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雨音を編む鐘職人は、聞こえない監査官と未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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2/20

工房を出る日

 封鎖札を打たれた扉は、朝になっても開かなかった。


 リゼットはその前に立ち、掌の中の雨鈴を握りしめた。昨夜の雨は上がっている。石畳には薄い水膜が残り、朝日を受けて白く光っていた。工房の窓は暗い。炉も、工具も、作りかけの鐘も、すべてあの扉の向こうだ。


「今日中に荷物を運び出せ」


 背後から声がした。組合の書記だった。封鎖札を確認するために来たらしい。彼はリゼットへ目を合わせず、紙片を差し出した。


「組合規約により、調査が終わるまで作業場の使用は禁止だ。君には一時的な資格停止が言い渡されている」


「一時的、ですか」


「設計責任者としての処分だ。異議があるなら、証拠をそろえて組合長に提出しろ」


 書記はそれだけ言うと、返事を待たずに去っていった。


 証拠。


 その言葉が、胸の奥で冷たく沈んだ。設計図は持ち去られ、帳簿も記録も封じられている。残されたのは、壊れた鐘の破片と、工房印の偽物を見抜いた記憶だけだった。


「荷物を運び出す必要はない」


 ユアンが言った。


 いつの間にか、彼は工房の脇にある水路へしゃがみ込んでいた。片手を石壁に当て、目を閉じている。朝の水は細く、一定の間隔で流れていた。


「ここはもう、君の作業場ではない」


「分かっています」


「なら、別の場所を使えばいい」


 リゼットは振り向いた。


「そんな場所、王都のどこにあるの?」


「水路局の旧測定所。三年前から使われていない。屋根はある。炉も残っている」


「監査官が勝手に貸せるものなの?」


「勝手ではない。臨時調査のための作業場として申請する」


 ユアンは懐から一枚の書類を取り出した。すでに局長代理の印が押されている。彼は昨夜のうちに手続きを進めていたらしい。


 リゼットは紙を受け取り、何度も読み返した。


「調査対象である私を、王立水路局の施設へ?」


「君を犯人だと決めたわけではない」


「でも、私は信用を失っている」


「信用と証拠は別だ」


 ユアンは淡々としていた。慰めようとしているのか、単に事実を述べているのか分からない。その不器用さが、かえってリゼットの胸に残った。


「旧測定所で、何をするつもり?」


「三日以内に、代わりの鐘を作る」


 リゼットは目を見開いた。


「無理よ」


「なぜ?」


「設計図も工具もない。材料だって、工房に置いたまま。第一、あの鐘は三年かけて――」


「同じものを作る必要はない」


 ユアンは水路から手を離した。指先に、水滴がいくつも光っている。


「王都では、五日後に大規模な水路点検が行われる。試作鐘が使えなければ、各水門の開閉を予測できない。水位の変化を見誤れば、低地の町が浸水する」


「三日で代替品を作って、点検に間に合わせろということ?」


「そうだ」


「失敗したら?」


「失敗したときは、私の監査報告にそう書く」


 あまりに迷いのない答えに、リゼットは思わず笑いそうになった。笑える状況ではないのに、口元がわずかに緩む。


「あなた、責任を取る気があるのね」


「監査官だから」


「私を利用するつもりではなく?」


「君の設計が必要だから、頼んでいる」


 その言葉は、組合の人々が彼女に向けてきたものとは違った。彼らはいつも、リゼットの技術を評価するときでさえ、誰かの許可や名声を間に置いた。ユアンは何も飾らず、必要だから必要だと言った。


「報酬は?」


「水路局から支払う」


「それだけじゃないわ」


 リゼットは封鎖された工房を見た。


「私の名前で作る。完成した鐘の記録には、設計者として私の名前を残して。ヴァルド商会の提出図面に合わせるため、私の名を消すようなことはしないで」


「分かった」


「それから、設計に口を出すなら、あなたも現場に立って」


「もちろん」


 ユアンは少しだけ首を傾けた。


「契約に、作業中は私が振動を記録する、と書き加える」


「音は聞かないのに?」


「聞こえないから、記録する必要がある」


 その答えに、リゼットは雨鈴を見下ろした。鈴は鳴らなかったが、指の中で微かに揺れている。


 二人は水路局へ向かった。王都の大通りを抜け、古い石橋を渡る。ユアンは人混みの中でも足を止めることが少なかった。だが、馬車が通るたびに石畳へ手を触れ、振動の向きを確かめている。リゼットはそれを黙って見ていた。


 旧測定所は、水路の分岐に沿って建てられた小さな石造りの建物だった。扉を開けると、埃の匂いと冷えた鉄の匂いが流れてくる。炉は錆びていたが、壊れてはいない。壁際には古い測定器が並び、天井からは使われなくなった振り子が吊るされていた。


「ここなら、誰にも邪魔されない」


 ユアンが言った。


「組合は?」


「臨時作業場の申請を見れば、手を出しにくい」


「見れば、でしょう」


 リゼットは袖をまくった。炉の灰を払い、工具の棚を開ける。残っていた金属片を一つずつ手に取り、厚みを確かめた。十分ではない。だが、鐘の胴なら作れる。


「材料を買う必要があるわ。銅、錫、薄い銀板。それから、振動を記録するための紙筒」


「紙筒は私が手配する」


「銀板は?」


「水路局の備品庫にある」


「勝手に使えるの?」


「調査費で申請する」


 リゼットはユアンを見た。


「あなた、案外図太いのね」


「必要なものを申請しているだけだ」


「それを図太いと言うのよ」


 初めて、ユアンの口元にも小さな変化が浮かんだ。笑ったのかもしれない。しかしすぐに彼は壁へ手を当て、眉を寄せた。


「……ここも、地下から振動が返ってくる」


「水路の異常?」


「まだ分からない。ただ、工房で感じたものと似ている」


 リゼットは炉の前に立ち、古い作業台へ設計用の紙を広げた。失った図面を、記憶だけで描き始める。


「三日で作るなら、構造を簡略化する。雨の到来を完全に記録するのではなく、危険な水位の変化だけを知らせる」


「それでも、異常な振動は残す」


「ええ。あなたが読めるように」


 ユアンが作業台の向かいへ腰を下ろした。


「私は、君が見るものを記録する」


「私は、あなたが感じるものを形にする」


 言葉にしてみると、それは奇妙な契約だった。耳の聞こえない監査官と、工房を失った職人。どちらも自分だけでは足りないものを抱えている。


 外で、遠くの鐘が時刻を告げた。


 リゼットには、その音の高さは分からなかった。ただ、古い石壁を通して伝わる震えが、指先へ届いた。


「始めましょう」


 ユアンが言った。


 リゼットは炉に火を入れた。赤い光が、埃の積もった測定所を少しずつ照らしていく。


 工房を出た日、彼女は初めて、失った場所ではなく、これから作る場所のために火を灯した。

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