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雨音を編む鐘職人は、聞こえない監査官と未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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16/20

雨音のない夜

 地下水路の向こうへ進むほど、王都の気配は薄れていった。


 水の流れる音さえ、途中で途切れている。壁際に据えられた古い導水管は乾き、底には白い塩の跡が残っていた。リゼットは手の中の小さな振動鐘を握り直した。針はかすかに揺れている。遠くで何かが動いている証拠だった。


「この先に水がある」


 ユアンが壁へ手を当てたまま言った。


「音は?」


「分からない。けれど、石の奥から一定の振動が返ってくる。水ではない。機械が動いている」


 その言葉に、リゼットの背中を冷たいものが走った。


 地下水路の地図には、この一帯に使われていない貯水槽があると記されていた。だが、十年前の改修記録では、崩落の危険があるため封鎖されたことになっている。


 二人は崩れた格子戸をくぐった。


 その先に、巨大な鉄の枠が組まれていた。地下水路の中央へ差し込まれた太い管と、幾つもの歯車。管の先端は地下水脈へ伸びている。歯車の中心には、王都の鐘に使われるものと同じ共鳴金属が取り付けられていた。


「採水装置……」


 リゼットは息を呑んだ。


 装置は水を汲み上げるだけではなかった。金属の振動で水路の壁を揺さぶり、亀裂のある場所から水を集めている。水脈を無理に一方向へ引けば、地下水路の圧力が偏る。北水門の崩落は、その結果だった。


 装置の脇には、細長い記録筒が三本並んでいた。


「これを止めないと」


 リゼットが近づいた瞬間、装置の奥で歯車が大きく回った。


 床が震え、天井から砂が落ちる。装置に繋がった管が軋み、壁の裂け目から黒い水が噴き出した。


 ユアンがリゼットの腕をつかんだ。


「離れて!」


 二人は崩れかけた柱の陰へ転がり込んだ。直後、鉄枠の一部が倒れ、先ほどまで立っていた場所を潰した。


 リゼットは息を整えながら、装置を見た。


「止めるには、中心の共鳴板を外すしかない」


「近づけば、次の振動で天井が落ちる」


「でも、これを残したら水路がもたない」


 リゼットは立ち上がろうとした。


 ユアンが手を伸ばす。だが、彼女の肩を押さえる代わりに、その手を止めた。


「君が行くのか」


「私の鐘の仕組みが使われている。止め方は私が一番分かる」


「危険だ」


「分かっている」


 ユアンの指がわずかに震えた。いつもの彼なら、彼女を後ろへ下がらせ、自分が進もうとするだろう。だが、ユアンは装置へ向けた手を下ろした。


「なら、任せる」


 リゼットは顔を上げた。


「本当に?」


「君が振動を読むように、私は振動の道を読む。装置の右側、二つ目の歯車が一番深く揺れている。そこを避ければ、中心へ行ける」


 彼は壁と床に手を当てた。


「今だ。三つ数えたら、左へ。次の揺れのあとに前へ進む」


 リゼットはうなずいた。


 ユアンの声を合図に、彼女は走った。床が沈み、鉄の歯が唸る。右から迫った枠を身を低くしてかわし、中心の共鳴板へ手を伸ばした。


 板には、彼女の工房印が刻まれていた。


 偽物ではない。リゼットがまだヴァルドの工房で働いていた頃、試作のために一度だけ作った原型だった。


「どうして、これを……」


 指先が金属に触れた。


 その瞬間、板の裏側から細かな振動が返ってきた。単なる共鳴ではない。一定の間隔で刻まれた、記録の振動だった。


 リゼットは装置の枠に耳を近づけた。音は聞こえない。それでも、掌に伝わる揺れの長短が、古い鐘の記録方式と一致している。


 日付。水圧。操作した人数。


 そして、最後に繰り返される三つの短い振動。


 ヴァルドの工房印に使われていた暗号だった。


「記録がここにある」


 リゼットは叫んだ。


「紙ではなく、共鳴板そのものに記録していたのね」


 彼女は腰の工具袋から細い楔を取り出した。板の縁へ差し込み、振動が弱まる瞬間を待つ。


「左へ!」


 ユアンの声が飛んだ。


 リゼットは楔を叩いた。共鳴板が外れ、装置全体が大きく揺れた。管の内部から水が逆流し、鉄枠を押し倒していく。


 ユアンが駆け寄り、彼女の腰へ腕を回した。二人は崩れる装置から逃げ、貯水槽の壁際へ身を伏せた。


 やがて、歯車の回転が止まった。


 地下に静寂が戻る。


 リゼットは手の中の共鳴板を見つめた。表面には傷ひとつない。だが、触れれば、そこに刻まれた過去が分かる。


 記録筒の中からは、さらに書類が見つかった。採水した水の量、売却先、支払われた金額。王都の地下水を抜き取り、遠方の貴族領へ運ぶ計画。その最後の日付は、公開審査の翌日だった。


 審査が開かれていれば、すべてが明るみに出る。だからヴァルドは審査を消し、工房を封じ、ユアンを解任した。


 リゼットは記録筒を抱えた。


「これで、もう隠せない」


「まだ隠せる」


 ユアンは静かに言った。


「証拠を持っているのは私たちだけだ。捕まれば、記録は消される」


「なら、急いで届けましょう」


「どこへ?」


 リゼットは少し考えた。


「水路町へ。私たちの鐘を信じてくれた人たちのところへ」


 ユアンはうなずいた。しかし、立ち上がった彼の足元がふらついた。崩落の衝撃で、脇腹を鉄片に打たれていたのだ。


「怪我をしているじゃない」


「歩ける」


「それは答えになっていないわ」


 リゼットが布を取り出すと、ユアンは抵抗せずに身を任せた。彼女が傷を縛る間、ユアンは共鳴板を見ていた。


「君は、あの場で私の指示を疑わなかった」


「疑ったわ。あなたが私を行かせることを」


「私は君を守れなかった」


「違う」


 リゼットは結び目を強く締めた。


「あなたは私を守るために、私の判断を奪わなかった。それが一番助かったの」


 ユアンは目を伏せた。聞こえないはずの雨を思い出すように、指先で共鳴板の縁をなぞった。


 地下水路の出口へ向かう途中、背後で一度だけ、止まった装置が震えた。


 まるで、誰かがまだ生きていることを知らせるように。


 二人は記録筒と共鳴板を分けて持ち、暗い階段を上った。出口の先には、雨のない夜空が広がっていた。


 王都は眠っている。


 だが、二人の手の中には、眠らせてはならない証拠があった。

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