第1話 異世界転移した!
田中太郎は、どこにでもいる男だった。
学生時代の成績は中の中。
運動神経も悪くはないが、良くもない。
何かの大会で優勝した経験もなければ、人に自慢できるような特技があるわけでもない。
社会人になってからも、それは変わらなかった。
勤め先は保険会社。
営業職として毎日あちこちを回っているが、成績はいつも真ん中あたり。
一位になったことはない。
かといって、最下位になったこともない。
「田中って、本当に普通だよな」
同期から何度そう言われたか分からない。
太郎自身も否定するつもりはなかった。
「普通が一番やろ。平和やし」
そう言って笑うのがいつものことだった。
ただ、一つだけ。
太郎には昔から、周囲に不思議がられることがあった。
「田中君。また大森さんのところ行ってくれない?」
「大森さん?」
「そう。私じゃ話にならなくて……」
同僚の女性が困った顔をしていた。
大森という客は、社内でも有名だった。
細かい。
話が長い。
気難しい。
そして一度機嫌を損ねると、とことん面倒くさい。
担当者が何人も音を上げている。
「ええけど」
太郎はあっさり答えた。
「嫌じゃないの?」
「別に? 大森さん、話長いだけやろ」
「その話が三時間続くんだけど……」
「聞いといたらええやん」
「三時間も!?」
結局、その日の午後。
太郎は大森の家で、本当に三時間近く話を聞いた。
「それでな田中君! 最近の若い奴は!」
「はいはい」
「人の話を最後まで聞かん!」
「なるほど」
「すぐスマホを見る!」
「それは嫌ですねぇ」
「そうだろう!?」
保険の話をしていた時間など三十分もなかった。
残りは野球、政治、近所のスーパー、息子夫婦への愚痴。
ほとんど世間話である。
それでも帰る頃には、
「また来いよ、田中君!」
なぜか大森は上機嫌だった。
「また寄りますわ」
太郎も普通に手を振る。
会社へ戻ると、同僚が信じられないものを見るような顔をした。
「……なんで大森さんと仲良くなってるの?」
「知らん」
「何か特別なことした?」
「話聞いてただけ」
「それだけ?」
「うん」
太郎には分からなかった。
昔からそうだった。
気難しい人。
無口な人。
変わった人。
周囲から少し距離を置かれているような人間ほど、なぜか太郎とは普通に話した。
本人にその自覚はほとんどない。
だから、それを才能だと思ったこともなかった。
そして、その日の仕事帰り。
田中太郎の「普通」の人生は突然終わった。
◇
「……どこや、ここ」
気がつけば、太郎は真っ白な場所に立っていた。
壁がない。
天井もない。
床らしきものはあるのに、どこまでも白い。
さっきまで会社から家へ帰る途中だったはずだ。
「俺……電車乗ってたよな?」
記憶を辿る。
仕事を終えた。
駅へ行った。
電車に乗った。
座席に座った。
少し眠かったので目を閉じた。
そして――ここ。
「寝てる?」
太郎は自分の頬をつねった。
「痛っ」
夢ではないらしい。
「なんやこれ……」
そのときだった。
「いやぁ、ごめんごめん」
背後から声がした。
振り返る。
そこには一人の老人が立っていた。
真っ白な髭。
真っ白な服。
見るからに怪しい。
というより――。
「……神様?」
「おお!」
老人が嬉しそうに目を輝かせた。
「話が早いねぇ!」
「マジで?」
「マジマジ」
「……死んだ?」
「いや、生きてるよ」
「じゃあなんで神様おんねん」
「それなんだけどねぇ」
神様は視線を逸らした。
嫌な予感しかしない。
「ちょっとした手違いで」
「手違い?」
「うん」
「神様が?」
「神にも失敗くらいある」
「めちゃくちゃ不安になること言うな」
太郎は頭を抱えた。
「で、俺どうなるん?」
「異世界へ行ってもらう」
「…………」
太郎の動きが止まった。
「今なんて?」
「異世界」
「異世界って……あの異世界?」
「どの異世界か知らんけど、たぶんその異世界」
数秒の沈黙。
そして――。
「よっしゃあああああ!」
「うおっ!?」
太郎は拳を突き上げた。
「異世界転移やん!」
「え? 嬉しいの?」
「そらそうやろ!」
太郎だって現代人である。
小説も漫画も読む。
アニメだって見る。
異世界転移。
その言葉から連想するものなど決まっている。
「チートやろ?」
「え?」
「だからチート能力!」
「ああ、うん。本来ならね」
「職業は勇者? 剣聖? 賢者もええな!」
「田中君?」
「魔法も使えるんやろ? 火とか雷とか!」
「ちょっと田中君」
「ステータスもある?」
「あるけど」
「よっしゃ!」
太郎の頭の中では、すでに輝かしい第二の人生が始まっていた。
現代では平凡だった。
何をやっても普通。
しかし異世界なら違う。
神から授かった圧倒的能力。
強力な魔法。
伝説の職業。
モンスターを倒し、英雄となり――。
「ついに俺にも才能が!」
