
――ピシッ。
空気が凍った。
会場の花瓶に霜が走る。
「っ……!」
誰かが息を呑む。
冷気。
重い圧力。
会場の中央で、
ルシアンがわずかに眉を寄せていた。
魔力暴走。
周囲の貴族たちが青ざめて離れていく。
「ル、ルシアン様……!」
「お下がりください!」
けれど冷気は止まらない。
グラスが割れ、
床が白く凍りついていく。
使用人の少女が、
逃げ遅れて転んだ。
「……っ」
フィナは反射的に駆け出していた。
「危ないわ!」
少女を庇い、
伸ばした手が。
ルシアンの腕へ触れる。
その瞬間。
凍てついていた空気が、
嘘みたいに静まった。
静寂。
誰も動かない。
ルシアンだけが、
ゆっくりフィナを見る。
初めて、
その姿を認識するみたいに。
「……お前」
低い声。
フィナは青ざめた。
「も、申し訳ありません……!」
貴族に触れた。
しかも公爵だ。
怒られる。
そう思ったのに。
ルシアンは、
フィナの触れていた腕を見つめたまま、
静かに呟く。
「……何をした?」




