Episode.001-06
[ ――『エレウシス』 日本フラグメント―― 7月26日 20:58(UTC + 9:00) ]
白雪の降り積もる人跡未踏の針葉樹林。人家の灯りや旅人の焚く燎火などの光源があろう筈もないその空間は、しかし、銀色に輝く巨大な満月が、朧な蒼白の光でもって照らし出し、暗闇に支配される事はなかった。時折、林立する針葉樹を塗る氷雪が、淡い月光を受けて煌めき、天上に瞬く星辰のように、幻想的な景色を彩っている。
まるで、創作された物語に登場する神秘の森であるかのように、現実味を喪失してしまいかねない程の明媚な風光であるが、薄闇を白と青とで染め上げたこの場所が、仮想空間上に作られたゲームの中だという事実こそが、現実性から逸脱した話であろう。
今、月明かりに濡れた針葉樹林の中には、3つの人影があった。『目撃者』クエストによって巡り合った黒血、リディア、ミュリアの3名である。
「それにしても、よく【設定】画面なんて見てましたね」
項垂れた黒血を横目に見ながら、リディアが言う。言われたミュリアは、照れたように栗色のショートカットを掻いた。
彼等は、請け負ったクエストの達成条件となっているフレンド登録をしようとしていたのだが、少々話が脇道に逸れ、今は、メニュー画面の中の【設定】という項目を確認していた。
黒血の名前に『かわいそうな子』という称号が冠されていたのを発見したミュリアが、称号の表示と非表示を切り替える設定項目が、メニュー画面の【設定】にあったかも知れない、と発言したのを受けて、黒血が目の色を変えて反応したのが切っ掛けである。
しかし実際には、称号の表示有無を変更する事は出来ず、これはミュリアの勘違いであった。目的の機能がない事に黒血は落胆したが、【設定】でカスタマイズできる項目は多岐に渡り、リディアとミュリアも【設定】の画面を確認する事になったのである。
「音楽がなかったから、設定変えないとダメなのかな、と思って」
ミュリアの答えに対して、黒血とリディアは、そういえば確かに、といった風に納得した。『Raison D'etre Online』の提供する、余りにもリアルな仮想世界に忘れがちになってしまうが、彼等の立つ『エレウシス』という世界は、オンラインゲームの中の世界なのである。ゲームの舞台であれば、BGMが流れているのは自然な事であり、それが聞こえなければ怪訝にも思うだろう。しかし、黒血とリディアは、現実世界と遜色のないリアリティを持った『エレウシス』にあって、BGMが聞こえない、という疑問を感じる事はなかった。
「世界がリアル過ぎて、全然BGMの事なんて気にしてませんでしたよ」
黒血が率直な意見を述べると、隣に佇むリディアも、ポニーテールにした艶やかな黒髪を揺らしながら無言で首肯する。
「確かにね」
微笑みながら相槌を打ったミュリアであったが、彼女が音楽の無い世界に違和感を覚えたのは、何も彼女が好奇心旺盛な性分であったから、というだけではない。元々ミュリアは、『Raison D'etre Online』の音楽面に興味を惹かれており、ゲームを開始してもBGMが聞こえない事に、腑に落ちない物を感じていたのである。
「私は、このゲームの音楽にも興味があったから、おかしいなって思ったんだ」
黒血やリディアのあまり関心を寄せていない分野であったが、『Raison D'etre Online』の音楽面への力の入れようは、開発時から一部の間で大きな話題となっていた。黒円グループが、このゲームの開発に期待している根源の目的を考えれば、リソースの無駄遣いとも思える程の、大量の人員や予算が、音楽制作に充てられたらしい。
場面によって曲が変わるのは勿論の事、季節や時間、天候、果てはプレイヤーの状況によっても曲調が変わり、『Raison D'etre Online』に収録された曲数は、サービスインの段階で1,000を超える。ここまで作り込んだ挙句、既定の設定でBGMが鳴らないようにしたのは、『エレウシス』という世界から、少しでも“ゲームっぽさ”を払拭しようとした結果であろう。
