第73話 王公会議
王公会議当日。
王都の朝は、張り詰めた弦のように固い静寂と、その裏で蠢く無数の思惑を乗せた冷たい風と共に訪れた。
「おはようございます――互いに良い朝とは、とても言えませんね」
王城の一室、朝日が差し込むテラスで、アイリス・セレスティアは苦笑を浮かべ、ソフィアを迎えた。
夜を徹して聖都から駆けつけたあの日以来、彼女の瞳からは深い疲労の色が消えていない
「ええ、全くです」
ソフィアもまた、疲れた様子で頷いた。
聖都と王都を往復する強行軍。肉体的な疲労よりも、出口の見えない状況がもたらす精神的な消耗の方が、遥かに重く身体にのしかかっていた。
「アラン様の、その後のご様子は?」
アイリスは、テーブルに置かれた紅茶には手を付けず、真っ直ぐにソフィアの瞳を見つめて問いかけた。
「……変わりありません。あの時のままです」
ソフィアは静かに首を横に振った。
あの傲岸不遜な態度、全てを見下すかのような冷たい瞳。
あれから二日、アラン・フォルテスは一切の変化を見せず、ただ自室に閉じこもり、訪れる者すべてを罵倒し続けているという。
ヘレナ・グレインの計らいで、アランに関する情報は、聖都のグレイン本邸にて厳重に管理されている。
「療養中のため、面会謝絶」という公式発表のもと、そのあまりにも危険な変貌ぶりは、ごく一部の者にしか知らされていなかった。
「そうですか……」
アイリスはか細い声で応じ、白い指先でカップの縁をなぞった。
その瞳には、悲しみと、そしてこれから対峙しなければならない困難な現実に対する、静かな覚悟の色が浮かんでいる。
「ソフィア様も王公会議に参加されるのですか?」
空気を変えるように、アイリスが問いかけた。
ソフィアは静かに頷く。
「はい。末席ながら参加を許されております」
去年は書類作業こそ手伝ったものの、会議そのものへの出席は果たしていない。
だが、今年は違う。ラーム村での一件、そしてアランの豹変。この重大な秘密を抱える今、会議に出席することには大きな意味があった。
「そうですか。貴女がいてくださることが、今は何よりも心強いです」
アイリスは、そう言って力なく微笑んだ。
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王城の最奥に位置する「天空の間」。
天井には巨大なシャンデリアが輝き、壁には歴代の王と英雄を描いたタペストリーが掲げられている。
円形に配置された重厚な黒檀の席には、王国の行く末を左右する貴族たちが、それぞれの家の紋章旗を背に続々と着席していく。
その空気は、儀式のように厳かでありながら、水面下では鋭い刃が交わされているかのような、冷たい緊張感に満ちていた。
ソフィアは、グレイン家の一員として割り当てられた末席に静かに腰を下ろし、背筋を伸ばした。
周囲に座る高位貴族たちの、値踏みするような視線が肌を刺す。
王国における四公爵の一つ、グレイン公爵家の代表者の一人として、まだ年若い少女であるソフィアの存在は、この老獪な男たちの間では異質だったのだろう。
しかし既に数多くの天恵の儀を執り行った彼女を、そして天の名を授かりし天恵『天眼』の持ち主を、ただの少女と侮る者は、この場にはいなかった。
誰もがその類稀なる才と、そして聖女ヘレナに認められた者としての重みを理解している。
彼らの視線にあるのは、侮りではなく、この若き才能が会議でどう動くのかという、純粋な好奇と警戒心だった。
ソフィアは、そんな周囲の視線を意にも介さず、円卓の向こう側へと目を向けた。
フォルテス家の席には、当主マルク・フォルテスが、鋼のような表情で静かに座っている。その隣には、長兄であるルーカス・フォルテスの姿もあった。父とは対照的に、ルーカスは周囲の貴族たちと当たり障りのない挨拶を交わしているが、その表情には隠しきれない憂いの色が浮かんでいる。
弟の、そして家の現状を、彼もまた深く憂いているのだろう。
やがて、円卓の最上席に国王アトレウス・セレスティアが姿を現すと、広間にいた全ての貴族が一斉に起立し、深く頭を垂れた。
「皆の者、面を上げよ」
厳かで、しかしどこか疲労の色を滲ませた声が、天空の間に響き渡る。
国王陛下の着席を合図に、貴族たちも再び席に着いた。円卓の中央に置かれた魔法の灯りが、それぞれの顔に深い陰影を落とす。
「これより、王公会議を執り行う。議題は山積しているが、まずは喫緊の課題より審議に入る。――ヴァラ東方における街道封鎖、及びラーム村への魔物襲撃について、フォルテス公より報告を」
