19.光る君の幸せな春の一日
「……………っ。」
眠る光に口付けた葵は、しばらくの間、真っ赤な顔で口を押さえて立ち尽くしていた。
誰も見ていないと分かっていても、つい、きょろきょろと辺りを見回してしまう。
「………光さま。早く、よくなってください………」
照れ隠しのように囁いて、葵が立ち去ろうとしたその時だった。
「………待って葵。ねえ、今…………!」
そう言って、寝ていたはずの光に手を掴まれたのは。
その顔は葵と同じくらい真っ赤で、見たこともないくらいに目が真ん丸で、カパっと開いた口は震えていて。
「お、起きていたんですか!?」
大慌ての葵が尋ねるが、光はそれどころではない。
「そりゃあ起きます………ねえ、私は夢を見ているのかな。葵が私に………葵から私に!夢なわけないか、夢のあいつだって、してもらったことなんかないんだから!まさか、葵がちゅーしてくれるなんてーーー」
「きゃ〜〜〜〜っ!?」
光が騒ぎ出して、葵は真っ青になった。
「や、やめて光さま。違うの………今のは………」
言いながら、葵の瞳から涙が溢れ出した。
無論、さっきの嬉し涙とは別種の涙である。
この時代、口付けや口吸いーーー光の言うところの「ちゅー」はある意味、枕を交わすよりもはるかに上の行為だ。
愛情の点ではなく、恥ずかしさの点において、である。
「う…………っ」
寝惚けるたびに自分に好き好き言いながら吸い付いてくる夫のせいで、感覚がおかしくなっているのだろうか。
夢の自分はこんなこと、死ぬまで一度もしなかった!しかもそれに関してだけはーーーその方が絶対に正しい!
葵は自分が信じられなくなって、ぼろぼろと泣き始めた。唯一の救いは、夫が全く気にしていないことだろうか。
「泣かないで葵。ねえお願い、もう一回!……あっ、移るからダメか………待ってて絶対、すぐに治します。だから治ったら………!!」
軽蔑するどころか、大はしゃぎである。
衝撃からやや立ち直った葵は、とりあえず自分の袖で涙を拭いた。
自分よりもやばい人が身近にいた場合、却って冷静になるあの法則だ。そもそもこの北山で、光る君の前で泣いているのは、自分ではないはずなのに。
泣き止んで、「はい」と返事をしかけてーーー葵は直前で言葉を飲み込んだ。
このまま返事をしてしまうと、自分は何をする羽目になるのか。
「ひ、光さま………今、なんと……?」
「………お願い葵。治ったらもう一回、ちゅーして!」
聞き間違いではなかった。
「……………」
葵は頭を抱えた。
そうしている間にも、夫はキラキラと期待に溢れた目で自分を見つめている。
葵の幼い祝言の日の誓いは、ある意味、成功した。
葵を見つめる夫の瞳には、暗い闇なんてどこにもない。
ーーーとはいえ。
使命感だけで、変態行為なんてできない!
