公開審査の取り消し
王都を止めた翌朝、リゼットの工房の扉には、赤い封蝋が押されていた。
封蝋には王立水路監査局の印がある。だが、中央を横切る線は乱れており、正式な命令書に使われる印とはわずかに違っていた。
ユアンが指先で封蝋の縁をなぞる。
「これは監査局の印ではない。組合の古い倉庫で使われていた型だ」
「偽物?」
「命令そのものが偽物か、誰かが正式な命令に偽の印を重ねた」
リゼットは扉の前に立ち尽くした。昨日まで、人々が鐘の記録を見に訪れた工房だった。今は二人の名前も、壁に掛けた設計図も、すべて封じられている。
張り紙には、こう書かれていた。
――王都の水路を無断で停止させ、民生を混乱させた疑いにより、雨音共鳴鐘工房を即時封鎖する。公開審査は安全上の理由から取り消し、関係者は追って召喚する。
リゼットは紙を握りしめた。
「審査は明後日だったはずよ」
「今朝、取り消された」
ユアンの声は低かった。
「誰から聞いたの?」
「監査局の詰所へ行った。私の入館証は返却を求められた」
彼は懐から銀色の証章を取り出した。王立水路監査官の印が刻まれている。しかし中央に深い傷が入っていた。
「職務停止?」
「解任だ。昨日の水路停止が独断だったと判断された」
リゼットは言葉を失った。ユアンが水門を止めるために、どれほどの責任を引き受けたか知っている。それを今になって、失敗と決めつける。
「私のせいね」
「違う」
「でも、私が鐘を打たなければ――」
「君が打たなければ、北水門は崩れていた」
ユアンは証章を握った。金属が手の中でかすかに震える。
「だからこそ、ヴァルドは審査を消したい。公開の場で鐘の記録と水路の亀裂を並べられれば、彼の採水計画は終わる」
「記録は工房の中よ」
「封鎖の命令が出た以上、証拠も押収される」
その時、通りの向こうから組合の役人たちが歩いてきた。先頭にいたのは、黒い外套を着たヴァルドだった。
「残念だよ、リゼット」
彼は工房の封印を見上げ、わざとらしく眉を下げた。
「王都を混乱させた責任は重い。君の鐘が正しいかどうかは、もう問題ではない。規則に従わなかった事実が残る」
「あなたが審査を取り消したの?」
「私は忠告しただけだ。水路の安全を守るため、危険な発明を公開すべきではないとな」
リゼットは一歩近づいた。
「なら、どうして北水門の石壁に、あなたの採水装置と同じ金属片が残っていたの?」
ヴァルドの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「根拠のない言いがかりだ」
「根拠は記録紙にある。振動の間隔も、装置が動いた時間も記録している」
「その記録紙は封鎖された工房の中だ。誰も確認できない」
ヴァルドは笑った。
「審査がなくなれば、君の主張もなくなる」
役人の一人が封印を確かめるため、扉へ手を伸ばした。リゼットの胸に、工房を奪われた日の冷たさが戻ってきた。
だが、隣に立つユアンが手を上げた。
「工房内の記録を押収するなら、立会人が必要だ。監査局の手続きではそう定められている」
「あなたはもう監査官ではない」
「職を失っても、規則を読むことはできる」
役人は答えに詰まった。ヴァルドが舌打ちする。
「ならば、記録が残っているか、確かめてみればいい」
彼が合図すると、別の男が封蝋へ金具を差し込んだ。
その瞬間、工房の内側から、低い振動が響いた。
リゼットには、床を伝う震えの形が分かった。鐘が鳴ったのではない。誰かが奥の作業机を動かしている。封鎖されたはずの工房の中に、まだ人がいる。
彼女は顔を上げた。
「中に誰かいる」
「何?」
役人が怪訝そうにする。
「机を動かした振動よ」
ヴァルドが笑い飛ばそうとしたが、ユアンが扉の脇へ駆け寄った。指先を石壁に当て、目を閉じる。
「三人。奥の記録棚を探している」
役人たちの顔色が変わった。
「封鎖前に入った者はいないはずだ」
「なら、誰が中にいるの?」
リゼットの問いに、答える者はいなかった。
工房の裏手へ回ると、壁の下に古い排水口があった。かつて水路町の工房をつないでいた細い通路だ。封鎖の対象外になっている。
二人は排水口から地下へ降りた。ユアンは先を進み、リゼットは小さな振動鐘を手にした。地下は暗く、湿った空気がまとわりつく。遠くで金属を擦る音がした。
工房の床下へ出ると、棚の前に三人の男がいた。彼らは記録箱を抱え、裏口へ向かおうとしている。
「止まって!」
リゼットが叫んだ。
男たちが振り返る。その一人の手には、リゼットが使っていた工房印の型があった。
ユアンが踏み込む。男が逃げようとしたが、床板の下から伝わる揺れを読んだユアンは、先回りして扉を塞いだ。二人の男がぶつかり、記録箱が床へ落ちる。
箱の蓋が開き、古い帳簿と金属片が散らばった。
リゼットはその中から一枚の薄い紙を拾い上げた。そこには、採水装置を動かす日付と、必要な水圧が細かく記されている。
日付は、三日前。
水門が止まらなければ、北水路が崩落していた日だった。
「これで証明できる」
リゼットの声が震えた。
ユアンは紙を見つめ、静かに首を振った。
「まだ足りない。ヴァルドは、盗まれた帳簿だと言うだろう」
「じゃあ、何が必要なの?」
「誰が命令し、誰が装置を動かしたか。それを示す署名だ」
その時、散らばった帳簿の間から、折り畳まれた小さな紙片が滑り出た。
リゼットが開く。
そこには、ヴァルドの名と、王立水路監査局の幹部の名が並んでいた。
さらに下には、見覚えのある文字があった。
――公開審査を取り消し、鐘の記録を封じること。
ユアンの解任通知も、その紙の端に記されている。
工房の外で、ヴァルドが怒鳴った。
「そこにいるのは分かっている! 証拠を持ち出せば、窃盗として処罰するぞ!」
リゼットは紙を胸元へしまった。
審査は取り消された。工房は封じられ、ユアンは職を失った。
それでも、最後の証拠は二人の手にある。
「行きましょう」
彼女が言うと、ユアンはうなずいた。
「どこへ?」
「審査がなくても、真実を聞かせる場所はあるわ」
地下水路の向こうには、まだ誰にも見せていない暗い道が続いていた。二人は記録箱を抱え、雨音のない王都の底へ歩き出した。




