18.雀の子を捕まえて
光る君が初めて、最愛の妻・紫の上に出会ったのは、病の祈祷に訪れたここ、北山である。
僧都の屋敷で、雀が逃げてしまったと泣きじゃくる少女を垣間見た光る君は、たちまち彼女に釘付けになった。
恋しくてたまらない義母に、瓜二つだったからだ。
キラキラと光を反射する大きな瞳も、艶やかで豊かな黒髪も、薔薇色の頬も。
光る君に初めて温かい幸せをくれた、あの義母にそっくりだった。
だから彼は思ったのだ。
これから先一生、義母上に会えないなら。
この想いが実る日が、永遠に来ないなら。
代わりにこの子がそばにいてくれたら、どんなに幸せだろう、と。
ーーー幼い今でも、こんなに似ているのだ。
大きくなれば、もっとそっくりになるだろう。
義母上のような女君に、私が育てよう。
もう会えない思い出の中の義母上のような、明るくて優しい女君に。
ーーー私が育てたならきっと、義母上のように、「父上がいるから」なんて下らない理由で、私を拒んだりはしないだろう。
義母上にそっくりな見た目の、そっくりな声の、私だけを愛してくれる女君。
ああ、病にかかってよかったと、光る君はその美しい顔で微笑んだ。
ーーー私の運命の姫君は、ここにいたのだ。
(………いやどんな思考回路してんだ!!!あんな悲しんでたくせに、夕顔の君はどこいった!?破滅へのカウントダウンじゃないか!………お前じゃなくて若紫の姫君にとってのな!?早く逃げてくれ、そんな奴からは!!!)
勢い余って、現実の光はうっかり檜垣を引きちぎった。
今いるのは北山の、あの僧都の家のすぐそばである。
夢の自分よろしく垣間見なんてしていたら、うっかり悪夢が蘇って来たのだ。
バリバリバリッ!
(!!)
結構な音が出て、光は飛び上がった。
皆に振り向かれたのにバレなかったのは、危機を察知した惟光にはっ倒されたからである。
良清と一緒に地面に押さえつけられながら、光はよくやった、と親指を立てた。
持つべきものはよく気の回る幼馴染である。
今は平安、垣間見というのぞき行為が恋の始まりというイカれた時代である。
とはいえ垣間見中に変な音を立てたり逆に姿を見られたりした奴は普通にドン引かれるし、社会的な死が決定する。
そこだけ謎に現代と同じだ。
こそこそと匍匐前進、いや匍匐後進で逃げかけた光は、ふと、巻き戻し動画さながらの滑らかさで檜垣の前に後戻りした。
着物の裾を引っ張られた惟光が、つんのめる。
「………ちょっと光さま。何してるんです?ここは一旦逃げてください。分かってるんですか、あなたは今、よりにもよって名高い僧都の家で女君の盗み見を働いて、どスケベ野郎の烙印を押されかかっているんですよ」
「いや待って、それどころじゃないことが………あといいかい、私は世間の評価なんてどうでもいいんだ、妻のある身なんだから!………そんなことより!見た、今の!?」
「………何をです?奥方さまだってお嫌でしょう、そんなご夫君。いい加減にしないと離縁を言い出されますよ」
「や、やめてー!分かった、見つからないようにする。大丈夫まかせろ、私は光源氏だから。………じゃなくて!あれ!?私は目がおかしくなったのかな?」
「何です。奥方さまがいた、とでも言うんですか?そんなわけないでしょう。さっさと帰りますよ」
「やだ!!だって葵だったんだもん、葵いたもん。ちゃんと証拠もあるよ!葵の匂いがしたし、日の光に当たった時の髪の色彩、頬に手を添える癖、指のサイズ、傾げる首の角度が葵と全て同じだった。君も見ただろ!?」
「…………………ちょっと、わからなかったです」
「そんなあ!なんだその顔!?戻るからちゃんと見ろよ。良清、良清っ。もっと繊細に匍匐後進して」
「立たせてあげてください」
主人と後輩の腕を取って立ち上がらせながら、惟光は屋敷に視線を戻した。
それから光に言う。
「………というか、なんで忍び込む前提なんです?普通に正面玄関から行ったらどうですか。奥方さまがいるなら尚更です。何か、お困りごとがあったのでは。違いますか、光さま?」