心が折れかけて、でも、と葵は思った。
自分はもう、光への想いがただの使命感ではないことに、気付いてしまっている。
使命感だけではできなくても、何のためにならできるかといえば、それは。
ーーー好きな人を、喜ばせるためなら。
「…………っ、はい。治ったら………」
頬が、燃えるように熱かった。
夫の顔が見られなくて、夢の自分のように顔を背けたから、葵はその時の光の顔を知らない。
見ていたらきっと、忘れられなかっただろう。
夢の光る君は一度もしたことのない、無邪気な大喜びの笑顔である。
すぐ、と言ったその言葉通り。
次の日の朝には、光が全快したのは言うまでもない。
***
「葵〜〜っ」
次の日。
本当にすぐに夫は体調が戻って、葵は動揺した。
約束は約束である。
本音を言えばあと数日は心の準備が欲しかったが、それまで光が苦しむのも嫌だ。
ふーっ、と葵はひとつ息を吐いた。
緊張している時の癖である。
中途半端に喋ると余計にいかがわしい雰囲気が増しそうで、葵は「目を瞑ってください、あなた」や「何だか恥ずかしいわ」等々の言葉を全て省略することにした。
おかしな話である。
「葵の上」にいかがわしさを感じる人なんて、これまでに果たして一人だっていただろうか。
だから光は、名を呼んだだけで愛する妻に肩に腕を回されて、真っ赤な顔で震えながらの、望み通りのちゅーをもらえた。
急だったので目を瞑り忘れて、「何で今まで見たことなかったんだろ………」とばかりに可愛い顔を堪能していたのだが、心臓の音はおかしいほどに跳ね始めて、体がふわふわと宙に浮き上がりそうだ。
要するに有頂天なのである。
だがすぐに唇は離れてしまった。
「………、これで………」
いいですか?と、また泣きそうな顔をなっている妻を、幸せいっぱいの光はぎゅーっと抱きしめた。
「だめ。もう一回」
「………!?」
断られそうだったので、光は自分から唇を重ねた。
思えば病に倒れてから、久しぶりの口付けである。
何度も何度も繰り返すうちに、涙目になった葵の息が上がって来て、光の理性が警鐘を鳴らし始めた。
「んん………ひかるさま……っ、だめ………っ」
「…………………。」
とろんとした葵の声を無視して、光が一層深く口付けた、その時。
「おーい、光!見舞いに来てやったぞ、体調はどうだ!?」
御簾の向こうから、そんな声が響いた。
言うまでもなく、親友であり義理の兄、頭中将の声である。
「あ…………っ」
葵が呟いたが、もう遅い。
「に、義兄さん、ちょっと待って!」
光が言うが、傍若無人の義兄は止まらない。
「何だ、よそよそしい。床についてようが気にするな、見舞いに来たんだから。出迎えがないから、心配したぞ。葵はどこだ?お前がわざわざ側仕えの格好をさせてまで連れ出した、俺の可愛い妹は」
そう言いながら、頭中将がどかどかと御簾の中に入ってくる。
当然ながら二人はまだ、抱き合ったままである。
別に朝からとは言え口付けぐらい、どうってことはないだろと思ったそこのあなたは、現代の感覚で捉えている。
平安時代の口付けは、枕を交わすよりも重いのである。その上二人の間には銀の糸が引いている。
「お前……………俺の妹に……………」
当然ながら頭中将の背後には、怒り狂った青龍・白虎・朱雀・玄武の平安四神獣のスタンドが現れ始めた。
ゴゴゴゴゴ………と、低い地鳴りが聞こえてきそうだ。
「ち、違う………いや違わないけど!これは………そ、それに葵は私の妻なんだから…………」
対する光の反撃はせいぜい、この程度である。
光がしどろもどろしている間に、葵は泣きながら腕の中から逃げてしまった。
実兄に目撃されるなんて、葵にとっては生き霊に取り憑かれて呪い殺された方がまだマシなレベルの恥ずかしさである。
「葵!」
光が呼び止めたが、葵の足は止まらない。
「………義兄さん!も〜〜〜!!!」
十七とは思えない言葉のチョイスと膨れっ面で義兄を睨んで、光は葵を追いかけた。
***
奥の間に逃げ込んだ葵は泣いていた。
ぼろぼろと涙が頬を伝って、袖にシミを作っている。