国王の言葉を受け、マルク・フォルテスが静かに立ち上がった。
その鋼のような表情は一切揺らがず、ただ淡々と、騎士団から上がってきた報告を読み上げていく。魔物の種類、規模、被害状況、そして現在、ヴァラ駐屯軍と冒険者ギルドが共同で対処にあたっていること。その報告には一切の私情が挟まれておらず、ただ事実だけが冷徹に述べられた。
しかしその中に、アランのこと、そして龍人のダラゴラスのことは含まれていない。
「――以上が、現在までに判明している事実である」
マルクが報告を終え、再び着席すると、場は一瞬の沈黙に包まれた。
誰もが、報告された事実の重さを測りかねている。やがて、その沈黙を破ったのは、フォルテス家とは円卓を挟んで対角に座る、壮年の男だった。
「フォルテス公、ご報告感謝する」
声の主は、商都サンベリアを治めるアンヘル・サンティス公爵。
豊かな口髭を蓄え、その瞳には商人らしい抜け目のなさと、貴族としての矜持が同居している。
そしてその背後には恐らく貴族ではない、歴戦の風格を漂わせる冒険者風の男と、素朴な平服を身に纏った男の姿があった。
「しかし、些か事実の報告に終始しすぎているようにお見受けするが。軍部を統括するフォルテス公として、この事態の原因、そして今後の対策について、何かご見解はないのですかな?」
サンティスの声は穏やかだが、その言葉には明らかな棘が含まれていた。フォルテス家の対応の遅れを暗に指摘し、マルクの出方を探っている。
「原因については、現在騎士団の精鋭が調査中である。憶測で語ることは、この場に混乱を招くだけだ」
マルクは、表情一つ変えずに応じた。
「ほう、調査中、か。ならば、もう一つお伺いしたい。ラーム村の一件、報告によれば貴公の三男であるアラン殿もその場におられたと聞く。彼の証言があれば、より詳細な状況、例えば魔物の出現に何か前兆はなかったかなど、貴重な情報が得られるのではないか? 何故、彼はこの場におらぬ?」
サンティスの追及は、核心へと鋭く切り込んできた。
アランの不在。それこそが、今のフォルテス家が抱える最大のアキレス腱だ。
マルクの眉間の皺が、僅かに深くなる。ルーカスもまた、固い表情でサンティスを睨みつけていた。
「息子は、先の戦闘で深手を負い、現在、聖都のグレイン本邸にて療養中。会議の場に立てる状態ではない」
マルクは、表情一つ変えずに応じ、その言葉に対しヘレナもゆっくりと頷いた。
「おや、それはさぞ、ご心痛のこととお察しいたします。軍部を統べるフォルテス家の御曹司が、辺境の村でゴブリンやオーク程度に深手を負わされるとは……」
サンティスの言葉は、磨き上げられた毒針のように、マルクの、そしてフォルテス家の誇りを的確に刺し貫いた。
天空の間に、嘲笑とも憐憫ともつかぬ、貴族たちのひそやかな囁きが満ちる。
ルーカスの顔が怒りに赤く染まり、今にも席を立ってサンティスに掴みかからんばかりの勢いだったが、その肩を父であるマルクの鋼のような手が、強く、しかし静かに押さえつけた。
「……サンティス公」
マルクの声は、地を這うように低く、しかし不思議なほど冷静だった。
「我が息子は、自らの危険を顧みず、民を守るために戦った。それは、いかなる状況であれ、騎士の名を冠する者の務めであり、誇りだ。貴公に、その覚悟を嘲る権利はない」
その言葉には、一切の揺らぎもなかった。ただ、事実だけを告げる絶対的な響き。場の空気は再び張り詰め、サンティスは一瞬言葉に詰まったが、すぐにその抜け目のない瞳に再び皮肉の色を浮かべた。
「これは失礼。しかし少々誤解があるようですな、フォルテス公。私が言いたかったのは、名誉あるフォルテス家の御曹司がたかがゴブリン、オーク程度に遅れを取るとは到底思えませぬ。――つまり、報告にはない、何か別の要因があったのではないかと、そう申し上げているのです」
サンティスの言葉は、天空の間に新たな波紋を広げた。
それはもはや単なる皮肉ではない。フォルテス家の報告の信憑性そのものを問う、明確な挑戦状だった。
「報告にない要因、だと?」
マルクの声に、初めて僅かな苛立ちの色が滲んだ。
「ええ。例えば、報告にはない、より強大な魔物。あるいは……正体不明の第三者の介在などが、あったのではないか、と」
サンティスの視線が、ちらりと彼の背後に控える二人の男へと向けられる。
その意味深な仕草に、天空の間の貴族たちは息を呑んだ。彼が、何らかの「証人」を連れていることは明らかだった。マルクは唇を噛み締め、ルーカスは拳を握りしめる。フォルテス家は、完全に追い詰められようとしていた。




