016話 懊悩する者達の朝
翌日。
泣き疲れた大空が落ち着きを見せる曇り空。
魔界で常時開いている下界への妖精門が幸樹付近に存在しているらしい話をレラから聞き、下界へと戻ってきたルカの一夜が明けた。
しかしながら思考にも現状にも何の進展も得られないルカは一人、『北東展望台』へと赴いていた。
幸福都市リフリアには、幸樹から東西南北それぞれ端まで伸びた四つの主要大路が舗装されており、各主要大路との中間地点には、四つの展望台――北東、北西、南東、南西展望台――が造設されている(※を回転させた位置関係)。
展望台と言うだけあって、三百六十度リフリアの景観を拝める円筒構造で、住民は言わずもがな観光客も多くが足を運ぶスポットである。人がいない時間帯などない、とまで言われるほどの常時開放型展望台は、幸樹の姿も全容が見える距離間。夜桜ならぬ夜幸樹を享受しながら酒盛りに耽る者もいるほど。
しかし、北東展望台にはルカ以外の人影は一切見えない。それもその筈、北東展望台は廃展望台と住民に称されるほどに、都市にとって需要の低い展望台なのだ。
理由としては他の三つの展望台と異なり、地上二百メートルにある展望台まで昇降機がない点。最上階で景観を拝むためには、途轍もない足労を強要される。
聞いただけでげんなりするような理由に加え、二つ目の理由。一つ目の理由が展望台自体の問題であるならば、二つ目の理由は都市の構造の問題。北東展望台から幸樹方面――南西方面――を眺望しても、人の姿が見当たらないこと。幸樹の周囲には商店が林立しており活気に満ちているが、北東方面には幸樹から溢れ出た水流、つまり大河が流れている。水流は流れが不規則であり、干潮満潮の指標がない。数秒前まで穏やかだった流れが、嵐のように激流になったりと、とにかく読めないのだ。副次的に水難事故が多発、都市はやむを得ず幸樹の北東方面を立ち入り禁止区域に指定した。
幸樹を中心にアルファベットのCを半時計周りに傾けたような、ぽっかりと空いた幸樹北東部には商店も存在しない。人の流れを感じることのできない北東展望台は、整備の手も行き届かず廃れていったのだ。
そんな屋根もない展望台の地面に腰を下ろし、上空の風を全身に浴びながら黒髪が踊る。
風の音だけが独壇場の空間で、ルカはただ一人上空を仰いでいた。
特に目的はなかった。行く当てもなかった。自然と脚がここに向いていたのだ。
己の抱える気持ちと向き合うには、この場所が適地な気がしたのだ。
「ココやレラがサキノを想って言っていたのはわかる。サキノを放っておけないのは俺も同じだ」
ココが救ってあげて欲しいと。
レラが助けてあげて欲しいと。
彼女達の言葉は、責任感の強すぎるサキノの義勇を憂慮してのことだというのはルカもわかっている。彼女達の濁りのない眼差しを見ていれば、わかるのだ。
「けれど……この気持ちは一体全体なんなんだ? サキノを見てるともやっとする、この不快感は……」
サキノが一人で背負いこもうと沈んだ顔を見る度、彼女達が救いの声をルカへ送る度、胸に宿る違和感が何なのかがわからなかった。
正対するように心の未熟なルカにわかること。それはこの違和感が判然としない限り、サキノに寄り添う事は出来ないということだ。己が何に突き動かされているか理解出来ていない者に説得力など皆無だ。だからこそ、ルカは己と向き合わなければならなかった。
