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雨音を編む鐘職人は、聞こえない監査官と未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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15/20

公開審査の取り消し

 王都を止めた翌朝、リゼットの工房の扉には、赤い封蝋が押されていた。


 封蝋には王立水路監査局の印がある。だが、中央を横切る線は乱れており、正式な命令書に使われる印とはわずかに違っていた。


 ユアンが指先で封蝋の縁をなぞる。


「これは監査局の印ではない。組合の古い倉庫で使われていた型だ」


「偽物?」


「命令そのものが偽物か、誰かが正式な命令に偽の印を重ねた」


 リゼットは扉の前に立ち尽くした。昨日まで、人々が鐘の記録を見に訪れた工房だった。今は二人の名前も、壁に掛けた設計図も、すべて封じられている。


 張り紙には、こう書かれていた。


 ――王都の水路を無断で停止させ、民生を混乱させた疑いにより、雨音共鳴鐘工房を即時封鎖する。公開審査は安全上の理由から取り消し、関係者は追って召喚する。


 リゼットは紙を握りしめた。


「審査は明後日だったはずよ」


「今朝、取り消された」


 ユアンの声は低かった。


「誰から聞いたの?」


「監査局の詰所へ行った。私の入館証は返却を求められた」


 彼は懐から銀色の証章を取り出した。王立水路監査官の印が刻まれている。しかし中央に深い傷が入っていた。


「職務停止?」


「解任だ。昨日の水路停止が独断だったと判断された」


 リゼットは言葉を失った。ユアンが水門を止めるために、どれほどの責任を引き受けたか知っている。それを今になって、失敗と決めつける。


「私のせいね」


「違う」


「でも、私が鐘を打たなければ――」


「君が打たなければ、北水門は崩れていた」


 ユアンは証章を握った。金属が手の中でかすかに震える。


「だからこそ、ヴァルドは審査を消したい。公開の場で鐘の記録と水路の亀裂を並べられれば、彼の採水計画は終わる」


「記録は工房の中よ」


「封鎖の命令が出た以上、証拠も押収される」


 その時、通りの向こうから組合の役人たちが歩いてきた。先頭にいたのは、黒い外套を着たヴァルドだった。


「残念だよ、リゼット」


 彼は工房の封印を見上げ、わざとらしく眉を下げた。


「王都を混乱させた責任は重い。君の鐘が正しいかどうかは、もう問題ではない。規則に従わなかった事実が残る」


「あなたが審査を取り消したの?」


「私は忠告しただけだ。水路の安全を守るため、危険な発明を公開すべきではないとな」


 リゼットは一歩近づいた。


「なら、どうして北水門の石壁に、あなたの採水装置と同じ金属片が残っていたの?」


 ヴァルドの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「根拠のない言いがかりだ」


「根拠は記録紙にある。振動の間隔も、装置が動いた時間も記録している」


「その記録紙は封鎖された工房の中だ。誰も確認できない」


 ヴァルドは笑った。


「審査がなくなれば、君の主張もなくなる」


 役人の一人が封印を確かめるため、扉へ手を伸ばした。リゼットの胸に、工房を奪われた日の冷たさが戻ってきた。


 だが、隣に立つユアンが手を上げた。


「工房内の記録を押収するなら、立会人が必要だ。監査局の手続きではそう定められている」


「あなたはもう監査官ではない」


「職を失っても、規則を読むことはできる」


 役人は答えに詰まった。ヴァルドが舌打ちする。


「ならば、記録が残っているか、確かめてみればいい」


 彼が合図すると、別の男が封蝋へ金具を差し込んだ。


 その瞬間、工房の内側から、低い振動が響いた。


 リゼットには、床を伝う震えの形が分かった。鐘が鳴ったのではない。誰かが奥の作業机を動かしている。封鎖されたはずの工房の中に、まだ人がいる。


 彼女は顔を上げた。


「中に誰かいる」


「何?」


 役人が怪訝そうにする。


「机を動かした振動よ」


 ヴァルドが笑い飛ばそうとしたが、ユアンが扉の脇へ駆け寄った。指先を石壁に当て、目を閉じる。


「三人。奥の記録棚を探している」


 役人たちの顔色が変わった。


「封鎖前に入った者はいないはずだ」


「なら、誰が中にいるの?」


 リゼットの問いに、答える者はいなかった。


 工房の裏手へ回ると、壁の下に古い排水口があった。かつて水路町の工房をつないでいた細い通路だ。封鎖の対象外になっている。


 二人は排水口から地下へ降りた。ユアンは先を進み、リゼットは小さな振動鐘を手にした。地下は暗く、湿った空気がまとわりつく。遠くで金属を擦る音がした。


 工房の床下へ出ると、棚の前に三人の男がいた。彼らは記録箱を抱え、裏口へ向かおうとしている。


「止まって!」


 リゼットが叫んだ。


 男たちが振り返る。その一人の手には、リゼットが使っていた工房印の型があった。


 ユアンが踏み込む。男が逃げようとしたが、床板の下から伝わる揺れを読んだユアンは、先回りして扉を塞いだ。二人の男がぶつかり、記録箱が床へ落ちる。


 箱の蓋が開き、古い帳簿と金属片が散らばった。


 リゼットはその中から一枚の薄い紙を拾い上げた。そこには、採水装置を動かす日付と、必要な水圧が細かく記されている。


 日付は、三日前。


 水門が止まらなければ、北水路が崩落していた日だった。


「これで証明できる」


 リゼットの声が震えた。


 ユアンは紙を見つめ、静かに首を振った。


「まだ足りない。ヴァルドは、盗まれた帳簿だと言うだろう」


「じゃあ、何が必要なの?」


「誰が命令し、誰が装置を動かしたか。それを示す署名だ」


 その時、散らばった帳簿の間から、折り畳まれた小さな紙片が滑り出た。


 リゼットが開く。


 そこには、ヴァルドの名と、王立水路監査局の幹部の名が並んでいた。


 さらに下には、見覚えのある文字があった。


 ――公開審査を取り消し、鐘の記録を封じること。


 ユアンの解任通知も、その紙の端に記されている。


 工房の外で、ヴァルドが怒鳴った。


「そこにいるのは分かっている! 証拠を持ち出せば、窃盗として処罰するぞ!」


 リゼットは紙を胸元へしまった。


 審査は取り消された。工房は封じられ、ユアンは職を失った。


 それでも、最後の証拠は二人の手にある。


「行きましょう」


 彼女が言うと、ユアンはうなずいた。


「どこへ?」


「審査がなくても、真実を聞かせる場所はあるわ」


 地下水路の向こうには、まだ誰にも見せていない暗い道が続いていた。二人は記録箱を抱え、雨音のない王都の底へ歩き出した。

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