かつて、ゲームの映像表現が然程成熟していなかった時代には、ゲーム音楽が重要な表現要素であった。情感溢れる印象的なメロディーを持った曲が、数多く作られた時代でもある。そこから、ゲームの映像関連の技術が格段に進歩すると、ストーリーはキャラクターの言葉で紡がれ、視覚的効果で演出されるようになった。ゲーム音楽は、ゲームの世界観や雰囲気といった物を醸成する為の、一歩退いた存在となったのである。
VRMMOの登場により、いよいよゲーム音楽は、仮想世界の現実感を損なう物として切り捨てられようとしているのか。音楽の道を志すミュリアにしてみれば、一抹の寂しさを覚えずにはいられない。
「取り敢えずBGMをオンにしてっと……」
黒血が【設定】画面でBGMのオンオフを切り替えると、彼の耳にも、幽玄な青白い針葉樹林を包み込むような、美しい旋律が聞こえてきた。
荘厳でありながらも、どこか旅愁を抱かせる弦楽達の調べが、繊細な和声を織り成す裏で、小気味良いベルの響きが、雪原に反射して輝く月光のように散りばめられる。淀みなく流れるピアノの主旋律が遠くに聞こえ、曲全体を幻想的に纏め上げていた。
「そういえば、リディアさんもフレンド登録を知らなかったみたいだし、お二人は“市民派”プレイヤーですか?」
暫し、鳴り始めたBGMに耳を傾けていた黒血であったが、思い出したように口を開いた。ゲームという存在が、広く大衆に受け入れられるようになって久しいが、それでも、リディアとミュリアのような見目麗しい女性ゲーマーというのは、滅多に居るものではない。かつてゲーマーであったが故に、殊更黒血には、二人の傑出した美貌の持ち主が、同好の士であるとは思えなかったのである。
革新的な新技術――神経信号を電子機器によってエミュレートする事による、完全没入型仮想現実の構築――を用いて作られたVRMMORPG『Raison D'etre Online』は、何もゲーマー達だけに翹望されていた訳ではない。そして、本作を待ち望むゲーマー以外の人種を、いつからか“市民派”と呼称するようになっていた。
一口に“市民派”と言っても、彼等が『Raison D'etre Online』に求めるものは様々であり、“市民派”の中にも、いくつかの区分がある。
完全没入型仮想現実という、今までSF作品に描かれてきた夢物語が、遂に一般化されるという事に歓喜し、その先進技術のもたらす未知なる体験に関心を寄せる人々を“技術組”といい、単純に、世界規模で注目を集める先端技術に乗り遅れまいとする人々を“ミーハー組”と呼ぶ。
更に、仮想現実の新たな可能性として、マリン スポーツやウインター スポーツ、旅行や釣り等を、自宅に居ながら満喫できるという点は、各種レジャー雑誌でも特集が組まれる程に世間での関心は高く、“レジャー組”と呼ばれる人々も大勢いる。『Raison D'etre Online』でも、彼等向けに非戦闘エリアの“行楽地”を設けたり、モンスターやプレイヤーから攻撃を受けなくなるモード――その他のゲーム内での行動には、いくつかの制約が加えられるが――を実装したりと、“レジャー組”の取り込み策を講じている。
リアル マネー トレードが公式に認められている本作に、金儲けを目的として参加する人々は、他のプレイヤー、特にゲーマー達から“業者”と揶揄されるが、少なくない数が存在している筈だ。他にも、現実から隔絶した仮想空間上の幻想世界で、唯の一市民として生活を営み、気ままに暮らしたいと望む、“市民派”の謂れともなった人々がいる。
「うーん、音楽にも興味あるけど、ゲーム自体も好きですよ。オンラインゲームはやった事ないけど、普通のゲームは結構やるし……」
「私も、色々とファンタジーな世界を旅してみたいとは思いますけど、ちゃんとゲームとして楽しみたいですね。
強いて言うなら、“全部派”かな?」
「“全部派”って良いね! じゃあ、私も“全部派”で!」
笑い合うリディアとミュリアを眼福として瞳に映しながら、黒血は密かに安堵した。彼女達が“市民派”のプレイヤーであったなら、黒血の進む道と彼女達の進む道は別たれてしまう。
しかし、どうやら黒血の憂虞は、無用であったようだ。




