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悪役貴族のイレギュラー~破滅エンドを覆せ~  作者: 根古
第1.5章 王公会議編

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第72話 失われたもの

 時間が、凍り付いたようだった。

 窓から差し込む陽光の暖かさも、部屋を漂う薬草の匂いも、何もかもが現実感を失い、ただ目の前の光景だけが、悪夢のようにソフィアの意識を灼きつけていた。


 金色の髪。深い青の瞳。

 待ち望んだはずのその姿は、今やソフィアが最も恐れていた絶望の形となって、そこに存在していた。


「おい、薬師とやら。いつまで俺をこんな場所に置いておくつもりだ。ここはどこだと聞いている!」


 ベッドの上から放たれる苛烈な声に、傍らで控えていた薬師の肩がびくりと震える。その尊大で自分本位な物言いは、ソフィアがラーム村で、そして聖都で共に過ごしたアラン・フォルテスとは、かけらも結びつかなかった。


「も、申し訳ございません、アラン様。こちらはグレイン家の屋敷でして……」


「グレイン家だと? なぜ俺がそんな場所にいる。父上は、マルク公爵は何と言っている!」


 矢継ぎ早に投げつけられる詰問に、薬師はなすすべもなく狼狽えるだけだ。

 その姿を、アランは心底くだらないものでも見るかのような、侮蔑に満ちた視線で見下している。

 ああ、そうだ。これこそが、転生した彼が書き換えようと足掻いた、本来の運命。世間が「フォルテス家の汚点」と蔑み、誰からも見捨てられた、傲慢で無能な貴族の姿そのものだった。


 ――ドクン。


 氷のように冷え切っていたソフィアの心臓が、一度だけ大きく脈打った。

 全身の血が、脳へと駆け巡る。


「……ふう」


 絶望している暇などない。感傷に浸っている場合でもない。

 この事態は、最悪だ。だが、最悪ならば、最悪の事態として対処するしかない。

 ソフィアは、か細く、しかし確かに息を吸い込んだ。


「――セヴァス」


 凛、と響いた声は、自分でも驚くほど冷静だった。

 彼女は凍り付いたように動けずにいた老執事へと向き直る。


「この部屋への立ち入りを、今この瞬間より私か母上――ヘレナ様の許可がある者以外、一切禁じます。アラン様の身の回りのお世話は、信頼できる者に限定し、本日以降の外部との接触を完全に断ってください」


「か、かしこまりました。しかし……」


「異論は認めません。これは聖女ヘレナの名代としての『命令』です」


 普段の彼女からは考えられない、有無を言わせぬ強い口調。その蒼い瞳に宿るただならぬ光に、セヴァスも薬師も息を呑み、ただ深く頭を下げるしかなかった。


「アラン様」


 ソフィアはゆっくりとベッドに向き直った。

 アランは訝しげに、そして敵意を隠そうともせずに彼女を睨みつけてくる。


「アラン様は長きにわたる療養の末、心身共にひどく消耗しておられます。しばらくは、この部屋で安静にしていただくことになります」


「なんだと? 俺に指図する気か、貴様」


「ええ。それが私の仕事ですので」


 ソフィアは表情一つ変えず、静かに言い放った。そしてアランが何かを言う前に、部屋にいた者たちに目配せをし、彼らと共に静かに部屋を退出した。

 扉が閉まる直前、部屋の中から「ふざけるな!」という怒声が聞こえたが、彼女は振り返らなかった。





「……それは本当なんですか?」


 翌日、ソフィアはグレイン邸の一室で、急遽王都から駆けつけた人物と向き合っていた。

 アイリス・セレスティア。

 その日のうちに報せを受けた彼女は、夜を徹して馬を飛ばし、夜明けと共にこの聖都の門を叩いたのだという。その瞳には深い疲労と、それ以上に、信じられないという強い光が宿っていた。


「はい。昨日、私がこの目で確認いたしました」


 ソフィアは、テーブルに置かれた紅茶には目もくれず、静かに、しかしはっきりと事実を告げた。

 アラン・フォルテスは目覚めた。だが、そこにいたのは、自分たちが知る彼ではなかった、と。


「……そうですか」


 アイリスは、か細い声でそれだけ言うと、視線を落とした。白磁のカップを持つ彼女の指先が、微かに震えている。王都から夜を徹して馬を飛ばしてきた疲労か、それとも、あまりにも残酷な報せが彼女の心を蝕んでいるのか。