「いや、だからね」
神様が言いづらそうに頭を掻いた。
「本来なら転移させる際に、こちらで強力な職業やスキルなんかを調整して与えるんだけど」
「うんうん」
「今回ちょっとトラブルがあって」
「……ん?」
「それができなくなった」
太郎の笑顔が止まった。
「……もう一回言って」
「だから、チート級の職業とかスキルを与える処理ができなくなっちゃって」
「直して」
「無理」
「そこをなんとか」
「無理」
「神様やろ?」
「神様でも無理なものは無理」
「役に立たんな!」
「神に向かって失礼だぞ!」
神様が頬を膨らませた。
どう見ても威厳がない。
「待って。じゃあ俺、何もなしで異世界行くん?」
「いやいや。さすがにそれは可哀想だと思ってね」
「お?」
太郎の目に再び希望が宿る。
「最低限の調整はしておいた」
「最低限?」
「身体も少し若くしておくよ。二十歳くらいでいい?」
「マジで!?」
これは嬉しい。
異世界に行けて若返る。
それだけでも十分すごい。
「あと、向こうの言葉も読み書きできるようにしておく」
「めっちゃ助かる!」
「それと……」
神様が何か言いかけて、止まった。
「それと?」
「いや、なんでもない」
「気になるやん」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとしたおまけだから」
「なんやそれ」
神様はニコニコしている。
どうにも信用できない。
だが太郎の頭の中は、すでに異世界への期待でいっぱいだった。
チートがなくてもいい。
ステータスがある。
職業もある。
魔法だって存在する。
なら努力すれば強くなれるかもしれない。
何より、今までとは全く違う人生が待っている。
「まあ、なんとかなるか」
「おお。前向きだねぇ」
「俺、昔からなんとかなる精神で生きてるから」
「それじゃあ、そろそろ送るよ」
「ちょ、待って!」
足元が突然光り始めた。
「せめてどんな世界か説明して!」
「行けば分かる!」
「雑すぎるやろ!」
「よい異世界生活を!」
「神様ああああ!」
視界が真っ白になった。
◇
次に目を開けたとき。
太郎は草原に立っていた。
「…………」
風が吹く。
草が揺れる。
遠くには巨大な山々。
空を見上げると、見たこともないほど大きな鳥が飛んでいる。
そして、自分の手を見る。
「若っ」
手の皺が減っている。
身体も軽い。
スマホの黒い画面に顔を映してみる。
「ほんまに二十歳くらいやん……」
太郎はしばらく自分の顔を眺めた。
やがて、ゆっくり周囲を見渡す。
知らない景色。
知らない空。
知らない世界。
実感が湧いてきた。
「ほんまに……」
口元が緩む。
「異世界来たんや……!」
不安より先にワクワクが勝った。
剣。
魔法。
モンスター。
冒険。
今まで物語の中でしか知らなかった世界が、目の前にある。
「さて」
太郎は腰に手を当てた。
「まず何したらええんや?」
当然、答える者はいない。
改めて自分の持ち物を見る。
財布。
スマホ。
ハンカチ。
家の鍵。
「……これだけ?」
剣はない。
防具もない。
食料もない。
地図もない。
当然、この世界のお金もない。
「神様」
太郎は空を見上げた。
「せめて初期装備くらいくれよ」
返事はなかった。
「まあええわ」
太郎は切り替えた。
こういう世界なら、まず確認するものがある。
神様も言っていた。
ステータスが存在すると。
「これやろ」
太郎は右手を前に出した。
少し恥ずかしい。
だが周囲には誰もいない。
「ステータス!」
何も起こらない。
「…………」
太郎は咳払いした。
「ステータス、オープン!」
何も起こらない。
「ちゃうんかい」
色々試した。
「能力!」
「鑑定!」
「メニュー!」
「オープン!」
五回目。
「ステータス表示!」
その瞬間。
ポンッ。
間の抜けた音とともに、半透明の板が目の前に現れた。
「おおっ!」
太郎の目が輝く。
「来た来た来た!」
これだ。
異世界といえばこれ。
太郎は期待しながら表示を読み始めた。
名前――タロー。
種族――ヒト族。
「名前カタカナになってるやん」
まあいい。
問題は次だ。
太郎は息を呑んだ。
職業。
ここが重要だ。
勇者か。
剣聖か。
大魔導師か。
神様はチートを与えられなかったと言っていたが、それでも異世界から来た人間である。
多少珍しい職業くらいは期待してもいいだろう。
太郎はゆっくり視線を下へ動かした。
そこには――。
【職業:生物】
「…………」
風が吹いた。
草原が揺れた。
太郎は何度か瞬きをする。
もう一度見る。
【職業:生物】
「……生物?」
間違いではない。
確かに自分は生物だ。
しかし。
「いや――」
太郎は誰もいない草原で叫んだ。
「それは知ってるわ!!」
異世界生活初日。
田中太郎は早くも、自分の未来に強烈な不安を覚え始めていた。




