第69話 関わる者
フォルテス公爵邸に、重く、冷たい沈黙が降りてきてから、既に数日が過ぎていた。
エミリーの一日は、いつもと変わらず、冷たい石の廊下を雑巾で磨き上げることから始まる。けれど、かつてこの廊下に響いていた主人の一人、アランの不機嫌な足音や、癇癪交じりの声はもうない。ただ、使用人たちがひそやかに交わす囁き声と、時折聞こえる当主マルクの、書斎の扉の奥からの深い溜息だけが、この広すぎる屋敷の静寂をかき乱していた。
「聞いた? ラーム村での一件、ガルド様も意識が戻らないほどの大怪我だそうよ」
「まあ……。アラン様はやはり、良くないものを呼び寄せてしまうんじゃないの?」
「およしなさい。公爵様がお聞きになったらどうするの」
厨房へ向かう途中、すれ違った先輩メイドたちの会話が、針のようにエミリーの胸を刺す。
以前の、わがままでどうしようもなかったアランを知っているからこそ、彼女たちの言葉を完全に否定することはできない。けれど、最後にこの屋敷を発たれる前、自分のような者に「ありがとう」と、少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに告げてくれたあの方の姿を思い出すと、どうしても胸が痛んだ。
あの方は、確かに変わろうとされていた。
天恵の儀といい、今回の一件といい、どうしてあの方にばかり、様々な困難が舞い込んでくるのだろうか。
そんな重苦しい空気が続いていたある日の午後。
屋敷の空気を切り裂くように、玄関ホールがにわかに騒がしくなった。執事長が慌てた様子で玄関へ向かい、やがてその口から告げられた名に、屋敷中の使用人たちが息を呑んだ。
「アイリス・セレスティア王女殿下が、お見えになりました…!」
驚きに立ち尽くすエミリーに、その執事長から直々に声がかかった。
「エミリー、王女殿下へのお茶の用意を。お前が運ぶように」
「は、はいっ!」
戸惑いながらも、エミリーは急いで厨房へと向かう。
アイリスとは、彼女がまだ幼い頃、アランとの婚約が決まる以前から面識があった。侍女見習いとして王城に上がっていた時期、おてんばだった王女によく懐かれ、遊び相手を務めたこともある。だからこそ、彼女があの傍若無人だったアランと婚約すると聞いた時は、本当に耳を疑ったものだ。優しく聡明なアイリスが、どうしてあのような方の元へ、と。
しかし、今となってはその考えも覆されていた。
むしろ、あのように強く、そして優しくあられるアイリスだからこそ、孤独だったアランの支えになれるのかもしれない、と。そんなことすら考えていた。
銀盆に、王族を迎えるにふさわしい最高級の茶器を乗せ、重厚な応接室の扉をノックする。
「……失礼いたします」
中へ入ると、そこには張り詰めた空気が満ちていた。
窓際に立つマルク公爵は、苦渋に満ちた表情で腕を組んでいる。
そして、その正面には、アイリスが、いつもの華やかなドレスではなく、動きやすい乗馬服に近い装束で、しかし王女としての威厳を一切損なうことなく、凛として立っていた。
「久しぶりね、エミリー」
アイリスはエミリーの姿を認めると、ふっと頬を緩めた。その声にはいつもの優雅さの中に、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「お久しぶりでございます、アイリス様」
エミリーは深々と一礼し、慣れた手つきでテーブルに茶器を並べ始める。
「相変わらず、あの方にはお互い苦労をさせられるわね」
アイリスは、親しい者にだけ見せる悪戯っぽい、しかしどこか憂いを帯びた笑みを浮かべた。
「滅相もございません。アイリス様こそ、ご心労はいかばかりかと……」
エミリーは、丁寧に紅茶を注ぎながら、心からの気遣いを口にする。
「ああ、せっかくです、エミリーも同席してはどうですか?」
「えっと、同席ですか?」
アイリスからの唐突な問いに、エミリーは困惑の声を漏らした。
今、この場にいるのは、アイリス様、マルク様、そして恐らくアイリス様と同い年の少女が一人、少し離れた場所に座っている。
「ええ、ソフィア様に、ラーム村でのアラン様の詳しいご様子を伺おうと思っていたところですもの。貴女も、聞きたいでしょう?」
ソフィア様、と呼ばれた銀髪の少女は、エミリーの視線に気づくと、軽く会釈をした。
その整った顔立ちはまるで人形のようで、大きな青い瞳は、年齢にそぐわないほどの冷静さと知性を宿している。
聖都のグレイン家から、ヘレナ聖女様の名代として状況報告のために派遣されたのだと、先ほど執事長から聞いていた。
「ですが、私はただの使用人でございますので……」
「構いません。公爵様も、よろしいですね?」
アイリスが強い眼差しで問いかけると、マルク公爵は深く息を吐き、無言で頷いた。エミリーは恐縮しながらも、壁際にそっと控える。
「お気遣い、痛み入ります」
静かに、しかし凛とした声でアイリス様はそう応じると、控えていたエミリーへ、そしてソフィアへと視線を向けた。
「――さて、ソフィア様。この度ははるばるお越しいただきありがとございます」
アイリスの言葉に、ソフィアと呼ばれた銀髪の少女は、静かに、しかし深く頭を下げた。