「え?う、でも………あそこはちょっと…………こっそり忍び込んで、葵だけ攫って逃げたいんだけど……」
夢の続きをできる限り脳内から追い払いたい光はぶんぶんと頭を振った。
(マザコン野郎であり、かつロリコン野郎でもあるイケメンって、人としてどうなんだ………。どうやったらそんな奴が爆誕する訳?こわ………)
がたがたと震えがきたのは恐怖からなのか、それとも病がぶり返したのか、判断が難しい。
「うう〜…………」
そもそも、夢の浮橋とか、夢で繋がってる人とか、考えないといけない新たな難題が発生しているのだ。
光が覚悟を決めて、衣の土をできる限り払い落とし、正面に回って訪いを告げるまでに、一体どのくらいかかっただろう。
その頃には庭から、楽しそうにはしゃぐ若紫の姫君の声が響いていた。
***
さて事態は、 数刻前に遡る。
「犬君が、雀の子を逃してしまったの」
教科書にでかでかと載る屈指の名場面にうっかり遭遇した葵は、何かを考える間もなく駆け出していた。
だってその声は、今にも泣き出しそうだ。
なんで彼女が泣くはめになるのか、どうすれば回避できるのか、自分だけは知っている。
―――ほら、こう。こうすると、手に乗ってくれるのです。
雀の子へと手を伸ばせば、そんなお付きの女童の声が、頭の中でオーバーラップしてくる。
若紫の姫君が泣き出したその時には、件の雀は葵の手の中に収まっていた。
返す返すも、あてきの金言は馬鹿にならない。伏せ籠を倒され、逃げていくはずだった雀は、本当に手の上に乗ってくれた。
「あのこは、飛ぶのがじょうずじゃないのにっ。お山の鳥たちにつかまっちゃう」
檜垣の向こうから、そう言って泣く若紫の姫君の声が聞こえた。
続いて聞こえた「ひめさまっ、ごめんなさい!」の声はおそらく犬君のものなのだろう。
ガシャン、と嫌な音がしたので謝罪の最中にさらなるドジを踏んだのかもしれない。
「もう………困った粗相屋さんね。雀はどちらへ参りました、姫さま。まだきっと、遠くへは行っていないはずですわ」
とは、若紫を宥める乳母の声だ。
「………………」
雀の子を手に乗せたまま、葵は立ち尽くした。
雀がちゅん、とこちらを見上げて、首を傾げている。
檜垣の隙間から、若紫の姫君の祖母である尼君の姿が見えた。
「いつまでもそんな幼いままでどうするの、わたくしの命はもう、今日明日かと思われるのに………。ほら、こちらへおいで………」
尼君の細い腕が、孫娘を抱き寄せる。
完全に、夢の記憶と同じやりとりである。
どういう役回りでこの中へ入っていけばいいのか分からず、葵は逡巡した。
一体、なんと言えばいいのだろう。
なんと言えば、自分は。
ーーーなんと言えば葵の上は、紫の上の未来を、運命を、捻じ曲げてしまわずに済むだろう。
自分が死ぬまで、たった四年しかない。
光に懐いて、彼を「おにいさま」と呼んでーーー二条邸で兄妹のように暮らしていた二人が夫婦になるのは、葵の四十九日が過ぎて、喪があけたその日のことである。
光の長いそれからの人生で、最愛の姫君として隣にいるのは、この子だ。
無邪気で優しくて聡明な、藤壺の女御そっくりの、光の運命の姫君ーーー。
いっそのこと、そっと伏せ籠の中に戻しておこうかと思いついた時、手の中の雀が鳴いた。
ちゅん、ちゅん、ちゅん。
「!!」
若紫と犬君の二人が、庭から走り出てきたのは言うまでもない。
一目散に駆け寄ってくる少女たちに、葵は内心頭を抱えた。
けれどそうしていたって仕方がない。
市女笠の自分は、きっと通りすがりの女房にしか見えないはずだ。
葵はしゃがみ込んで、そのまま、手の中の雀をそっと若葉の姫君に返してあげた。
「わあ…………!」
雀の子を大事そうに胸に抱きしめて、運命の姫君が顔を輝かせている。
「ありがとう。ありがとう、おねえさま!」
自分を見上げる瞳には、まだ涙が溜まっている。けれど夢で光が見つけた、痛々しい泣き跡はもうなかった。
幼い少女に相応しい、無邪気な笑顔があるだけだ。
ありがとう、と繰り返す彼女が、藤壺の女御に似ているのかどうか、葵には分からない。