「何かが違う……あの日から」
幻獣と初めて遭遇した、あの日から。
死ぬわけにはいかないと、願ったあの日から。
自己の変化に気付いてはいる。しかし、その正体がわからない。
今まで感じたことの無かった、思考と心の不一致。
他者を観察し、適応してきただけのルカ・ローハートという人物が、わからない。
思考の泥沼に陥るルカは溜息を一つ吐き、幸樹を朧気に視界に入れた。
「……?」
幸樹の根元に一つの黒点。その黒点は緩慢に幸樹の根元を沿うように移動している。立ち入り禁止区域であるはずの北東地点を。
激流の大河を前にその黒点は動きを止める。
そして。
北東展望台最上部のルカを視た。
「…………っ」
ルカは双眸を細めた。
認識できる距離ではない筈だが、それでも確かに継続的に視られているとルカの本能が告げている。
そもそもがおかしいのだ。立ち入り禁止区域に人がいることが。
好奇心旺盛な子供であれば立ち入ろうと奸計を働かせることもあるかもしれない。しかし、立ち入り禁止区域は今や鉄柵で区切られ、簡単には侵入出来ないようになっている。警邏の目もあり、目的のない侵入は困難を極める仕様となっているのだ。
何より、寂れた北東展望台にいる人物と目が合うことも奇怪であると言える。偶然その方角を見たというのであれば納得もするのだが、現に意思を持って凝視している。誰もいない筈の北東展望台を。
「何が……?」
訳がわからなかった。ルカがそこから目を離せない理由も、黒点が見つめている理由も。
認識できる筈のない距離で視線の応酬が続く。
黒点の背後で幸樹が雄叫びを上げるように大きく揺れる。
まるでそれは黒点が纏う猛々しい幻炎のように神々しく、膨大過ぎる力が黒点には収まり切らないとでも言うかのように。
ただただ、巨大な威を放っている。
そんな印象をルカに与えた。
「やっぱりここだった。おはよぉ、ルカ」
突如背後からかけられた声に、ルカは振り返る。
白を基調にした丈の短いワンピースに薄手のカーディガンをいつもの如く着崩した金髪美少女、ラヴィリア・ミィルが歩み寄って来ていた。
「ラヴィ? どうしてここに?」
「何だかルカが凄く悩んでる気がしてさ。ルカ、悩んでる時いつもここにいるから」
近寄ってきたラヴィを見つめると、汗を滲ませ息も微かに切れていた。
「……ここまで自力で上ってきたのか? 俺がいなかったら無駄足じゃないか」
連絡をしてから向かってもよかったのではないか、と。ルカが北東展望台にいるとは限らない状況で、この高度まで自力で上ることは無策に等しい。大幅な体力と引き換えに不在時の絶望感は想像に難くないだろう。
それでもラヴィは。
「何でかここにいるって確信あったんだ、あんまり寝れなかったし」
謎の根拠を理由に確信を得たらしい。
現時刻午前七時過ぎ。休日のこの時間にラヴィが起きていることは極稀中の奇跡だ。余程の重要な用事がなければラヴィ自ら早起きすることは無い。
そんなラヴィが、早朝から体力を使ってここまで上ってきたというのだから、その睡眠センサーは存外に正確なのかもしれない。
ラヴィの来訪により意識を遮断せざるを得なかったルカが、ふと、幸樹の根元に視線を戻すが、先程のひりつくような視線は消え、黒点も既に存在を消していた。
平和な早朝のリフリアが淡々と流れていた。
(何、だったんだ……?)
