Prologue-06
[ ――『エレウシス』 日本フラグメント―― 7月26日 19:27(UTC + 9:00) ]
「1億シェルや。何遍も言わさんといて」
「えっと、その……、1億っていうのは、あのゼロが8つの1億ですか?」
「それ以外の1億に心当たりでもあるんか」
氷雪を纏った無数の樹木の群れが、嘘のように煌びやかな輝きを放ち、月影に浮かび上がる。針葉樹は鋭く空へ伸び、紺色の夜空が、枝葉に遮蔽される事無く森の中からもよく見えた。天頂に佇む青白い満月は、地上に落ちてくるのではないかと危惧する程に、巨大な姿をしている。
いつの間にか、雪は止んでいた。
「んと、事情がよく飲み込めないのですが……。まだゲーム開始してから30分も経ってないですし」
仮想現実が描き出す、非日常の幽玄な風光の下には、2人の男女。シミの付いたシャツを着た男性は、羞恥の感情も忘れて、茫然と声を漏らす。相対するは、黒を基調にした洗練された衣服を着こなす、金髪碧眼の“秘書然”とした眼鏡の女性だ。首元をすっぽりと覆う大き目のマフラーが、少々ちぐはぐな印象を与える。彼女の方は、聞き飽きたとでも言いたげな風情で、肩先で切り揃えられた稲穂色の毛先を弄っていた。
シミ付きシャツの男――黒血――は、未だに状況が理解できていない。
20分程前、己がみすぼらしき姿を恥じて、人目を憚り無人の雪原を踏破せんとした彼は、その道すがら『ギフト』を発見し、星の巡り合わせか天の悪戯か、神格アイテム『破壊する者の外套』を入手した。直後、彼は金髪碧眼の彼女に声を掛けられ、半ば強引に連れ回された揚句、15分間の雪中行軍――お陰で【歩法】スキルや【生存】スキル等が地味に成長したようだが、“ある出来事”により黒血は、低級スキルの成長は表示させないようにシステム メッセージの表示設定を変更したので、具体的な成長値は不明である――を経て、この場所に到着した。
やっと女性が口を開いたかと思えば、黒血には1億シェル――シェルは、『Raison D'etre Online』におけるゲーム内の通貨単位――の借金があるという。
(……ゲーム開始直後に1億も借金があるって、どういう事よ?)
黒血は、未だに状況が理解できていない。
[ ――『エレウシス』 日本フラグメント―― 7月26日 19:28(UTC + 9:00) ]
「ええか、もう1回説明するで。耳かっぽじいて、よう聞きや」
金髪碧眼の“秘書然”とした眼鏡の女性が、黒血に語り掛ける。
「そもそもこの世界には、“魂の継承”ってもんがある。君も持っとるやろ、石板。あれは、昔この世界で死んだ人らの魂を封じ込めたもんやと言われとる。
中でも上位の石板は、歴史や神話に名を残すエライ人達の魂を封じとって、それを手に入れた人間の事を、“継承者”と呼ぶんや。
ここまではええか?」
黒血は、自分が獲得していた称号、『神話の継承者』を思い浮かべて頷いた。神格石板『神速』の説明文と合わせて考えるに、彼は“国破り”と呼ばれる英雄の魂を継承しているらしかった。
その上で黒血は、疑問――薄々分かっているのだが――を口にする。
「で、それが借金とどう関係してくるんですか?」
「簡単に言えば、その昔、君が継承した魂の持主だった男が、ウチの創始者から金を借りとった。んで、返さんまま死んでもうた訳や。
この大陸の決まりでは、金の貸し借りは、借りた側が借りたもんキッチリ返すまで続く。あとは分かるやろ?」
「“神話を継承”した、って訳ですか……」
「せや」
黒血は、観念したように項垂れて、視線だけを金髪の女性に向けた。
「で、その借金がいくらでしたっけ?」
「1億シェルや。何遍言わすねん」
「その1億っていうのは……」
「もうええわ!」
