お茶会編17
カーラはルビーが指摘するまで、自分の左目にもう目眩ましの魔法が残っていないことに気づいていなかった。
カーラを認識した後ルビーの嗚咽はいよいよ大きくなり、ぽたぽた溢れ始めた涙をぬぐおうとしてカーラは手を伸ばすが、ルビー本人によって拒絶されてしまう。
「さわらないで……あなたも、ずっと騙していたのね。王太子殿下の、ソロさまの手先として、私を陥れた。このために近づいたのね? 婚約は破棄された。これだけ大きな騒ぎになったら、いかに公爵家の人間といえどもただでは済まない。私が居場所だと思ったものは、もう残らず没収されてしまった。これで満足なんでしょう?」
ルビーは泣いていたが、その言葉は冷静だった。きっとこうやって傷つくことには慣れっこで、泣くことは彼女の思考を妨げるものではない。きっと泣くことだってギリギリまでこらえていたのに、カーラを見たとたんに涙は止まることなくこぼれ始めた。そのことに、カーラは胸の底から冷えていくような気持ちがした。
王太子にひどいことを言われても、周囲から冷たい視線を浴びても持ちこたえた彼女の最後の堤防を、自分が崩してしまった。そう感じたカーラはルビーのそばにしゃがみこみ、彼女と視線を合わせてから頭を下げた。
「ごめんなさい、わたし、あなたにウソをついていた」
――わたしの言葉、どうかルビーに届いて。
カーラはそう願いながら一言一言を紡いでいく。祈りに近い思いで、精一杯心をこめた。
一度でもウソをついたら、もうその人と良好な関係は築けないものだろうか。
そんなことはないと思いたかった。
「私はカーラ。カーラ・トラフ。王太子の想い人の妹。勇者の瞳を託された者。あなたの行動が『盟約』に違反しているかもしれないという勇者の疑念を解消するために、公爵家にスパイとして入ったの」
目の前のルビーの顔が白くなる。どんな気持ちなのか知りようもないが、ポジティブな感情であるわけがなかった。
周囲のざわめきも王太子の戸惑いも、ソロもリカルドも、今のカーラにはなにも目には映ってはいなかった。ただ目の前の女の子を救いたくて、カーラはひたすらに言葉を紡ぐ。
ルビーと手を繋ごうとして払い除けられる。遠ざかっていく、少しだけ触れた指先は冷たかった。
そのことが寂しかった。
もっと早く、ルビーの隣にいることを決めていればきっと、彼女にこんな思いをさせることはしなくて済んだのだ。ルビーはずっと、ヒントをくれていたのに。
「でもね、公爵家に入って、本当のあなたに会って。あなたが巷で言われているような人じゃあないんじゃないかって、そう思った。あなたは何度も怒ってるロミーナさんからわたしをかばってくれたわ。わたしのクッキーを、大事そうに受け取ってくれた。わたしだけじゃなくて、公爵家の使用人さんたちはみんな、あなたの優しさに助けられてる。だからわたしも、あなたを助けたい。あなたの、力になりたい」
目をまっすぐにみつめて言った言葉は、しかしすぐに否定される。立ち上がろうとしてもうまく力が入らない様子の彼女にもう一度手を伸ばすが、逆にその手を掴まれて、にらみつけられた。
「信じられると思う? 私はずっと、得たいのしれない愛情と、得たいのしれない憎しみにさらされてきた!」
カーラの手を掴んで暴れるルビーを押しとどめる。
カーラは目の前に夢中でまったく気づいていないが、王太子たちは何が起きているのか全然理解していない顔でカーラたちを見ている。カロルドは面白そうにその様子を眺めている。ソロは、静かにその背後に忍び寄っている。
「ソロなら、きっとあなたの力になる。助けてくれるわ」
そう言ったカーラを、まるでバカにするかのようにルビーが笑う。
捕まれたままの腕は振りほどこうと思えば簡単に振りほどける。力の入らない体。体温の消えた指先。そのすべてが痛ましい。なんとか、彼女の心に寄り添う方法はないものなのか。
「ソロさまに、助けを求めようとしたことももちろんあったわ。けれどあの方は魔力のコントロールを、自分を律しろ、感情を捨てろなんて言うだけで、到底真似できるものではなかった。私だって、捨てられるものなら心を全部捨てたかった! 私は私が嫌い。無限の魔力を望まずに与えたこの瞳も、いたずらに他人を誘惑すると言われた容姿も、周囲に流されたままなにも手を打てずここまできてしまった人格も、何もかもが大嫌いで、世界で一番嫌いな自分を消したいのに、心を消すにはこの嫌悪感を全部なくさないといけなくて、この嫌悪感を受け入れられるならそもそも、自分の感情を暴走なんてさせてないわよ!」
