甘すぎる試食会
祭りの日の朝、旧測定所の前には、いつもより早く人の声が集まっていた。
水路町の通りには色布が渡され、軒先には雨粒をかたどった紙飾りが揺れている。昨夜の待ち伏せは空振りに終わった。鍵に触れたのは、祭りの準備をしていたパン屋の少年だった。工房印を狙う者の影は現れなかったが、リゼットはほとんど眠れなかった。
それでも朝になれば、鐘を運ばなければならない。
「顔色が悪い」
ユアンが、木箱の蓋を閉じながら言った。
「あなたに言われたくないわ」
「私はいつも悪い」
「それを自分で認めるのは、どうなの」
「事実は、認めた方が扱いやすい」
彼は平然としていたが、木箱の脇には小さな包みが置かれていた。白い布にくるまれ、赤い紐で結ばれている。
リゼットが見つめていると、ユアンは包みを持ち上げた。
「朝食」
「私の?」
「他に誰がいる」
「あなたの分は?」
「ある」
彼が指した先には、乾いた黒パンが一切れだけあった。
「それは朝食とは呼ばないわ」
「食べられる」
「食べられるものと、食べるべきものは違うの」
リゼットが包みを開くと、中から蜂蜜を塗った焼き菓子が出てきた。表面には細かな砂糖がまぶされ、中央に小さな木の実が埋め込まれている。
「甘そう」
「祭りだから」
「あなたが買ったの?」
「水路町の菓子屋で、雨音の鐘を見に来る客には試食を出すと言われた」
「試食は一つなの?」
「一つしか受け取れなかった」
ユアンは視線を逸らした。耳の先が、朝の冷気とは別の理由で赤くなっているように見えた。
「……あなた、私のために並んだの?」
「並んだというほどではない。店の前で、客が途切れるまで待っただけだ」
「それを並んだと言うのよ」
彼は答えなかった。
リゼットは焼き菓子を半分に割った。甘い香りが立ち上がる。片方をユアンへ差し出すと、彼は困ったように眉を寄せた。
「私は甘いものが得意ではない」
「知っているわ。だから半分」
「君が食べればいい」
「朝食を用意したのはあなたでしょう」
しばらく押しつけ合った末、二人は仕方なく同時に口へ運んだ。
蜂蜜の味が広がった。砂糖の粒が舌に触れ、木の実の香ばしさが後から追ってくる。リゼットは思わず目を細めた。隣ではユアンが、何か重大な水路の崩落でも見つけたような顔をしている。
「どう?」
「甘い」
「感想がそれだけ?」
「非常に甘い」
「分かったわ。もう聞かない」
「だが、まずくはない」
リゼットは笑った。
ユアンが音を聞き分けられないことを知ってから、彼の表情を読む癖がついた。鐘の音も、祭りのざわめきも、彼には同じように届かない。それでも彼は、人の足元から伝わる揺れや、建物の軋みを読み、誰より早く危険を見つける。
そして今は、菓子の甘さを律儀に報告している。
「笑うな」
「笑っていないわ」
「口元が動いている」
「それを笑っていると言うのよ」
祭りの広場には、二人が作った新型鐘が設置された。町の人々は色とりどりの器を手に、鐘の周りへ集まっている。今日は、雨の気配を知らせる鐘の実演と、水路を大切に使うための簡単な説明をする予定だった。
鐘の胴には、リゼットが新たに刻んだ文字がある。
雨を恐れず、渇きを忘れず。
以前なら、そこに工房印を押しただろう。だが、印を盗まれてから、彼女はまだ新しい刻印を決められずにいた。
「名前だけで十分だ」
ユアンが鐘の文字を指でなぞった。
「印がなくても?」
「設計したのは君だ。証明するのは印ではなく、鐘の働きだ」
その言葉は、昨夜から固くなっていた胸の奥へ、静かに染み込んだ。
「あなたは、簡単に言うわね」
「簡単ではない。君が何度も試し、失敗し、直したことを知っているから言える」
リゼットは返事をしようとしたが、広場の中央で子どもが手を振った。実演の時間だった。
彼女は鐘の下部に取り付けた水受け皿へ、細い水を流した。水滴が金属板を叩き、内部の針がゆっくりと動く。一定の雨量に達すると、鐘の振動が変わり、吊り下げた小片がかすかに揺れた。
人々が息を呑む。
音を聞けないユアンは、鐘を支える台へ手を当てていた。振動の変化を読み取っているのだろう。リゼットは彼の横顔を見ながら、針の位置を確認した。
予定通りだった。
やがて遠くの空で雲が重なり、広場に細い雨が落ち始めた。鐘の針は正確に警告の印を指し、町の人々から歓声が上がる。
ユアンの手が、台の上で一度だけ強く押された。
「成功よ」
リゼットが言うと、彼は頷いた。
「君の設計が、町に伝わった」
「二人の設計でしょう」
「私は測っただけだ」
「それがなければ、私はどこを直せばいいか分からなかった」
彼は少し黙った。
「なら、二人のものだ」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が妙に熱くなった。祭りの人混みのせいだと思おうとしたが、隣に立つユアンの肩が近い。雨を避けるため、彼がいつの間にか自分の上へ傘を傾けていることにも気づいた。
「傘、あなたが濡れているわ」
「君の方が濡れてはいけない」
「私は平気」
「知っている。だが、平気な人間でも濡れる」
あまりにも真剣な顔で言うので、リゼットはまた笑いそうになった。
「今日はずいぶん気を遣うのね」
「いつも気を遣っている」
「全然分からないわ」
「分からないようにしている」
「それは気遣いではなく、隠しているだけでしょう」
ユアンは返事をしなかった。だが、傘を持つ手がわずかに揺れた。
祭りの終わり頃、菓子屋の女主人が二人の前へ大皿を運んできた。
「鐘の成功祝いだよ。好きなだけ食べておくれ」
皿には、蜂蜜菓子や果物の砂糖漬け、甘い乳菓子が山のように載っていた。ユアンは皿を見て、露骨に後ずさった。
「私は朝、十分に食べた」
「半分しか食べていないでしょう」
「半分で十分だった」
「祝いなのよ」
「甘すぎる」
女主人が豪快に笑う。
「二人で作った鐘なら、菓子も二人で食べな!」
町の人々が面白がって拍手を始めた。リゼットは顔が熱くなるのを感じた。ユアンは困り果てた様子で、皿から一番小さな菓子を取った。
「一つだけ」
「私も一つだけにするわ」
「君はもっと食べていい」
「気遣いを隠すんじゃなかったの?」
「今は隠す余裕がない」
二人で菓子を口に入れる。甘さに目を見合わせ、同時に水を求めた。
その瞬間、広場に笑い声が広がった。
リゼットは思った。工房印を盗まれたことも、ヴァルドが何を企んでいることも、まだ終わってはいない。明日になれば、また証拠を探し、設計を守り、彼女自身の名を取り戻すために戦わなければならない。
けれど今日だけは、鐘が町を守る音を、人々の笑い声を、そして隣で困った顔をする相棒の存在を、そのまま受け取ってもよかった。
帰り道、雨はすっかり上がっていた。
「リゼット」
「何?」
「次の祭りでも、菓子を買う」
「今度は自分の分も?」
「君の分を」
「……甘すぎるわ」
そう言いながら、彼女は差し出された傘の柄を、彼の手と一緒に握った。