引き続き幾つかの説明――“国破り”が死亡した時点で利息計算は停止しているだの、個人で1億シェルもの借金をする人間は珍しいだの、この国での平均的な1日の収入が1万シェルであるだの――を聞きながら、黒血は、目の前が暗転しそうになるのを必死に堪えていた。最後に金髪の麗人が発した言葉で、いよいよ黒血の視界は狭窄し始める。
「で、今ここで借金が返せんような場合、君には奴隷になってもらう、ってことになっとるんやけど、1億シェル持っとるか?」
「……持ってる訳ねぇーだろ!」
黒血の悲痛な絶叫とは裏腹に、奴隷決定やな、と金髪の女性は、特に感慨もない事務的な口調で呟いた。
「ま、奴隷いうても、“自由奴隷”の方やから安心して」
思い出したように付け加えられた女性の言葉に、しかし、黒血の不安が払拭される事はなかった。
「安心して良いのかどうか、微妙に判断ができんのですが……」
「ん? 奴隷制度について説明した方がええ?」
また説明か、と一瞬辟易しかけた黒血であったが、自分の置かれている状況を正しく把握する為にも、可能な限り情報は収集しておくべきだと考え直し、表情で彼女に説明を促した。単純に知的好奇心がなかった訳でもない。
「奴隷には、“管理奴隷”と“自由奴隷”の2種類があってやな、“管理奴隷”いうんは、行動の自由を奪われて、決められた労働を強制させられる存在や。
で、君がなる“自由奴隷”の方は、基本的に一般人と変わらへん。一部行動や権利に制限は掛けられるけども、毎月ある程度の金を返済してくれさえすれば、どこで何をしようと勝手なんや。
どや、安心したやろ?」
「安心したやろ、って言われても……。制限される行動や権利っていうのは、どんな感じなんですか?」
「一番大きいんは、奴隷の所有物は、奴隷の所有者の所有物になる、って事やな。なので、奴隷がアイテムを勝手に売ったりトレードしたり、って事は禁じられとる。手に入れたアイテムを売り捌きたい時は、“商会”に売るか、“商会”が主催しとるオークションに出品するかしかない。
あと、えげつない“商会”だと奴隷の持ち物を強制的に取り上げて、自分らのもんにしてしまう所もあるみたいやな。怖い怖い」
最後の台詞に、黒血は心臓が止まる思いをした。奇跡的に入手できた神格アイテムを、与り知らぬ所で背負わされた借金の為に、みすみす徴発されるというのは、到底納得できる話ではない。
黒血の心内を知ってか知らずか、金髪の女性が補足した。
「ウチは良心的な所やから、奴隷の持ち物を強制的にどうこうするってのは、偶にしかないけどな」
「偶にはあるんだ……」
黒血の嘆息に近い呟きに、それならば、といった口調で、女性が続ける。
「どうしても持っておきたいアイテムなら、“商会”から買い取る事もできるけどな。アイテムの価値とは関係なしに、希少性に基づいて値段が設定されておって、普通に買うより結構お得やで。
一般(白)が1百シェル、上等(赤)が1千シェル、秀逸(青)が1万シェル、希少(緑)が10万シェル、伝承(紫)が100万シェル、神格(金)が10億シェルや」
(んー……、神格アイテムを買い取るには、1千万シェルも必要になるのか。借金10パーセントアップだな)
「……って、10億シェルぅ!? 何でそこだけ倍率違うの。今まで10倍ずつで来てたじゃん! 踏襲しようよ、規則性踏襲しようよ!」
「うっさい奴やなー。神格アイテムなんて、どうせ手に入らんし、別にええやろ。ウチの会長も神格アイテムは持っておらんから、万が一奴隷が神格アイテムを入手しても、買い戻されへんようにこういう値段設定なんや。
……それともあれか、君は持っとるんか、神格アイテム」
「い、いやー、すみません……。いきなり桁が上がったもので興奮してしまいまして……。神格アイテム? 見た事もないですわ」