どんなに人から嫌われて、距離を置かれても自分だけは大嫌いな自分から逃げられない。死のうとしたことすらあったが、その度に唯一の例外である両親や古参の使用人が必死に留めてくれた。
だから、せめて彼らのために生きようとして、それでも、この瞳は自由だけは絶対にくれない。この瞳のせいで人を呼び込み、この瞳のせいで人が離れる。
目玉をほじくりかえしてなんとかなるならとっくにそうしてたのに、と悲痛にあげる声を聞いてもなお、周囲のルビーを見る目が和らぐことはない。それほどまでに呪いは深い。
そのことが、カーラにはいっそ不思議だったのだ。宝石眼が暴走しているというのが、いまいちピンとこない。ルビーに過剰な敵意なんて抱くはずがないし、ルビーに好意を抱いてはいるが、過剰ではない。と、思う。
それはやはり、この左目のおかげなのだろう。ソロ自身は残念ながら彼女の力にはなれなかったようだが、勇者の魔力がカーラを守ってくれた。
「……わたしの左目は勇者に借りた宝石の瞳。だから、わたしにはあなたの魔力が通用しなかった。だって、あなたよりずっと強い魔力に守られていたのだもの。でも、だからわたしは、ご両親や使用人さんたちみたいに本物のあなたに会えたのね。あなたはありがとうって言える人。人の気持ちを思いやって、だけど自分のために、そうやってちゃんと悲しめる人」
そう言うと、驚いた拍子に泣き止んだルビーの視線がカーラを捉えた。左目に注目するその視線を、微笑んで受け止める。
悲しんでいる彼女に、大丈夫だと伝えたい。もっと怒っていい。もっと悲しんでいい。感情を捨てる必要なんてない。
「わたし、あなたのことをもっと知りたい。あなたと友達になりたい。わたしならそれができると思うし……もしそんなの嫌だとあなたが言うなら、わたしと同じようにあなたの瞳の影響を受けない人を、探してみるわ。使用人さんたちは大丈夫なのだし、きっと他にもいるはずよ。そうやって、受け入れてくれる人を一人づつ増やしていって、そうすればいつかあなたの気持ちも楽になるかもしれない。そうすれば感情や魔力のコントロールも、今よりできるようになるかもしれない。もしそうなったら、今度は私の家族を紹介したい。わたしね、姉がいるの。とってもきれいな人よ、ルビーに負けないくらい。きっと仲良くなれるわ、あなたと同じに、優しい人たちだから」
ルビーの真っ赤な瞳をまっすぐに見て、ゆっくりと言葉を紡いでいった。あなたの周りからすべての人がいなくなったわけではない。あなたを大切に思っている人はまだいるのだと伝えたかった。そして、これからそれを増やすこともできるのだと、カーラは伝えたかった。
ルビーは黙ってカーラの言葉を聞きながら、まるで咀嚼するようになんども小刻みに頷いた。
「ねえ、だから。居場所を失ったならもう一度作ればいい。可能性はいつだってたくさんあって、つらいところにだけ目を向けてそこに留まっている理由なんてなにもない」
ルビーの瞳にもう一度涙が浮かぶ。胸に飛び込んでくる少女を、避けることはしなかった。自分をきつく抱きしめる体の全部が暖かく、メイド服が涙でしっとりと濡れるのを感じながら、少女の頭を柔らかくカーラは撫でる。
――もう、大丈夫。
そう思う。彼女に、自分の言葉が届いてよかった。受け入れてもらえてよかった。
本当は、カーラの手もルビーに劣らず冷たかった。手を差し伸べるのにも勇気がいる。人が人を助けられるだなんて、きっとただの思い上がりだ。カーラが目の前に立つ必要は本当はなくて、ルビーはきっと自分で立ち上がることができただろう。ルビーは他人のことを受け入れる強さを持った人で、だからこそルビーはカーラの言葉を聞き入れてくれたのだ。
しかし、だからこそ、ルビーをここまで追い詰めた環境に、カーラは怒りを感じていた。
ルビーを抱きしめたままカーラが顔をあげて王太子を睨み付けると、周囲の時間はやっと動き出したようだった。
カーラと目の合った王太子は、先ほどルビーを断罪したのと同じ口調で叫んだ。
「なんのつもりだ、カーラ!」