「グレイン家ソフィア・メティスにございます。この度は、アラン・フォルテス様の件、そしてラーム村での一件につきまして、ご報告に上がりました」
その声は、年齢にそぐわないほど落ち着いており、透き通るような響きを持っていた。エミリーは、彼女がただの使者ではない、特別な存在であることを直感的に理解する。
「ええ、聞かせてちょうだい。一体、何があったのか。全てを」
アイリスの声には、王女としての威厳と、一人の少女としてのアランへの深い憂いが同居していた。ソフィアは一度、マルク公爵へと視線を向けたが、彼は腕を組んだまま、ただ窓の外を見つめている。肯定も否定もしないその姿が、逆に重苦しい圧となって部屋を満たしていた。
やがて、ソフィアは静かに語り始めた。
ラーム村へ向かうことになった経緯、辺境の村を突如襲ったゴブリンとオークの群れ、そして護衛責任者であったガルドの奮戦と、オークとの死闘の末の負傷。
彼女の口から語られる事実は、エミリーの想像を絶するほど過酷なものだった。
「……ガルドが、そこまでの深手を……」
マルク公爵が、初めて苦々しげに呟いた。長年の友である猛者が倒れたという事実は、彼にとっても大きな衝撃だったのだろう。
「はい。ですが、ガルド様は騎士としての務めを全うされました。そして……」
ソフィアは一度言葉を切り、その大きな青い瞳を真っ直ぐにアイリスへと向けた。
「アラン様もまた、自らの危険を顧みず、ゴブリンの群れに立ち向かわれました。未熟ながらも、その身に叩き込まれたスキルを駆使し、私たちを守るために、最後まで戦い抜かれたのです」
その言葉に、エミリーは息を呑んだ。
アイリスの瞳が、僅かに潤んだのが分かる。マルク公爵もまた、僅かに目を見開き、信じられないものを見るかのようにソフィアを見つめていた。
「アランが……戦った、だと?」
「はい。その結果、数体のゴブリンを打ち倒されましたが、奮戦の末、敵の攻撃を受け……。それが、現在の昏睡状態の原因です」
ソフィアは、アランの天恵『前借』の代償については巧みに伏せ、あくまで戦闘による負傷として説明した。
彼女の報告はどこまでも客観的で、感情を排した事実の羅列。だが、それ故に、アランの奮闘ぶりは、聴く者の胸に確かな熱を持って伝わってきた。
静まり返った応接室に、ソフィアの落ち着いた声だけが響く。
エミリーは、息をすることすら忘れ、その報告の続きに聞き入っていた。アラン様が、戦われた――。その事実が、これまでの彼の評価を根底から覆す、あまりにも衝撃的な響きを持っていたからだ。
「そう……あの方は、戦ったのね」
長い沈黙を破ったのは、アイリスだった。
その声は震えていたが、それは悲しみだけではない。どこか誇らしげな、そして愛おしいものに触れたかのような、温かい響きを帯びていた。
「――折り入って皆様にお伝えしたいことがあるのです」
ソフィアは一つ呼吸を置いたかと思うと、皆の視線が再び自分に集まったのを確認し、静かに、しかし確かな意志を込めて続けた。
「何かしら?」
アイリスが答える。
「私達が対峙した”敵”のことです」
ソフィアの静かな、しかし確かな重みを持った言葉に、応接室の空気は再び張り詰めた。
マルクは腕を組んだまま眉間の皺を深くし、アイリスは無意識にドレスの裾を強く握りしめる。エミリーもまた、息をすることすら忘れ、銀髪の少女の次の言葉を待っていた。
「私たちが対峙したのは、ゴブリンやオークだけではありませんでした」
ソフィアは、テーブルに置かれた紅茶のカップには目もくれず、真っ直ぐにアイリスとマルクを見据えた。
「その場には、もう一人……いえ、もう一匹と言うべきでしょうか。特級冒険者ダラス・エリオットを名乗る、正体不明の男がおりました」
「冒険者……? その者が、アランたちを助けたのではなかったのか?」
マルクが、低い声で問い返す。
今、ソフィアの口から告げられる言葉は、報告書に特に記載されていなかった事柄だ。
「はい。結果的に、そうなった側面はございます。彼は圧倒的な力で、私たちでは歯が立たなかったであろうオークを瞬く間に討ち取りました。ですが……」
ソフィアは一度言葉を切り、その大きな青い瞳に、あの時の戦慄をありありと蘇らせた。
「彼の存在そのものが、今回の襲撃の引き金であった可能性が極めて高いのです。ガルド様が森の奥で発見された、この度の元凶と思われる『魔導石』。それを持ち込んだのは、おそらく彼でしょう」
「魔導石……?」
アイリスが訝しげに繰り返す。エミリーにとっても、初めて聞く言葉だった。
「それは周囲の魔力を乱し、魔物を狂暴化させ、引き寄せる性質を持つ、古代の危険な魔道具、と。ガルド様が森で発見された時も、ゴブリンたちがそれを崇めるように群がっていた、と」
「何……? そのようなものがあるとは聞いたことが……」
マルクの表情が、驚きから険しいものへと変わる。騎士団を統括する公爵として、聞き捨てならない情報だった。
それはもはや、単なる魔物の暴走ではない。明確な「意図」を持った誰かによる、王国への攻撃である可能性を示唆していた。