かがんだ葵は、二人に微笑んで、そっと唇に指を当てた。
「捕まえられて、よかった。わたくしのことは、どうか内緒に…………」
ひそひそ声でそう言って、立ち去ろうとした時、がしっと手を掴まれた。
「ありがとうございますっ。ぜひ、おれいを!」
空気の読めない舌足らずな声は犬君のものである。
子供らしいぷっくりとした手を振り払うのは忍びなくて、葵は固まった。
「あ………大丈夫よ。あ、あの」
言いかけた途端に、若紫の姫君が顔を輝かせて犬君に頷いた。
「そうよね、お礼をしなくちゃ!小納言!おばあさまー!」
若紫の姫君の声に、屋敷から女房やほかの女童たちがわらわらと出てくる。
「あああ…………待って」
おろおろと首を振る葵に、運命の姫君は無邪気に微笑んだ。
「おねえさま。こちらへ!」
一体、どうすればよかったのだろう。
犬君と、そして若紫の姫君に手を引かれながら、葵は途方にくれた。
二人の少女のはしゃいだ声が、北山の空に吸い込まれていった。
***
だから光がやって来た時には、葵は若紫や犬君たちに囲まれて、庭に降りていた。
土で衣が汚れたって、構うものか。今の自分は下仕えの女房である。
最も、初めは尼君も小納言の乳母も、二人に手を引かれて現れた葵に目を丸くしていたものだ。
「まあ、どちらの姫君がこんなところに!?」
「神隠しにでもあわれたのではないの」
そう言って立ち上がる彼女たちに、葵は慌てて首を振った。
「い、いいえ、わたくしは姫君などでは………。都である方にお仕えする女房ですわ」
「まあ、では今日は都から光る君が来られていると聞いたけれど…………もしかして、その?」
「はい。名は………ええと、中務と申します」
咄嗟に出て来た名前が自分の側仕えのものしかなくて、葵は心の中で彼女に謝った。
小納言の乳母が感心するように頷いている。
「光る君さまの…………。高貴な方は側仕えの女房でさえ、これほどに美しいのね………」
葵は答えに困った。
隣にはにこにことご機嫌の若紫の姫君がいる。
「おねえさまは、都のかたなのね。ほんとうにおきれいだわ………私も、そうなりたい」
言われて葵は、胸が苦しくなった。
若紫の姫君が首を傾げて、肩で切り揃えられた垂れ髪が揺れる。
白に薄黄の柔らかな着物を重ねただけの簡素な出立ちであっても、彼女こそ、他のどの少女とも違う、見る者を惹きつけてやまない美しさがあるのに。
「わたくしなんて…………。姫さまはきっと………わたくしなんかより、ずっとお美しくなられますわ」
口から出た言葉は、本心だ。
目の前の少女は、初草の若葉、そして夕暮れ時に咲く山桜と、夢の夫が贈る歌で何度も何度も褒め讃えた姫君である。
「姫さまは大きくなられたら、きっと………」
そう、葵が続けようとした言葉は、ふと、にわかに騒がしくなった屋敷の声で消えていった。
顔を上げ、若紫の姫君や犬君たちと一緒にそちらを見ると、尼君のそばに一人の僧都が立っている。
彼が尼君の兄なのだろうと、葵は察した。
夢で光をこの屋敷へ招いたのは彼である。
誰かの訪いが告げられたのだろうか、パタパタと女房たちが立ち働いて、御簾が下ろされていく。
尼君に呼び寄せられて、屋敷の中へ戻っていく若紫の姫君たちを、葵は庭から黙って見送った。
「おねえさま?………いらっしゃらないの?」
振り向いた若紫の姫君に、葵はそっと手を振った。
夫がこの姫君と出会うのは、きっともうすぐ。
それまでに自分は、ここから消えなければいけない。
光る君の来訪までには、きっと文のやり取りや、従者の伺候があるはず。
今のうちに………と、葵は駆け出した。
帰りは一人だって、平気だ。
こうなってもいいように、兄に迎えを頼んだのだから。
(……………っ。)
でも死ぬまでは、妻でいても許されるかしら。わたくし、意地悪や嫉妬なんてきっとしないで、仲良くするから………なんて。
(都合が良すぎるわよね………)
走りながら、葵は顔を覆った。
そんなことを考えていたから、ぶつかるまで、目の前にいる人物に気づかなかったのだ。
ドンっ!
