018話 心壁
巨大も巨大な全面ガラス張りの窓に手を添え、サキノは学園最上階の天空図書館上層から都市を俯瞰していた。
正確に言えば、ガラスに薄らと反射する己を、だ。
ルカと同じく、懊悩に身を焼かれる己を。
そんなサキノの耳へ、間隔の短い足音と幼い声が背後より届けられる。
「サキノ、もう来てたの」
「ココ」
「忙しいのにごめん。生徒会や風紀委員にも増援を頼んだけど、一年に一度の古書入れ替えばかりは全然人が足りなくて」
回頭したサキノの目に飛び入るのは、片手に大きな本を抱えた図書館の長、ココ・カウリィール。
彼女は抑揚の少ない声音で、今回サキノへ正式に依頼を申請した理由を語る。
「ううん、大丈夫だよ。私は、大丈夫」
平静を装ってはいるが、普段の篤実な様相とは異なり、どこか元気のないサキノに半眼少女は訝しげに目を細める。
二人の間に訪れる沈黙。ココは手に持った大きな書物を反対の手に入れ替え、動きを作った。
「ねえ、サキノ。ローハートのことなんだけど」
「私の意志は……変わらないよ」
悄然としたサキノは、ココが何を言おうとしているのか察し、食い気味に己の意向を示した。
ルカが秘境や魔界に関与しているがために自身と対立していることを、ココはまだ把握出来ていないとサキノは思っている。
しかしここ数日の畳みかけるような状況の変化に頭は冷静ではいられず、ルカの名が出れば、自ずと想起するのはルカとの意思の対立の話だ。
(そんな悲しそうな顔して何が変わらない、よ)
元気がないのはローハートのせいか、とココが納得を感じ、同時に小さな溜息が自然とこぼれた。
サキノの中で変化が起こっているのは間違いない。下手に藪をつつくのも場違いだとは思いつつも、サキノを放置しておけないココは援護射撃を放つ。
「あんな奴だけど、ローハートのこと少しは信頼してもいいんじゃない?」
「……してるよ。うん……してる」
(そうじゃないの、ココ。ルカを信頼してるからこそ、本当の私を知られて嫌われたくないのよ……)
信頼していないわけがなかった。ラヴィと並ぶほどに近しい距離で毎日を過ごし、笑い、時間を共にしてきたのだ。
だからこそ、だからこそだ。
使命がサキノを突き動かしていることは間違いない。しかしもう一つの懸念として、ルカと共闘することによって己の秘事が露見されることは防がなければならなかった。秘事を知られてしまった暁には、もう友達でもいられなくなる危険性も孕んでいることをサキノは知っている。
人族社会の下界にとって亜人族とはそういう存在なのだから。
「『失うを恐るるは信頼に非ず』」
「え……?」
「『心壁を取り払い他者へ己を示せ、取捨は自己の在り方に付託す』……古書入れ替え、始めるよ」
ココの言葉の真意がわからず首を傾げるサキノだったが、後は自分で考えてとココは強引に話を切り上げる。
業務は業務。やるべきことはこなさなければいけない。
踵を返すココに図書委員長の風格を感じたサキノ。一歩踏み出したココへ続くように歩みを重ねようとした――その時。
一向に正面から動こうとしないココにサキノは疑念を抱く。ふぅ、吐息をつくとココは振り返り、サキノと向かい合った。
「サキノ、秘境が出現した」
「っ!? ……わかった、すぐ行く。門をお願い」
幼女の発言に僅かに動じたものの、サキノは眉尻を吊り上げ、凛然と開門を指示する。
ココは辺りに人影がないことを確認し、手に持った書物をパラパラと開いた。本は独りでに頁を断続的に捲っていき、ココの足元に亜麻色の円陣幾何学模様が展開され始める。
冷ややかな空気の流れが周囲一帯を支配し、微風がココを包み込む。亜麻色の発光に包まれ、髪を、スカートを、腕章をゆらゆらと靡かせるその姿はまるで降臨したての神様のようだった。
「……やっぱり下界にローハートの反応がない」
己が感じ取った違和にココは不審げに呟く。その言葉の意味を、妖精門の開門を待つサキノは即座に理解した。
「どういうこと……? だって門はココが今から開く筈じゃ?」
ココは門番という特性上、己の知る人物に限り、下界での生体反応を察知することが出来る。位置情報や誰といるか、何をしているかなどまでは判然としないが、下界に『いる』『いない』の存在程度ならば感覚的にわかると言う。
今回問題となっているのは、本来であれば門番であるココが開門しない限りは秘境へ入れない筈なのだが、どういうわけかルカの生体反応が下界に無いことだった。
不自然な現象に、ココの脳裏に一つの可能性が示唆された。
「実を言うと前回も、その前回もローハートは私が妖精門を開く前に秘境に辿り着いてる……もしかして毎回『強制召喚』されているって言うの……?」
「毎回強制召喚!? なんでルカが!?」
「私に聞かれてもわかるわけない」
「うっ……そ、そうだよね」
『強制召喚』。
基本的には秘境の出入りは任意なのだが、本人の意思に関係なく転移させられる現象。主に異世界に関与している人間が、幻獣の出現場所――秘境と下界は酷似しているため、秘境と下界の同等の場所――に位置することで発生することが高い。
思わぬ事実に疑念を投げたサキノだったが、にべもなく一蹴される。サキノは、何故ルカが毎回己よりも早く秘境にいたのかをようやく理解した。しかし、理解と同時に沸く感情は、やはり怒りに近いものだった。
この怒りは理不尽だとわかっている。強制召喚を防ぎようがないとわかっているとはいえ、関与することを禁じた身としては看過できないのも事実だった。
そしてあの叱咤から、顔を合わせづらいのもまた。
そわそわと妖精門の展開完了を待つサキノの様子を横目に、ココは展開速度を速める。
「サキノ」
「どうしたの?」
ココは一人で叩き続けて来たサキノへ、もう一度ルカとの協力性を訴えようとしたが、
「――いや、何でもない。お願いね」
信頼して何も言わなかった。
「うん、任せて」
完成した術式を解放すると、亜麻色の幾何学模様は変色を始め、多彩な光柱を突き上げる。ココが中心から退き頷くと、サキノは礼を告げ颯爽と極彩色の妖精門の中へと飛び込んでいった。
「ローハート、後は頼んだよ」
サキノの姿が一瞬で消え、妖精門も、幾何学模様も、微風も、全てが落ち着きを見せる。その場には一人の少年に全てを託した少女だけが立ち尽くしていた。