「……彼に、会わせていただけますか」


 数瞬の沈黙の後、顔を上げたアイリスの瞳には、先ほどの動揺とは異なる、静かで、しかし芯の通った強い光が宿っていた。

 王女としての、そして彼の婚約者としての覚悟が、彼女を奮い立たせている。


「……わかりました」


 ソフィアは、アイリスの瞳に宿る揺るぎない光を真っ直ぐに見返し、静かに、しかし確かな意志を込めて頷いた。

 この王女は、ただ悲嘆に暮れるだけの深窓の姫ではない。

 自らの足で立ち、運命と対峙する覚悟を決めている。その強さに、ソフィアは僅かな安堵と、そして共に戦う者としての敬意を覚えた。


「ですがアイリス様、どうか心の準備を。今のアラン様は、貴女の知る……私たちが知る彼ではないかもしれません」


「ええ、承知しています――むしろそっちの方が見慣れた顔ですから」


 アイリスは、震える指先でカップをソーサーに戻すと、静かに、しかしどこか自嘲するようにそう言った。

 その美しい顔には、悲嘆の色はない。ただ、これから対峙するであろう困難な現実を、真っ直ぐに見据える強い光だけが宿っていた。


「期待しない分、傷つくこともないでしょうから」


 アイリスは、そう言って儚げに微笑んだ。

 ソフィアは無言で頷き、静かに立ち上がった。この王女の覚悟は、本物だ。ならば、自分もまた、彼女を支え、この絶望的な状況を打開するための最善を尽くすまで。


 二人は、アランが療養している西棟の一室へと向かった。

 磨き上げられた大理石の廊下に、二人の足音だけが静かに響く。道中、言葉はなかった。だが、その沈黙の中には、これから対峙するであろう残酷な現実と、それでも決して諦めないという、無言の誓いが満ちていた。


 部屋の前には、セヴァスの指示を受けたのであろう、屈強な神殿騎士が二人、微動だにせず立っている。彼らはソフィアとアイリスの姿を認めると、音もなく道を譲り、深々と一礼した。

 ソフィアが、重い扉を静かに開ける。


 部屋の中央、大きな天蓋付きのベッドの上で、アランは腕を組み、不機嫌そうに窓の外を眺めていた。一月もの間眠っていたとは思えないほど、その佇まいには人を寄せ付けない傲慢な空気が漂っている。


「……また貴様か。懲りない女だな」


 アランは、ソフィアの姿を認めると、心底うんざりしたように吐き捨てた。そして、その後ろに立つアイリスの存在に気づくと、その深い青の瞳を僅かに細める。


「アイリス……? 貴様まで何の用だ。王女ともあろう者が、わざわざこんな場所まで。よほど暇と見える」


 その声には、婚約者に対する親愛の情など微塵も感じられない。ただ、自分より身分の高い王女に対する、儀礼的な、しかし棘を含んだ響きだけがあった。


「ごきげんよう、アラン様。貴方が目覚められたと聞き、お見舞いに参りましたの」


 アイリスは、アランの冷たい言葉にも動じることなく、背筋を伸ばし、優雅にカーテシーをしてみせた。その声は穏やかで、表情には完璧なまでの笑みが浮かんでいる。だが、ソフィアには分かった。ドレスの裾を握りしめる彼女の白い指先が、微かに震えているのを。


「見舞いだと? くだらん。俺は至って健康だ。それより、なぜ俺がグレイン家の屋敷にいる。父上は何を考えている。さっさとフォルテス邸へ戻るぞ」


 アランは苛立たしげにベッドから身を起こそうとする。その時、左肩に鈍い痛みが走ったのか、顔を僅かに顰めた。


「まだお身体は万全ではないはずです。ラーム村での傷が――」


 ソフィアが思わず口を挟むと、アランは「ラーム村?」と、心底不可解そうな顔で聞き返した。


「なんの話だ。俺がそんな辺境の村に行くわけがないだろう」


 その瞳には、嘘や誤魔化しの色はない。純粋な無知と、ソフィアの言葉に対する苛立ちだけが浮かんでいた。

 やはり、ラーム村での記憶、ゴブリンとの死闘、ランドとの出会い、ダラゴラスとの対峙――その全てが、彼の内側から綺麗に消え失せている。


「アラン様、覚えておられないのですか? 学院でのお怪我が元で、しばらくお休みになっていた時のことを」


 アイリスが、努めて穏やかな声で、記憶の糸口を探ろうと試みる。彼女は、アランが「別人」になったきっかけ――転生者として目覚めた直後の出来事を指していた。


「学院での怪我……?」


 アランは眉をひそめ、記憶を探るようにこめかみを押さえた。


「ああ、そういえば、レオンとかいう生意気な平民に反撃されて……クソッ、思い出しただけで腹が立つ!」


 忌々しげに吐き捨てられた言葉。それは、ソフィアとアイリスの胸に、冷たい楔を打ち込んだ。

 どうやら彼の記憶は、そこで止まっているようだった。


「アイリス様……もうそろそろ」


 ソフィアは静かに、しかし強い意志を込めてアイリスに囁いた。

 これ以上、彼を刺激するのは得策ではない。アイリスもまた、唇を噛み締め、静かに頷いた。


「アラン様、今はどうかごゆっくりお休みください。詳しいお話は、また改めて」


 アイリスは、完璧な王女の笑みを崩さぬまま、そう言って優雅に一礼すると、ソフィアと共に静かに部屋を後にした。

 バタン、と無慈悲に閉ざされた扉の音だけが、アランの苛立ちをさらに掻き立てる。


「……何なんだ、あいつら」


 一人残された部屋で、アランは忌々しげに呟いた。

 ソフィアという銀髪の女、そして婚約者であるはずのアイリス。二人の瞳に宿っていた、得体の知れない感情。それは哀れみか、あるいは失望か。どちらにせよ、自分を対等に見ている者の視線ではなかった。

 そして何より、この身体に残る奇妙な違和感。

 眠っていただけのはずなのに、なぜか身体の芯には、覚えのない力が燻っているような感覚。左肩に時折走る、古傷のような鈍い痛み。


「……一体何があった……?」


 その問いに答える者は、誰もいない。

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