「きゃっ」
「わっ」
考え事をしていたのは、向こうも同じらしい。
同時に上がった声に、葵は慌てて相手に謝ってーーーそれから、そのまま固まった。
「ご、ごめんなさい………」
「ううんこっちこそ………葵!?ごめん!えっ私今あんまり着物綺麗じゃないのに!ごめん!!」
立っていたのは紛れもなく、葵の夫、光る君その人である。
葵が何か答える間もなく、大慌ての光が顔を拭いてくれる。
されるがままだった葵ははっとして、光を見上げた。
「光さま………どうして」
「どうしてって………決まってるでしょう、あなたを攫いに来たんですよ。葵こそ、どうしてここに」
「えっ……あ。…………内緒です」
そう言って、葵は目を伏せる。
そんな妻を見て、不意に光の胸が鳴り出した。
ーーーあなたは一人ではないのです。
聖人の声が、耳に蘇る。
夢の世界と違うのは、自分の他には……。
胸の奥が温かくなる。
―――もしかして。
もしかして、私と夢の浮橋で繋がっているのは。
そんな馬鹿みたいな期待が、胸の奥で膨らんでいく。
「………光さま?」
「ううん……何でもない。よかった……」
そうかもしれないと、そう思えただけで、今は。
ほっとしたら力が抜けて、光はふらついた。
葵が青ざめて、支えてくれる。
「光さま!ご、ごめんなさい………わたくしがぶつかったりしたから!」
「ええー、違う違う………こっちこそごめん」
葵の肩に頭を乗せながら、光が言う。
「重くないですか。ごめん………葵のせいじゃないですよ。治ったと思ったのになあ…………」
悪寒はどうやら、体調不良の続きだったらしい。
崩れ落ちた光に、様子を聞いた僧都が休めるようにと、屋敷の離れを整えてくれた。
陽が落ちた北山は、都とはまた違った静けさである。
見渡せる庭の流れのほとりには篝火が焚かれ、灯の入った灯籠が吊られている。
仏前に焚かれる名香の薫りがどこからともなく漂ってきてーーー光はなんとなく、空蝉の君の屋敷を思い出した。
久しぶりの、二人っきりである。
枕元に座る妻を見て、光はほっと安堵の息を吐いた。
「………ああ、怖かった」
「………え?」
横になった光のささやきに、葵が聞き返す。
(怖かった………私が色々したせいで、もし、運命が悪い方へ変わっていたら………。夢の浮橋なんてものがあって、知らない誰かとつながっていたりしたら………)
そして、病に倒れたその時に、まず思ったことは。
光は苦笑のまま続けた。
もし運命が変わっていて、このまま、私が死ぬことになったら………と。
「愛しいあなたに、もう会えなくなるかと思って、それがとても怖かった」
葵の手を握って、熱に浮かされた光の声が続く。
「葵、知っていますか…………私はあなたがいないと眠れないし、ご飯を食べても美味しくないし、この世界が全部、色褪せて見えるんだ。あなたに初めて出会ったあの日から、私はどうすればあなたに好きになってもらえるか、そればかりを考えて生きてきたんですよ………」
私の葵、と、光が言う。
ーーーずっと、ずーっと、そばにいて。
お願いです。
ささやくような声は、いつしか柔らかな寝息に変わっていく。
葵は言葉が出なかった。
気付けば真っ赤に染まった頬を、涙が伝っていた。
ぶり返した熱のせいか、夫の顔は火照っている。
そっと頬を撫でると、すり、と顔を寄せられた。
葵は胸がいっぱいになった。
「………そばにいても、いいの?」
声が震える。心に刺さっていたいくつものトゲが、溶けて消えていったかのようだった。
葵は眠る夫に頬を寄せた。
ずっとずっと、そばにいて。
そうねだる光の声が、何度も蘇って、葵の胸を満たした。
「………はい。約束します」
あなたがそう願ってくれるなら。
頬を濡らす涙をそのままに、葵は囁き声で答える。
ーーーずっとずっと、そばにいます。
夢でも現実でも、生まれて初めて、葵は自分から光に、そっと口付けた。




