工房を出る日
封鎖札を打たれた扉は、朝になっても開かなかった。
リゼットはその前に立ち、掌の中の雨鈴を握りしめた。昨夜の雨は上がっている。石畳には薄い水膜が残り、朝日を受けて白く光っていた。工房の窓は暗い。炉も、工具も、作りかけの鐘も、すべてあの扉の向こうだ。
「今日中に荷物を運び出せ」
背後から声がした。組合の書記だった。封鎖札を確認するために来たらしい。彼はリゼットへ目を合わせず、紙片を差し出した。
「組合規約により、調査が終わるまで作業場の使用は禁止だ。君には一時的な資格停止が言い渡されている」
「一時的、ですか」
「設計責任者としての処分だ。異議があるなら、証拠をそろえて組合長に提出しろ」
書記はそれだけ言うと、返事を待たずに去っていった。
証拠。
その言葉が、胸の奥で冷たく沈んだ。設計図は持ち去られ、帳簿も記録も封じられている。残されたのは、壊れた鐘の破片と、工房印の偽物を見抜いた記憶だけだった。
「荷物を運び出す必要はない」
ユアンが言った。
いつの間にか、彼は工房の脇にある水路へしゃがみ込んでいた。片手を石壁に当て、目を閉じている。朝の水は細く、一定の間隔で流れていた。
「ここはもう、君の作業場ではない」
「分かっています」
「なら、別の場所を使えばいい」
リゼットは振り向いた。
「そんな場所、王都のどこにあるの?」
「水路局の旧測定所。三年前から使われていない。屋根はある。炉も残っている」
「監査官が勝手に貸せるものなの?」
「勝手ではない。臨時調査のための作業場として申請する」
ユアンは懐から一枚の書類を取り出した。すでに局長代理の印が押されている。彼は昨夜のうちに手続きを進めていたらしい。
リゼットは紙を受け取り、何度も読み返した。
「調査対象である私を、王立水路局の施設へ?」
「君を犯人だと決めたわけではない」
「でも、私は信用を失っている」
「信用と証拠は別だ」
ユアンは淡々としていた。慰めようとしているのか、単に事実を述べているのか分からない。その不器用さが、かえってリゼットの胸に残った。
「旧測定所で、何をするつもり?」
「三日以内に、代わりの鐘を作る」
リゼットは目を見開いた。
「無理よ」
「なぜ?」
「設計図も工具もない。材料だって、工房に置いたまま。第一、あの鐘は三年かけて――」
「同じものを作る必要はない」
ユアンは水路から手を離した。指先に、水滴がいくつも光っている。
「王都では、五日後に大規模な水路点検が行われる。試作鐘が使えなければ、各水門の開閉を予測できない。水位の変化を見誤れば、低地の町が浸水する」
「三日で代替品を作って、点検に間に合わせろということ?」
「そうだ」
「失敗したら?」
「失敗したときは、私の監査報告にそう書く」
あまりに迷いのない答えに、リゼットは思わず笑いそうになった。笑える状況ではないのに、口元がわずかに緩む。
「あなた、責任を取る気があるのね」
「監査官だから」
「私を利用するつもりではなく?」
「君の設計が必要だから、頼んでいる」
その言葉は、組合の人々が彼女に向けてきたものとは違った。彼らはいつも、リゼットの技術を評価するときでさえ、誰かの許可や名声を間に置いた。ユアンは何も飾らず、必要だから必要だと言った。
「報酬は?」
「水路局から支払う」
「それだけじゃないわ」
リゼットは封鎖された工房を見た。
「私の名前で作る。完成した鐘の記録には、設計者として私の名前を残して。ヴァルド商会の提出図面に合わせるため、私の名を消すようなことはしないで」
「分かった」
「それから、設計に口を出すなら、あなたも現場に立って」
「もちろん」
ユアンは少しだけ首を傾けた。
「契約に、作業中は私が振動を記録する、と書き加える」
「音は聞かないのに?」
「聞こえないから、記録する必要がある」
その答えに、リゼットは雨鈴を見下ろした。鈴は鳴らなかったが、指の中で微かに揺れている。
二人は水路局へ向かった。王都の大通りを抜け、古い石橋を渡る。ユアンは人混みの中でも足を止めることが少なかった。だが、馬車が通るたびに石畳へ手を触れ、振動の向きを確かめている。リゼットはそれを黙って見ていた。
旧測定所は、水路の分岐に沿って建てられた小さな石造りの建物だった。扉を開けると、埃の匂いと冷えた鉄の匂いが流れてくる。炉は錆びていたが、壊れてはいない。壁際には古い測定器が並び、天井からは使われなくなった振り子が吊るされていた。
「ここなら、誰にも邪魔されない」
ユアンが言った。
「組合は?」
「臨時作業場の申請を見れば、手を出しにくい」
「見れば、でしょう」
リゼットは袖をまくった。炉の灰を払い、工具の棚を開ける。残っていた金属片を一つずつ手に取り、厚みを確かめた。十分ではない。だが、鐘の胴なら作れる。
「材料を買う必要があるわ。銅、錫、薄い銀板。それから、振動を記録するための紙筒」
「紙筒は私が手配する」
「銀板は?」
「水路局の備品庫にある」
「勝手に使えるの?」
「調査費で申請する」
リゼットはユアンを見た。
「あなた、案外図太いのね」
「必要なものを申請しているだけだ」
「それを図太いと言うのよ」
初めて、ユアンの口元にも小さな変化が浮かんだ。笑ったのかもしれない。しかしすぐに彼は壁へ手を当て、眉を寄せた。
「……ここも、地下から振動が返ってくる」
「水路の異常?」
「まだ分からない。ただ、工房で感じたものと似ている」
リゼットは炉の前に立ち、古い作業台へ設計用の紙を広げた。失った図面を、記憶だけで描き始める。
「三日で作るなら、構造を簡略化する。雨の到来を完全に記録するのではなく、危険な水位の変化だけを知らせる」
「それでも、異常な振動は残す」
「ええ。あなたが読めるように」
ユアンが作業台の向かいへ腰を下ろした。
「私は、君が見るものを記録する」
「私は、あなたが感じるものを形にする」
言葉にしてみると、それは奇妙な契約だった。耳の聞こえない監査官と、工房を失った職人。どちらも自分だけでは足りないものを抱えている。
外で、遠くの鐘が時刻を告げた。
リゼットには、その音の高さは分からなかった。ただ、古い石壁を通して伝わる震えが、指先へ届いた。
「始めましょう」
ユアンが言った。
リゼットは炉に火を入れた。赤い光が、埃の積もった測定所を少しずつ照らしていく。
工房を出た日、彼女は初めて、失った場所ではなく、これから作る場所のために火を灯した。




