第71話 その報せは
王公会議の開催を三日後に控えた王都は、日に日にその緊張感を増していた。
ヴァラでの一件、そしてラーム村での大規模な魔物襲撃の報は、既に主要貴族たちの耳にも届いている。水面下では、各公爵家がそれぞれの思惑を胸に、情報収集と勢力固めに奔走していることだろう。
グレイン邸もまた、その例外ではなかった。
先日のフォルテス邸への訪問と報告を終えた後も、彼女の仕事は山積みだった。
ラーム村での戦闘詳報、龍人を名乗る男ダラゴラスの危険性、そして何より、原因不明の昏睡状態に陥ったアラン・フォルテスに関する詳細な報告書の作成。それらを聖女ヘレナへと送り、指示を仰ぐ日々。
(問題が、山積みすぎる)
手にした古文書のページをめくりながら、彼女は小さく息を吐く。
ソフィアがグレイン家の公務に携わるようになったのはここ二年ほどのことだが、これほどまでに先が見えず、忙しいと感じたのは初めてのことだった。
相次いだ事件と事故によって単純な仕事量が増えているということもあるが、何よりその渦中に自分自身がいることが、彼女の心を休ませてはくれなかった。
「……はぁ」
一向に終わりの見えない報告書を前に、ソフィアはこめかみを軽く押さえた。
せめて一人でも助けがあれば、と甘えた考えが浮かんでくる。本来ならその役目こそが、自身の補佐役であると同時に仕事を増やした張本人――アラン・フォルテスなのだが。
(目が覚めたら、どれだけ心配したか、文句の一つや二つ……いえ、十や二十は言ってやらなければ気が済みません)
そんな子供じみた想像だけが、張り詰めたソフィアの心を束の間和ませてくれた。
しかし彼はいつ頃目覚めるだろうか。
全てを写してきた『天眼』であってもそれだけは分からない。それはもう一つの『天眼』であっても同様だった。
『契約――俺の、十年だッ!!』
あの時の、彼の悲痛なまでの覚悟の叫びが、ソフィアの脳裏に蘇る。
十年分の未来を代償に、あの絶望的な状況を覆そうとした彼の選択。その代償が、この長い眠りなのだろう。
以前、彼が同じように眠りについた時は、一週間ほどで目を覚ました。
だが、今回は既に一月が過ぎようとしている。
代償として支払った「十年」という時の重さ。一年で済むとは到底考えられない。
最悪、永遠にこのままなのでは――。
そんな最悪の可能性が脳裏をよぎった、まさにその時だった。
「ソフィア様、セヴァスでございます」
静かに入ってきた老執事の顔には、いつもの冷静沈着な表情とは異なる、明らかな動揺の色が浮かんでいた。そのただならぬ様子に、私の胸がドクンと嫌な音を立てる。まさか、ガルド様たちの容態が急変したのでは――。
「ソフィア様、落ち着いてお聞きください。先ほどアラン様がお目覚めになられたと、連絡がありました」
「――え?」
セヴァスの言葉は、ソフィアの思考を完全に停止させた。
アラン様が、目覚めた?
