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雨音を編む鐘職人は、聞こえない監査官と未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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7/20

甘すぎる試食会

 祭りの日の朝、旧測定所の前には、いつもより早く人の声が集まっていた。


 水路町の通りには色布が渡され、軒先には雨粒をかたどった紙飾りが揺れている。昨夜の待ち伏せは空振りに終わった。鍵に触れたのは、祭りの準備をしていたパン屋の少年だった。工房印を狙う者の影は現れなかったが、リゼットはほとんど眠れなかった。


 それでも朝になれば、鐘を運ばなければならない。


「顔色が悪い」


 ユアンが、木箱の蓋を閉じながら言った。


「あなたに言われたくないわ」


「私はいつも悪い」


「それを自分で認めるのは、どうなの」


「事実は、認めた方が扱いやすい」


 彼は平然としていたが、木箱の脇には小さな包みが置かれていた。白い布にくるまれ、赤い紐で結ばれている。


 リゼットが見つめていると、ユアンは包みを持ち上げた。


「朝食」


「私の?」


「他に誰がいる」


「あなたの分は?」


「ある」


 彼が指した先には、乾いた黒パンが一切れだけあった。


「それは朝食とは呼ばないわ」


「食べられる」


「食べられるものと、食べるべきものは違うの」


 リゼットが包みを開くと、中から蜂蜜を塗った焼き菓子が出てきた。表面には細かな砂糖がまぶされ、中央に小さな木の実が埋め込まれている。


「甘そう」


「祭りだから」


「あなたが買ったの?」


「水路町の菓子屋で、雨音の鐘を見に来る客には試食を出すと言われた」


「試食は一つなの?」


「一つしか受け取れなかった」


 ユアンは視線を逸らした。耳の先が、朝の冷気とは別の理由で赤くなっているように見えた。


「……あなた、私のために並んだの?」


「並んだというほどではない。店の前で、客が途切れるまで待っただけだ」


「それを並んだと言うのよ」


 彼は答えなかった。


 リゼットは焼き菓子を半分に割った。甘い香りが立ち上がる。片方をユアンへ差し出すと、彼は困ったように眉を寄せた。


「私は甘いものが得意ではない」


「知っているわ。だから半分」


「君が食べればいい」


「朝食を用意したのはあなたでしょう」


 しばらく押しつけ合った末、二人は仕方なく同時に口へ運んだ。


 蜂蜜の味が広がった。砂糖の粒が舌に触れ、木の実の香ばしさが後から追ってくる。リゼットは思わず目を細めた。隣ではユアンが、何か重大な水路の崩落でも見つけたような顔をしている。


「どう?」


「甘い」


「感想がそれだけ?」


「非常に甘い」


「分かったわ。もう聞かない」


「だが、まずくはない」


 リゼットは笑った。


 ユアンが音を聞き分けられないことを知ってから、彼の表情を読む癖がついた。鐘の音も、祭りのざわめきも、彼には同じように届かない。それでも彼は、人の足元から伝わる揺れや、建物の軋みを読み、誰より早く危険を見つける。


 そして今は、菓子の甘さを律儀に報告している。


「笑うな」


「笑っていないわ」


「口元が動いている」


「それを笑っていると言うのよ」


 祭りの広場には、二人が作った新型鐘が設置された。町の人々は色とりどりの器を手に、鐘の周りへ集まっている。今日は、雨の気配を知らせる鐘の実演と、水路を大切に使うための簡単な説明をする予定だった。


 鐘の胴には、リゼットが新たに刻んだ文字がある。


 雨を恐れず、渇きを忘れず。


 以前なら、そこに工房印を押しただろう。だが、印を盗まれてから、彼女はまだ新しい刻印を決められずにいた。


「名前だけで十分だ」


 ユアンが鐘の文字を指でなぞった。


「印がなくても?」


「設計したのは君だ。証明するのは印ではなく、鐘の働きだ」


 その言葉は、昨夜から固くなっていた胸の奥へ、静かに染み込んだ。


「あなたは、簡単に言うわね」


「簡単ではない。君が何度も試し、失敗し、直したことを知っているから言える」


 リゼットは返事をしようとしたが、広場の中央で子どもが手を振った。実演の時間だった。


 彼女は鐘の下部に取り付けた水受け皿へ、細い水を流した。水滴が金属板を叩き、内部の針がゆっくりと動く。一定の雨量に達すると、鐘の振動が変わり、吊り下げた小片がかすかに揺れた。


 人々が息を呑む。


 音を聞けないユアンは、鐘を支える台へ手を当てていた。振動の変化を読み取っているのだろう。リゼットは彼の横顔を見ながら、針の位置を確認した。


 予定通りだった。


 やがて遠くの空で雲が重なり、広場に細い雨が落ち始めた。鐘の針は正確に警告の印を指し、町の人々から歓声が上がる。


 ユアンの手が、台の上で一度だけ強く押された。


「成功よ」


 リゼットが言うと、彼は頷いた。


「君の設計が、町に伝わった」


「二人の設計でしょう」


「私は測っただけだ」


「それがなければ、私はどこを直せばいいか分からなかった」


 彼は少し黙った。


「なら、二人のものだ」


 その言葉を聞いた途端、胸の奥が妙に熱くなった。祭りの人混みのせいだと思おうとしたが、隣に立つユアンの肩が近い。雨を避けるため、彼がいつの間にか自分の上へ傘を傾けていることにも気づいた。


「傘、あなたが濡れているわ」


「君の方が濡れてはいけない」


「私は平気」


「知っている。だが、平気な人間でも濡れる」


 あまりにも真剣な顔で言うので、リゼットはまた笑いそうになった。


「今日はずいぶん気を遣うのね」


「いつも気を遣っている」


「全然分からないわ」


「分からないようにしている」


「それは気遣いではなく、隠しているだけでしょう」


 ユアンは返事をしなかった。だが、傘を持つ手がわずかに揺れた。


 祭りの終わり頃、菓子屋の女主人が二人の前へ大皿を運んできた。


「鐘の成功祝いだよ。好きなだけ食べておくれ」


 皿には、蜂蜜菓子や果物の砂糖漬け、甘い乳菓子が山のように載っていた。ユアンは皿を見て、露骨に後ずさった。


「私は朝、十分に食べた」


「半分しか食べていないでしょう」


「半分で十分だった」


「祝いなのよ」


「甘すぎる」


 女主人が豪快に笑う。


「二人で作った鐘なら、菓子も二人で食べな!」


 町の人々が面白がって拍手を始めた。リゼットは顔が熱くなるのを感じた。ユアンは困り果てた様子で、皿から一番小さな菓子を取った。


「一つだけ」


「私も一つだけにするわ」


「君はもっと食べていい」


「気遣いを隠すんじゃなかったの?」


「今は隠す余裕がない」


 二人で菓子を口に入れる。甘さに目を見合わせ、同時に水を求めた。


 その瞬間、広場に笑い声が広がった。


 リゼットは思った。工房印を盗まれたことも、ヴァルドが何を企んでいることも、まだ終わってはいない。明日になれば、また証拠を探し、設計を守り、彼女自身の名を取り戻すために戦わなければならない。


 けれど今日だけは、鐘が町を守る音を、人々の笑い声を、そして隣で困った顔をする相棒の存在を、そのまま受け取ってもよかった。


 帰り道、雨はすっかり上がっていた。


「リゼット」


「何?」


「次の祭りでも、菓子を買う」


「今度は自分の分も?」


「君の分を」


「……甘すぎるわ」


 そう言いながら、彼女は差し出された傘の柄を、彼の手と一緒に握った。

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