葵の上が感情を露わにするところなんて、見たことのある人はそうそういないに違いない。
夫から変態行為をねだられて、それを兄に見られるという場面にブチ当たらなければ、おそらく一生見られることのない光景である。
「ご、ごめん、葵………ほんとにごめんなさい。ああなるとは思わなくて………っ」
光は平謝りである。土下座までしそうな勢いだ。
きっと一生見られない光景その2である。
「うう、お、お兄様に見られるなんて………っ。もうやっていけません」
そう言って、葵は泣き続ける。恥ずかしさからか、顔はおろか首筋まで真っ赤だった。
「ごめん…………」
光は謝るしかない。
涙声で、顔を背けたままの葵が言う。
「………口吸いなんて、い、いちばん恥ずかしいことなんですよ?なのになんで、こんな…………光さまのせいです…………っ」
「…………え?」
光の土下座が止まった。
「葵…………もしかして、口吸いが好きなの?」
高鳴る胸を押さえて聞くと、泣き顔のままの葵が助けを求めるように光を見つめた。
「…………光さまがいっぱいするから。ひどい………恥ずかしいことなのに………」
「…………!!」
光は心臓が痛くなった。
勝手に頬がにやけて、光はそのまま妻をぎゅーっと抱きしめた。
「可愛い…………大好き、葵。ひどいことしてごめんね」
そう言いながら、わざと深く口付ける。
「………っ、意地悪……………」
唇を離すとそうなじられて、光はまた葵の口を塞いだ。
好きな人がこんなに泣いているのに、なぜかゾクゾクして、光は自分が不思議だった。
口付けはまだ、拒まれずに済んでいる。
調子に乗って、「葵………気持ちいいですか?」なんて光は聞いてみた。
「…………もう。光さまのばか…………」
上目遣いに涙声でそう返されて、光はいよいよ危ないなと思った。
何がって、自分の理性がである。
「葵、ごめん………葵が怒りそうなことしてもいいですか」
赤い顔でねだるように聞けば、全部察したのか葵がふるふると首を振った。
「や、お兄様が………。だめ」
言われて、光は頬を膨らませた。
他の男の名前なんか口にしないで、なんてめちゃくちゃなことを思ったのだ。
お願いです、と抱きしめて、光はそのまま妻を押し倒した。
葵は途方に暮れて、また泣き始めた。
光る君が一途であると言うことは、これを葵の上が一手に引き受ける羽目になるということなのである。
「惟光、見張りに立っとけ!」
こういう時の傍若無人さは頭中将に勝るとも劣らない光が外の従者に向かって命じる。
葵は顔を手で覆った。
「従者さまに、知られるのも嫌…………」
せめてもの抵抗に、言ってみる。
光はすぐさま声を張り上げた。
「惟光、耳を塞いで目を閉じろ!」
「どうしろって言うんですか!」
怒鳴り声が返ってきたが、それでも従うのが、さすが従者の鑑の惟光である。
良清ではまだまだ、耳を塞いで目を閉じながらもあらゆる人を屋敷から遠ざけるという離れ業はできない。
朝といってももう日は高くて、蔀戸の隙間から光が漏れている。
光を見上げながら、葵はまだ信じられないでいた。
ずっと清く正しく生きてきたのに、一体どうしてこんなことになっているんだろう、と、真面目な疑問が頭の中を回っている。
恥ずかしくて消えてしまいたいのに、光に抱きしめられると口からは反対の言葉が勝手に紡がれていく。
「光さま…………ひかるさま。好き………っ」
言うたびに、自分を抱きしめる光の腕には力がこもって、かかる息が熱くなった。
また口付けられて、ひどいひどいと思うのに、好き、と言葉が漏れていく。
目を開けると、光が真っ赤な顔で愛おしそうに自分を見つめていた。
「あー………私はもう一生、葵しか目に入りません」
そう言って、抱きしめられる。
首筋に、胸に、いろんなところに吸いつかれて、葵は恥ずかしくなった。
「…………ほんとうに?」
光の顔を包み込んで、震える声でそう聞いてみる。
「本当に決まってます。私は葵、あなたが大好きなんだ。絶対に離しません」
大きな声で答えが返ってきた。
葵はその一瞬、自分の寿命のことを忘れた。