正常ではない明らかな異常に嫌な感覚は拭えなかったが、ルカは再びラヴィへと意識を向ける。
「どーぞっ」
気が付けばルカの真隣で膝を折ってしゃがみ、ラヴィは柔和な微笑みを浮かべながら缶珈琲を差し出していた。
「ありがとう」
ルカは何も聞かないラヴィの厚意を受け取った。
小気味よい開封音を立てた缶を口に運び、喉を潤す。
二人の間に静寂が流れ、時が少しずつ刻まれていく。
こんな平穏が、いつまで続くのだろうか。
数日前までは思いもしなかった考えが、今では頭を過る。
常に命懸けの戦闘を繰り広げ、死を身近に感じながら過ごす日を誰が予想しただろうか。
こんな平穏の中でもサキノは一人で戦っていた。
閑却しておけないと、そう感じたのだ。
「なぁ、ラヴィ」
だからルカは、一歩を踏み出す。
「なぁに、ルカ?」
「どうして人は、他者を助けたいって思うのかな」
「うん?」
己で解決に導けない正解を求めるために。
「本人が望んでいるのかもわからない。独善的の行為かもしれない。やろうとしている事が、正解なのかもわからない。それなのに放っておくのは違うって、思うのは何でだろうか」
己の胸に巣食う違和感の正体を看破するために。
「求められていないのに、助けたいと思うのは間違ってるだろうか」
己の意思を封じ込めるのが正解なのか、貫徹することが正解なのか。
相手の意志を尊重することが正解なのか、妥協し合うことが正解なのか。
切実な懊悩を、ラヴィに打ち明ける。
対してラヴィは。
「そんなことよりデートしようよルカっ!」
そんな深刻な空気をぶち壊してきた。
「は?」
「こんなところで思春期男子の夜みたいに悶々しててもスッキリしないでしょお!? あたしを突……じゃなくてあたしに付き合ってよ。ね、ルカいいでしょ!?」
ラヴィは勃……ではなく、立ち上がると有無を言わさずにルカの腕を引っ張る。
「ちょ、ラヴィ待てって……」
「ほらほら早くぅ~! お店全部閉まっちゃうよぉ!?」
「開店してすらいないんだが!?」
しつこいようだが、現時刻七時過ぎ。都市がようやく目覚め始める時間帯に、二人の男女は少しばかり早く目覚めた。
ラヴィに連行されるルカだったが、不思議と胸の違和は感じない。
放縦な少女はニコニコと笑みを絶やさず、ルカの手を握り締め、展望台の出入り口へと向かって駆けていく。
誰もいなくなった北東展望台には、迷いを含んだ飲みかけの缶珈琲が一つ残されているだけだった。
北東展望台を長時間かけて下り切った少年少女は、都市北方に在するカフェ『あうる』で朝食を取っていた。
蒼を基調とした外装に三日月の象徴はまるで、白夜月のような幻想的な店構え。展望台から下りるのに時間を要し、既に早朝と呼べる時間ではないものの、広い店内には座席の半数ほどの客入りが見られた。
店内の造りは、木目調の床に解放感溢れる高い天井。木製のテーブル、木製の椅子、ふかふかな長椅子なども取り揃えられており、暖かな印象を人々に与える。カウンター席や個室といった来客の都合にも対応できるような構造。
鼻をくすぐるのは香り高い珈琲豆の匂い。心から落ち着く空間と言っても大層ではない穏やかな雰囲気がそこにはあった。
ラヴィ曰く、早朝から開店するカフェとして知名度を上げてきている店舗らしい。お洒落で安らぎの場を提供する『あうる』が人気だというのも納得の心地良さだった。
「そういえば、こんなに朝早くからルカとデートなんて初めてだねぇ。夜帰してもらえないことは沢山あるけど」
ルカの対面で、はむはむと小動物のようにサンドイッチを啄みながら頬を染めるラヴィは、朝から絶好調だった。
側を通りかかった従業員も話を耳にして勘違いしたのか、顔を紅潮させて早足で裏方へと戻っていく。
「誤解されてるだろ……帰さないじゃなくて、帰らない、な。毎回テスト前に勉強教えて、って押しかけてきて、結局一時間後には寝てるのはお決まりだろ」
ラヴィが周囲に誤解を招くような言い方をしているのは、学力試験が行われる前夜の事だ。毎回夜になるとルカの自宅に現れて、勉強の教えを請うのだが、大して対策も行わずに眠りへと落ちる。そして、朝まで起きることはない。
