盗まれた工房印
雨上がりの翌朝、旧測定所の床には、乾ききらない泥の跡が残っていた。
リゼットはそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。昨夜、二人は水路局から戻るのが遅くなり、裏口の鍵を掛けた記憶がある。窓も閉めた。作業台の上には、共同研究の登録に必要な設計書を並べたままだった。
その設計書の一枚が、床に落ちていた。
「誰か入った」
ユアンが柱に手を当てた。指先がわずかに震える。
「いつ?」
「夜明け前。靴音は一人。裏口で立ち止まり、しばらく中を探している」
リゼットは作業台へ駆け寄った。帳面も工具も、目立って荒らされた様子はない。だが、引き出しの奥にしまっていた小箱が開いていた。
空箱だった。
「工房印がない」
彼女は低く呟いた。
工房印は、代々使ってきた小さな真鍮の刻印具だった。歯車と雨粒を組み合わせた紋が彫られている。以前の工房を追われるとき、持ち出せた数少ない品の一つだった。設計書の隅に押す印は、ただの飾りではない。誰が製作し、誰が責任を負うのかを示す証だった。
ユアンは床へ膝をつき、泥の跡に触れた。
「印だけを盗んだなら、設計書そのものより厄介だ」
「偽造するつもりね」
リゼットは、先ほど床に落ちていた紙を拾い上げた。
そこには、見覚えのある鐘の外形が描かれていた。新型鐘の設計図に似ている。だが、細部がわずかに違った。振動板の厚み、管の角度、雨量を記録する針の位置。どれも彼女が以前、ヴァルドの工房で試作していた案に近い。
そして紙の右下には、赤い工房印が押されていた。
リゼットの血の気が引いた。
「これは私の印よ」
「君が押したものではない」
「分かっているわ。でも、知らない人が見れば……」
「君の設計書として扱われる」
ユアンの言葉が、冷たい刃のように落ちた。
水路局へ向かうと、昨日とは違う空気が門前に漂っていた。リゼットたちの到着を待っていたように、二人の役人が現れた。
「リゼット、王立水路監査局から照会が来ている」
年長の役人が書類を差し出した。
「君の工房印を持つ設計書が、今朝、旧組合から提出された。北水路の改修案だそうだ」
「旧組合が?」
「設計者はヴァルド・グラン。君の元雇用主だ」
名前を聞いた瞬間、胸の奥が硬くなった。
ヴァルドは、リゼットがかつて働いていた工房の主人だった。彼女の図面を褒めることは一度もなく、採用するときも「手先が使えるから」と言っただけだった。それでも彼女は、いつか自分の名で鐘を作れる日を信じ、何年も働いた。
「彼は私の設計を使っている」
「そう断定するには証拠が要る」
役人は淡々と答えた。
「それに、提出された書類には君の工房印がある。登録上は、君がヴァルドへ設計を譲ったとも読める」
「譲っていないわ」
「なら、印が偽造された証拠を出せ」
リゼットの指が震えた。
証拠。工房印が盗まれたことを示す証拠など、どうやって残せばいいのか。印は失われ、書類はすでに提出されている。彼女が何を言っても、責任から逃げようとしている職人の言い訳に聞こえるだろう。
ユアンが一歩前へ出た。
「提出された設計書を見せてくれ」
「監査官殿、これは職人同士の争いではない」
「だから確認する。北水路の異常を知らせた設計と、ヴァルドの提出案が同じものなら、水路の安全に関わる」
役人は渋々、複写された図面を差し出した。
リゼットは紙を見た。外形は似ている。しかし、肝心の振動板の固定具が違っていた。ヴァルドの案では、金属の留め具が一つしかない。強い雨が続けば、振動板が偏り、鐘の反応が遅れる。
「この設計では危険よ」
「どこが?」
「振動板を支える留め具が足りない。水路の圧が変化したとき、警告が出る前に板が歪む」
ユアンは図面に手を置いた。紙の上から読み取るように、静かに目を伏せる。
「この案は、外側の形だけを知っている人間が描いた」
「どういう意味?」
「金属がどう震えるかを知らない。見た目は似ているが、鐘としての働きを理解していない」
役人は顔をしかめた。
「それだけでは偽造の証拠にならない」
リゼットは図面の端を指差した。
「この線。これは私が昔使っていた癖よ。ヴァルドの工房にいた頃、下書きの角度を測るために引いていた。今は使っていない」
「癖で罪を証明するのか」
「いいえ」
彼女は図面を裏返した。
紙の裏には、薄く鉛筆の跡が残っていた。消しきれなかった数字の列。その並びを見た瞬間、リゼットは息を呑んだ。
「この数値は、私がヴァルドの工房で使っていた試験番号よ。外部の人間は知らない」
ユアンが顔を上げた。
「内部から持ち出された」
役人は黙り込んだ。
帰り道、リゼットはずっと工房印の入っていた小箱を握っていた。空っぽなのに、重かった。
「ヴァルドが盗んだと思う?」
「彼一人ではないかもしれない」
「でも、私の印を使えるのは、工房にいた人間だけよ」
「なら、工房にいる誰かが協力した」
ユアンは歩みを止め、濡れた石壁へ手を当てた。
「ヴァルドは君の設計を使い、水路局へ先に提出した。君が共同研究者として登録される前に、自分の名を付けるためだ」
リゼットは拳を握った。
昨日、ようやく自分の名で認められる場所が見えたと思った。その直後に、過去の主人が印を奪い、彼女の設計を自分のものにしようとしている。
怒りはあった。怖さもあった。
けれど、鐘を作る手を止めるほどではなかった。
「工房印を取り戻す」
「どうする?」
「印を盗んだ人間が、必ずもう一度使うはずよ」
リゼットは旧測定所の方角を見た。
「偽物の設計を完成させるには、私の記録が必要になる。ヴァルドは、まだ何かを探しに来る」
ユアンの指が、壁の振動を確かめるように動いた。
「なら、待ち伏せる」
「危険よ」
「君一人で待つよりはいい」
リゼットは彼を見た。音を聞けない彼の世界で、何が起きているのかを、彼女はまだすべて理解できない。それでも、今の言葉が気遣いであることだけは分かった。
「相棒として?」
「共同研究者として」
ユアンは少し考えた。
「……それ以上でも、構わない」
雨上がりの空から、また小さな雫が落ちた。
リゼットは空箱を作業台の上へ置いた。盗まれた印の代わりに、彼女は新しい紙へ自分の名を書いた。
リゼット・アルネ。
震える線だったが、消さなかった。
その夜、旧測定所の外で、誰かが鍵に触れた。