「………離さないで」
そう言って、光を抱きしめる。
ぷつん、と、光は自分の理性が切れる音を聞いた。
都中のアイドルでも、伝説の人、光源氏でも何でもない、ただの十七の男になって、光は葵をめちゃくちゃにしてしまった。
それはもう、こんなところにはとても書けないくらいに。
***
大変だったのは惟光である。
主人が幸せの真っ只中にいる間中、彼はシスコンモンスターと化した頭中将をブロックしていなければならなかった。
律儀に命令を守り、目と耳は塞いだまま、である。
「………大丈夫か、お前どうした」
どんどんどん、と、文字通りの押し問答の末、先に正気に戻った頭中将が惟光の奇行を心配し始めた。
主命なんです、と惟光は跪く。
ここまでくると一周回って、目を閉じ耳を抑えた姿の方が忠義が光って美しい。
苦労性の従者を前に、頭中将は反論の言葉を失った。
「………ええい、もういい!持ってきた酒はここで飲んでやる!」
やぶれかぶれになって、頭中将が叫ぶ。
どん、と腰を下ろして、彼は屋敷に背を向けた。
ここで耳を塞ぐのは癪だが、正直絶対、何も聞きたくない。
見舞いの品をここで飲み干して、記憶を飛ばすしかない。
持ってきた酒はさすが、一流の品である。
「………ヒック、ヒック………ん、お前も飲む?」
酔いが回って、天下の御曹司、頭中将が惟光に手酌を始めた。
混沌もここに極まれりである。
光がやっと現れたのは、一体何刻後だったか。
幸せそうに緩んだ頬がつやつやと輝いていて、頭中将はむすっとした顔で睨みつけた。
「………何か、言うことは」
目が据わっている。
光は頭をかいた。
「すみません。義兄上」
「……………。」
頭中将はとりあえず、一気に酒をあおった。
自慢の名酒を、今こいつには一滴も飲ませたくない。
飲み干せば、酒に強いはずの自分も流石に酔いが回ったらしく、ぐにゃり、と景色が歪んだ。
それでも怒鳴り声くらいは出せる。
「おまえなあ!!」
呂律が回らないが、知ったことか。
頭中将は義弟の胸倉を掴んだ。
「お前なあ、葵は、俺の妹はずっと大事に育てられてきたんだぞ!この上ない身分の姫なんだからな!?なんでもできて美人で、嫋やかな姫なんだぞ!それをお前……こんな時間まで…………」
言いながら、両の目からは涙が散った。
恐ろしいことに、空にはカラスが鳴き始めている。
日が傾いているのである。
「何してたんだよ!?いやいい!聞きたくない!とにかく………もっと優しくしてやってくれ……!」
そのまま頭中将は泣き伏してしまった。
彼らしからぬ醜態だが、確かに………と思って光は苦笑いした。
「すみません。次から気をつけます」
そう言って、頭を下げる。
義兄には鼻を鳴らされた。
「……だって葵が可愛くて……私はどこかおかしいんでしょうか。私は葵といるとどうかしているみたいに………」
光が赤い顔で困ったように言う。
「それは別にいいんだよ!!幸せ者かお前!」
馬鹿が、と頭中将はもう一度、怒鳴り声を上げた。
それから夕焼け空を振り仰ぐ。
「くそ!心配して損した!!」
光は目をぱちくりして、それから照れくさそうに笑った。
「優しいなあ、義兄さん。来てくれてありがと」
「うるさい!」
珍しく悪酔いする頭中将に、光は笑って酒を注いだ。
いつもなら頭中将が自分にやたら飲ませようとしてくるのだから、こんなことになったのは初めてだ。
葵が起きててくれてるか賭けるよ、なんて言い合ったあの日が懐かしいなあと光は思った。
ーーーそれが、今は。
さっきまで腕の中にいた愛妻の姿が蘇ってきて、光はひとり、朱に染まった頬を義兄から隠した。
見上げた空には、一番星が輝いている。
(見ていますか、あの頃の私。義兄さんは相変わらず優しいですよ。色んなことがあるけど、周りにはいつも皆がいてくれて、もう寂しくないからな。それに……………)
私は賭けに勝ったよ、なんて、光はあの頃の自分に言いたかった。
頭中将が招集でもかけたのだろうか、左衛門督、東宮大夫、左中弁の三人が、光の迎えに北山へ参上するのは、翌る日のことである。




