帰宅
お医者さんはパソコンから目を離して、体の向きを変えて悠人を見た。
「奥様の記憶は戻っていませんが、日常生活には問題ありません」
「記憶はどのくらいで戻るでしょうか?」
「戻るか戻らないかわかりません。何かの刺激で戻る可能性がありますが、確約はできません」
「そうですか… わかりました」
「奥様の退院の準備は指示しています。奥様の検診は来週の水曜日になりますが、変化があった場合はご連絡ください」
「ありがとうございます。失礼します」
悠人は看護師に促されて立ち上がり、看護師について歩くが、足取りは重い。
そして、悠人と看護師は病室のドアの前に止まった。
「準備はできていると思いますが、ちょっとお待ちください」
看護師はノックして「音羽さん、入りますね」と言って部屋に入る。
病室の窓は開いており、ドアを開けたことにより、風が抜ける。
その風で、ベッドに座っている彩音の髪が揺れる。
彩音を見た看護師さんは「準備はできていますね」と言い、悠人を招き入れる。
「彩音…」
「…悠人さん。こんにちは」
「彩音、行こうか?」
「…どこに?」
「彩音の家だよ」
「私の家…」
悠人は彩音に手を差し出した。
その手を彩音は掴み、ベッドから立ち上がる。
悠人はベッドサイドのトートバックを肩に掛け、「お世話になりました」と言う。
彩音は無言で頭を下げる。
「記憶はちょっとしたことで戻ることがあります。今まで使っていた身の回りの物に触れるなどの刺激は効果的です。焦らずにすごしてください」
「ありがとうございます。では」
悠人は彩音の手を繋いで病室を出ていく。
「彩音、大丈夫か?」
「…大丈夫よ」
悠人と彩音は病院の駐車場に向かい、ホンダの軽自動車の左側に移動する。
悠人は助手席のドアを開ける。
「…乗ればいいの?」
「あぁ」
悠人は彩音が座ったのを確認して、ドアをゆっくり閉める。
悠人は運転席に座り、自動運転のボタンを押した。
車はゆっくり進み始める。
「彩音、この車を覚えているか?」
「…いいえ」
「そうか。彩音、お腹は空いているか?」
「…空いていないけど、スーパーに行きたいわ」
「わかった」
悠人は携帯を操作する。
彩音は、興味なさそうに前を向いて座っている。
車はスーパーで停まる。
悠人と彩音は車を降りて、スーパーに入り、悠人がカゴを取る。
「何が必要だ?」
入り口近くの野菜売り場では、トマト、ほうれん草、レタスをカゴに入れる。
その動きに迷いがない。
「何か思い出したか?」
彩音は少し表情が動いた。
「うーん。どうだろう…」と言いながら、ハムをカゴに入れる。
そして、卵、牛乳、バター、食パンと入れると手が止まる。
「どうした?」
「なんでもないわ」
「会計をしていいか?」
「ええ」
スーパーを出ると、車が待っている。
悠人も助手席側に向かおうとしたが、「大丈夫」と彩音は言い、自分で車に乗る。
悠人が運転席に座り、ドアを閉めると、自動で車は走り出す。
車は住宅街に入り、家の前で停まる。
「着いたよ」
「…」
2人が車を降りると、車は自動で走り出し、隣の悠人の家に向かう。
「あぁ。そうだ。何か覚えていることはないか?」
「いいえ、覚えていないわ」
「そうか… 歩容認証と顔認証のセキュリティが設定されているが、歩き方は変わっていないはずだから問題なく開くはずだよ」
彩音は扉のドアに手をかけると、カチャと音がして鍵が開いた。
「…おじゃまします」
「ただいまだろ?」
「そうね。私の家だものね。ただいま」
彩音はドアを開けて、家に入った。