「これぞ花嫁修業だねっ!」
「何に例えたいのかはわからんが、言いたいのは押しかけ女房のことか……?」
「女房だなんて、そんな……うゅへへ……」
「言わせといて何照れてんの?」
まるで芸劇のようなやり取りに、一人表情をコロコロと移ろわせていくラヴィは、心底この現状を楽しんでいるかのようだった。
ルカは一口サイズのサンドイッチを口に放り込み、店内を見渡す。
少数の従業員が笑顔で店内を往来しているが、よく男性客に声をかけられ足を止める光景が目に留まる。
『あうる』が人気の理由は居心地の良い空間だけではなく、制服、そして従業員の人品にも起因していた。
従業員は全員女性で、接客業なだけあって全員が身なり、顔立ちが整っている。制服は黒と蒼の素材が使われ、胸元に大きなハートマークが施されたワンピース型のエプロン。ワンピースには深いスリットが入っており、艶やかなおみ足が歩くたびに覗く。男性客の嗜好を汲み取ったかのような色っぽさを持つ制服なのだ。
また、女性にもその制服は大の好評であり、制服見たさに男女とも客足は途切れることを知らないのだと言う。
教育が行き届いているのか礼儀も正しく、鼻の下を伸ばす男性客にも愛想よく振る舞う姿は無邪気な妖精のようだった。
そんな従業員達の姿に、ルカはサキノの笑顔の影を見る。
(…………)
従業員の少女達の笑顔がもし無くなってしまったとしたら、どれだけの人達が困るのだろうか。影響を受けるのだろうか。
サキノと意志交錯して関係が破綻してしまったとしたら、サキノはどんな顔でこれから過ごすのだろうか。影響を与えるのだろうか。
違和感の正体を探究した結末に最悪な結果を引き起こす可能性があるのならば、望まれていない独善行為ですれ違いを起こすのならば。最適解は己が身を引くことなのかもしれない。
ルカは再び、苦悩の闇に呑まれかけようとしていた。
「ごちそうさまでしたぁっ」
対面から快活な声が上がる。
暗黒の狭間から引き上げられるようにルカの視線が声に引き寄せられると、バスケットの中身を空にしたラヴィがいそいそと退店の準備を始めていた。
「もういいのかラヴィ?」
「うんっ! お腹も膨れたし、次行こうっ」
悩んでいる暇なんてないぞ、とでも言うかのように。
ルカの事情を考慮せず、ラヴィは微笑みながらルカを誘った。
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女の子らしい小物や、セリンちゃんの人形が部屋を彩っている白い部屋。薄桃色のカーテンが窓の端に纏められ、眩し過ぎない光が朝の報せを屋内に届けていた。
シュルシュルと音を立てて普段着の浴衣に腕を通す少女は、朝にも関わらず疲労の濃い相貌を張り付けている。
「全然眠れなかったな……」
サキノは学園での依頼に向かうための準備を行っていた。普段ならば艶のある白髪も色素を失ったかのように哀愁が滲出しており、完全な睡眠不足に覇気も沸かず盛大な溜息をつく。
ルカへ一方的に激情してしまった後悔と不安が、平静という極細の綱を擦り減らし続けていた。かつてはこのような事など無かったのに、と自分自身を嫌悪したくなる気持ちを携えて。
「全然気分乗らないし、依頼の日程を変えてもらおうかなぁ……」
滅入る気が、弱った心へ猛威を振るう。
しかしサキノは顔をパンッと叩き、心を蝕む悪魔を追い払った。
「駄目駄目! 弱気になるな私! ええっと、今日の予定は、職員室の配置換えと、ココに頼まれた天空図書館の古書交換だったよねっ!? うんうんっ!?」
無理くり元気を奮い立たせ、予定の再確認を行おうと桃色の手帳を求めて鞄の中身を漁る。不要なものを探す方が難しいとばかりに整った鞄の中を探すも一向に見当たらず、サキノは怪訝な表情を浮かべる。
「あれ……? 無い……?」
見当たらない手帳の姿に、小首を傾げながら己の記憶を辿っていく。数日前に魔界の騎士団を訪れたことを思い出したサキノは、手帳の在処に当たりを付けて嘆息した。