信じられない、という思いと、堰を切ったような喜びが、同時に胸の奥から込み上げてくる。
「本当ですか、セヴァス!?」
「はい、間違いございません」
ソフィアは椅子から立ち上がっていた。手にした羽根ペンが、カタリと音を立てて床に落ちる。
「セレスティア家とフォルテス家への連絡は?」
「既に両家へは伝令を向かわせております」
セヴァスの淀みない返答に、ソフィアは一つ頷く 。彼女は床に落ちた羽根ペンを拾うのも忘れ、逸る気持ちを抑えるように、しかし早足で扉へと向かった 。
「セヴァス、案内を。私もすぐに聖都へ向かいます」
「かしこまりました。すぐに馬車をご用意いたします」
聖都マリエルナからラーム村へ。
つい先日、希望と課題を胸に戻ってきたばかりの道を、今度は焦燥感だけを道連れに、馬車は再び駆けていった。
▼
アランの療養室として使われている、グレイン邸西棟の一室。
馬を飛ばして駆けつけたソフィアは、逸る気持ちを抑えながら、静かにその扉を開いた。
ギィ、と小さな蝶番の音が、やけに大きく部屋に響く。
部屋の中央、大きな天蓋付きのベッドの上で、金色の髪の少年がゆっくりと上体を起こしていた。窓から差し込む午後の陽光が、彼の少し痩せた横顔を照らし出している。
「アラン、様……?」
ソフィアの呼びかけに、少年――アラン・フォルテスは、ゆっくりとこちらを振り返った。
その深い青の瞳が、ソフィアの姿を捉える。
だが、その瞳に宿っていたのは、ソフィアが期待していた再会の喜びでも、安堵でもなかった。
何かが、おかしい。
彼の顔色は良い。呼吸も穏やかだ。だが、その佇まいから、ガルドとの過酷な修練で身につけたはずの、芯の通った武人の気配が綺麗に消え失せていた。
そして、ソフィアの姿を捉えた深い青の瞳に宿る光は――最後に見た時とは、まるで違っていた。
そこに宿るのは、安堵でも、再会の喜びでもない。
見慣れない人間を見るかのような、純粋な訝しさと……そして、全てを見下すかのような、傲岸不遜な光。
「……なんだ、お前は」
低く、そして不機嫌さを隠そうともしない、見下すような響き。
ソフィアの足が、その場で凍り付いた。
「え……?」
アランの唇から紡がれたのは、低く、不機嫌そうな、そしてどこまでも冷たい響き。
「騒々しいぞ」
アランは心底不愉快そうに眉をひそめ、ソフィアの存在などまるで汚物でも見るかのように、その深い青の瞳を冷たく眇めた。
「誰の許しを得て俺の部屋に入ってきた? 身の程を弁えろ、平民が」
その言葉は、まるで冷たい刃のようにソフィアの心を貫いた。
目の前にいるのは、紛れもなくアラン・フォルテスだ。金色の髪も、深い青の瞳も、少し痩せたとはいえ、一月もの間、彼女が付き添い続けた少年の姿そのものだった。
だが、彼から発せられる言葉と、その瞳に宿る光は、ソフィアが知るアランとは似ても似つかぬ、冷たく、傲慢なものへと変貌していた。
「な、何を……」
ソフィアの唇から、間の抜けた声が漏れる。
目の前の少年は、紛れもなくアラン・フォルテスだ。だが、それはソフィアの知る「彼」ではなかった。
それこそ世間が「フォルテス家の汚点」と揶揄した、あの頃の――。
「聞こえなかったのか? さっさと失せろと言っているんだ。それとも、俺の言うことが聞けないのか? ……ああ、そういえば、ここはどこだ。フォルテス邸ではないようだが。おい、薬師、貴様が答えろ」
アランは、呆然と立ち尽くす私を一瞥だにせず、傍らの薬師に顎で命令する。その尊大な態度、傲慢な口調。それは、私がラーム村で、そして聖都で共に過ごした彼とは、似ても似つかない姿だった。
(……まさか)
全身の血の気が引いていくのが分かった。
喜びも、安堵も、一瞬にして絶望の闇に塗り潰される。
天恵『前借』。
自らの十年分の未来を代償にした、あの最後の賭け。
その代償は、彼の魔力や生命力だけではなかったというのか。
彼が守ろうとした仲間たちの記憶も、運命に抗おうとした強い意志も、その全てを「精算」してしまったというのか。
王公会議まで、あと二日。
共に未来を切り開くと誓ったはずのパートナー。閉ざされた運命に風穴を開ける希望の光だと信じた少年。
その全てが、今や王国を、そして自分たちの未来を破滅させかねない最大の爆弾へと変貌してしまった。
ソフィアは、あまりにも残酷な現実を前に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。




