↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を編む鐘職人は、聞こえない監査官と未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/20

音のない告白

 翌朝、王都へ向かう荷車の前で、ユアンは何度も共鳴板の留め具を確かめていた。


 板は薄く、少しでも乱暴に扱えば記録の線が途切れる。地下水路で受けた傷のせいか、彼の指はいつもより遅かった。


「私がやるわ」


 リゼットが手を伸ばすと、ユアンは一瞬だけ迷い、それから留め具を渡した。


「すまない」


「謝らないで。あなたが持っていると、板まで緊張しているみたい」


「板が緊張するのか?」


「持ち主に似るのよ」


 リゼットが笑うと、ユアンはわずかに目を細めた。笑ったのだと分かるまで、彼女には時間がかかった。けれど、今は表情の変化より先に、隣に立つ彼の呼吸の揺れが伝わる。


 荷車には証言の束、地下で回収した記録筒、元師匠が差し出した古い控え、そして人々の名前を刻んだ鐘が積まれていた。


 水路町の住民たちは、広場から二人を見送った。ミナは小さな手で鐘の縁に触れ、目を閉じている。


「王さまにも、ちゃんと聞かせてね」


「聞かせるわ」


 リゼットは少女の手を包んだ。


「あなたたちの声を、隠さずに届ける」


 荷車が動き出す。石畳の振動が車輪から足元へ伝わり、共鳴板の上で細い線になった。ユアンはその線を指先でなぞっている。


「何を見ているの?」


「昨夜から、君の歩幅が少し変わった」


「傷が痛むの?」


「私ではなく、君だ」


 リゼットは返事を失った。


「私は平気よ」


「平気な人は、右足に体重をかける間隔がこれほど短くならない」


「……あなたは、そんなことまで」


「音が聞こえない分、別のものを拾うしかなかった」


 ユアンは前を向いたまま言った。


「子どものころから、周りの人間が何を言っているのか分からなかった。笑っているのか、怒っているのか、呼ばれているのか。皆が当たり前に持っているものを、私だけ持っていない。そのことを、ずっと隠していた」


 荷車の軋みが途切れた道へ出る。王都へ続く街道には、朝の光が長く伸びていた。


「監査官になってからも、同じだった。報告を読み、振動を測り、誰より早く異常を見つけても、音を聞けない者に何が分かると言われる。実際、分からないものは多い」


 ユアンの手が、膝の上で固く握られた。


「鐘の音を聞き分けられない。君が作った鐘が、どれほど美しく鳴っているのかも知らない。だから、君の隣に立つ資格がないと思っていた」


「ユアン」


「君は音を知っている。私は知らない。君が失った工房も、私が失った職も、同じ重さではない。私はずっと、君の足を引っ張るのが怖かった」


 告白は、音を持たなかった。


 けれど、リゼットの掌には伝わっていた。荷台の板を通じて、彼の指先の震えが。押し殺された言葉が、振動になって彼女の中へ届いていた。


 リゼットは共鳴板を脇へ置き、彼の手に自分の手を重ねた。


「あなたは、私が聞き落としたものを見つけてくれた」


「……」


「壊れた鐘の中のひずみも、地下水路のひびも、私が諦めかけた記録の違和感も。あなたは音を聞けないからこそ、音の外側にあるものを知っている」


「それは、才能ではなく欠けたものだ」


「誰が決めたの?」


 ユアンがこちらを向いた。


 瞳の奥に、長年抱えてきた諦めがあった。誰かに否定されたからではない。否定される前に、自分で自分を小さくしてきた人の目だった。


「私も、音を作る職人にはなれないと言われたわ」


 リゼットは続けた。


「手が遅い。女には無理だ。失敗ばかりだ。誰かの名前を借りなければ、作ったものに価値はない。そう言われて、何度も信じそうになった」


 街道の脇を、枯れた草が風に撫でられている。


「でも、あなたが振動を読んでくれたから、私は自分の手が見つけたものを信じられた。あなたの感覚は、私の代わりではない。誰にも代われない、あなた自身のものよ」


 ユアンの指が動いた。逃げるのではなく、重ねられた手を確かめるように。


「君は、私のことを必要としているのか」


「必要よ」


 リゼットは迷わず答えた。


「でも、必要だから一緒にいるんじゃない」


 彼の手を、今度ははっきり握った。


「私は、あなたと一緒にいたい。工房を取り戻すためだけじゃない。審査会に勝つためだけでもない。あなたが見つける振動を、これからも隣で知りたい。あなたが聞けない音を、私が言葉にしたい」


 ユアンは俯いた。肩がかすかに揺れている。


「それは……未来の話か」


「そうよ」


「私の未来に、君がいるのか」


「あなたが望むなら」


 長い沈黙が落ちた。


 やがてユアンは、彼女の手を裏返し、掌へ指を添えた。職人の硬い皮膚と、監査官の細かな傷が触れ合う。


「望む」


 声は小さかった。


「私は、君の未来にいたい。君が工房を開く日も、最初の鐘を各地へ届ける日も、その先も」


 リゼットの胸の奥で、何かが静かにほどけた。


 聞こえない告白だった。それでも、彼女には十分だった。言葉より確かな揺れが、二人の間を渡っていた。


「では、約束しましょう」


「何を?」


「私たちの鐘は、誰か一人のものにしない。私の名前だけでも、あなたの名前だけでもなく、二人の手で作ったものとして届けるの」


「それは、婚姻契約より重い約束に聞こえる」


「怖い?」


「少し」


 ユアンの口元に、今度は明らかな笑みが浮かんだ。


「だが、君となら」


 王都の尖塔が、遠く朝霧の向こうに見えてきた。


 城門へ近づくにつれ、荷車の周りに人が集まり始める。水路町から来た者たちの姿に気づき、道端の人々が足を止めた。誰かが鐘を見つけ、誰かが記録の束を指差す。


 やがて、小さな子どもが鐘の縁を叩いた。


 澄んだ音が街道に広がった。


 ユアンは音を聞けない。それでも、繋いだ手を通して、リゼットの指が震えたことを知った。


「今の音は?」


「春の始まりみたいな音」


 リゼットは答えた。


「なら、覚えておこう」


 ユアンは彼女の手を離さなかった。


 二人は人々の視線を受けながら、王都の門をくぐった。前方には、閉ざされた審査会の扉がある。その向こうで、ヴァルドはまだ自分の勝利を信じているだろう。


 けれど、もう二人は孤立していなかった。


 音を聞く者と、音を聞かない者。失ったものの違う二人は、それぞれの感覚で同じ未来を見ていた。


 鐘がもう一度、街の空気を震わせた。


 その音の名を、誰もまだ知らない。


 けれどリゼットには分かっていた。


 これは、始まりを告げる音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。