「何で魔界に置いてきちゃったかな……依頼が終わったら魔界に取りに行かないと……」
余計な手間が増えてしまったと、鬱屈に拍車がかかる。
長脚布をピチッと着用して身だしなみを整えたサキノは自室を移動し、瀟洒な畳の一室へと踏み入った。仄かに香る線香の匂い、部屋の端には額縁の中に一枚の写真が差し込んであり極東の簡易的な仏壇のようであった。
サキノは仏壇の前に歩み寄ると正座で座り、両手を合わせる。
(お母さん……)
静かに瞑目すると、サキノは静かに幼少期の記憶へと飛んでいった。
× × × × × × × × × × × × ×
畳の敷かれた一室。木製の椅子に座り裁縫を行う母。
『あら、サキノ。どうしたの?』
幼女と言っても差し支えの無い低身長のサキノは、まるで何かを隠している事に気が付いて欲しい子供のように部屋の仕切りの前で俯きながら佇んでいた。
『なんでもない』
『何でもないことはないでしょう。そんなに目も腫らして』
『なんでもないっ』
サキノは語調を強めて否定する。
しかし、感情の波が押し寄せて来たサキノはやおらと母に近付き、そっと抱き着いた。
優しく暖かな手が小さな体を包み込む。その確かなる温もりに、少女は静かに体を震わせてポロポロと涙を流し始めた。
『あいつら……またおかあさんのこと……』
亜人族の事を快く思わない悪習によって投げつけられる忌憚の言葉の数々。そんな罵倒を浴びせられる日々はサキノ達アローゼ家の故郷にも潜んでいた。
外出していたサキノへ、同国に住む子供達は好奇心と忌避感からサキノの母親の罵倒を笑いながら放ってきたのだ。血縁関係のあるサキノ本人に対しても。
――どうしておかあさんがわるくいわれなければいけないのか。
――おかあさんがなにをしたというのか。
屈辱、悲嘆、憤怒。そして人族への嫌悪。
下界の常識と言わんばかりのただの風習に何も言い返せないサキノは、その場から逃げるように母の元へと帰ってきたのだった。
『私のために怒ってくれてありがとう、サキノ』
母の手がサキノの頭を優しく撫でる。
母は気付いていた。サキノ本人にも浴びせられた忌憚の言葉を、サキノは隠していることを。自分には何もされていないよと、幼いながらに母に心配をかけまいと強い心で。
泣きじゃくるサキノへ、母は諭すように続ける。
『でも、人族を恨んではいけないわ。人族の皆は私の事を嫌ってはいるけれど、私は皆のことが好き。嫌いながら生きていくより、全てを愛して生きる方が素敵でしょう?』
母は強かった。
亜人族の定められた荒波にも呑まれず、どんな忌避の声を浴びせられようと、人族を嫌うことをしなかった。
何より、サキノへ弱い心を見せなかった。
幼少期のサキノには母が強い理由も、人族達を愛する心構えも理解は出来なかったが。
『サキノ、貴女は強くて優しい心を持っている子。貴女ならこの人族と亜人族の不和を正すことが出来るかもしれないわね。だから今はわからなくとも、この言葉を貴方に覚えておいて欲しいの』
しかし母は、理解にも及んでいないだろう年端のいかないサキノの瞳をしっかりと見据える。
『何かを犠牲にした正解は、他者の正解とは限らない』
慈愛を含んだ、穏和な声音で告げた。
サキノが人の心を理解出来るような歳になれば、きっと自分の想いも、世界の想いも理解出来る筈だと信じて。
サキノは涙で曇る視界で何とか母親を見上げ、その先に続く言葉を耳で追った。
『私達は必ず分かり合える。手を取り合うことが出来る。私は、そう信じているわ。だから――』
× × × × × × × × × × × × ×
サキノは紫紺の瞳を開ける。
その先の言葉が思い出せない。もう何年も前の話だからだろうか。劣悪な環境にて思い出したくの無い記憶だからだろうか。
ただわかるのは、多種族共生のために何も犠牲にしてはいけないということ。母の教えは今のサキノの証明であり、サキノの証明は母の全てだから。
「お母さん、今日も頑張ってくるね。行ってきます」
だから、サキノは今日も全てを背負う。