血相を変えて否定に掛かる黒血を、金髪の彼女は訝しげに睨んだが、シミの付いたような“みすぼらしい”シャツを着た男が、まさか神格アイテムを所持しているとは夢にも思わなかったのであろう。それ以上、彼を追求する事はなかった。
「と、ところで、ある程度の金額を返済し続ければ“自由奴隷”でいられる、って話でしたけど、俺の場合、月にいくら返済すれば大丈夫なんですか?」
話題を変えようと黒血は、もう1つの疑問――本当はあと1つ、何故に彼女が、ファンタジー世界でエセ関西弁を使っているのかも疑問なのだが――について尋ねてみた。
「通常は、利息分を払い続けるのが基準になるんやけども、君の場合、利息だけで月々500万シェルも支払わなあかんからな。
まぁ、月100万シェルくらい返済してくれればええんちゃう?」
当然、支払い切れなかった利息分は元金に上乗せされるけどな、と彼女は付け足して微笑んだ。黒血の表情は、言うまでもなく暗い。
「さっきも言うたけど、そんな不安がる事ないで。別に金返せんくなっても、そない無茶な追い込み掛けたりせえへんから。
追い込んだ奴隷に『自由の鎖』にでも入られたら、ウチとしては回収の見込みがなくなるばかりか、罰則金まで支払わなあかんくなるからな」
『自由の鎖』とは、『レムリア大陸』全土に悪名を轟かす3大闇組織の1つ、『奴隷盗賊団』の、本人達が自称する場合の組織名だ。『自由の鎖』は、末端まで含めた構成員数が、数十万人とも言われる巨大な犯罪者組織で、大陸で起こる犯罪の7割以上に関わっているとも言われている。
最近まで、借金と己の身分を苦にして、自暴自棄になった人々が『奴隷盗賊団』へ身を寄せるケースが後を絶たず、奴隷が『奴隷盗賊団』に堕ちた場合は、奴隷を管理していた人間に罰則金を支払わせる、という大陸法が定められた。これによって奴隷の待遇は、随分と改善されたのである。
ちなみに彼等は、『奴隷盗賊団』という公式名称を嫌っており、その名を口にした者に対して“報復行為”に出る事も珍しくない。その為、彼等を呼び示す際に多くの人間は、公式名称である『奴隷盗賊団』ではなく、通称である『自由の鎖』を使うのだ。
「あと、最後に……」
そう言って彼女は、黒血にゆっくりと歩み寄ると、ちょこんと背伸びをして、抱擁するように首元へ手を回した。今までの表情とは打って変わって彼女は、照れ臭そうにはにかみながら、しかし悲愁が込められたような双眸で黒血を見つめて、一度微笑む。
「頑張りや」
「え、な、何するんですか……」
狼狽える黒血を尻目に、目を瞑って淑やかに告げた彼女は、黒血の首に鉄製の首輪を嵌めて、鍵を掛けた。
「え?」
「奴隷の証や。借金全額返済して、奴隷身分から解放されたら、この鎖も外される。精々頑張りや」
先程までの情感は何処へ行ったのか、あっけらかんと説明した彼女は、3歩下がって元の表情に戻った。どこか悪戯な笑みが見え隠れしているようにも感じられる。
ふと黒血は、彼女の身に付けている、不自然なマフラーに目が留まった。
「あの、ひょっとしてあなたも……」
聞かれた女性は、自分の首の辺りを指差しながら、小首を傾げ、黒血を柔らかな視線で見つめる。そして、ゆっくりとマフラーをほどき、白磁のように艶やかで麗しい首筋を露にした。
「なーに勝手に同類にしてくれてんねん。全く失礼な話やで。
ウチは、“奴隷苦しむ”『ドレイク商会』の会長補佐、エレーナや。覚えとき!」
そう言うと、金髪碧眼の女性――エレーナ――は、マフラーを巻き直しながら、背中越しに手を振って、何処かへ歩き去っていった。残された黒血の脇を、一陣の寒風が通り過ぎていく。
「い、いや、何となく分かってたけどね……。別に同じ境遇の美女と運命的な出会い、とか思ってなかったからね……」
黒血が紡ぐ『Raison D'etre Online』での物語の1ページ目は、こんな最低の出会いから始まる。




