17.夢の続きと北山の恋
(…………?)
葵に手を握られながら、光は首を傾げた。
(……あれ、私今別にショック受けたりしてないけどなあ………むしろ史上最強にハッピーなんだけどなあ………これって落ち込んでなくてもなるんだ〜……)
熱で朦朧とする頭で、考える。
夢の自分が病に倒れるのは、夢中だった夕顔の君に先立たれた心痛からだ。
だがその夕顔の君は二条の屋敷で、頭中将に守られて幸せに暮らしている。
というかそもそも、自分は義理の兄の恋人を奪ったりしないし、葵以外の人に夢中になったりはしない。
心痛の原因になりそうなものは今のところないが………?と、光は頭の上に?マークを浮かべた。
いつか未来で玉鬘と呼ばれ、一世を風靡するであろう瑠璃姫も、九州に落ち延びることなく両親の元で暮らしているし、初孫として大宮の方にそれは可愛がられている。
奔走した甲斐があるというものだ。
娘を頭中将の正妻にした右大臣家には恨まれるだろうが、左大臣家からは感謝され、よしこれでハッピーエンドと思ったのだが……。
不安げな葵を安心させようと、ガタガタ震えつつも微笑みかけようとして失敗しながら、光はもう一度首を傾げた。
…………なんでこんなことに?と。
ところで瘧病とはそもそも、マラリアに似た感染病である。つまり光はシンプルにこのウイルスに感染したわけだが、平安の世に医学はない。
あるのはまじないと加持祈祷だけ……。
御所でのブラック労働、もとい出仕は当分、お休みである。
思いの外症状が重かったので、葵は女房たち皆とともに必死で看病にあたった。
生き霊に取り憑かれてさえいなければ身体が丈夫な葵は意外にも、これまでもこれからも、そして夢の人生でも、一度も病にはかかっていない。
病がちなのはむしろ、光の方である。
数日が経っても症状は改善せず、光はぐったりとして床につくばかりになってしまった。
「〜〜〜………………」
夢のあいつのこれって、別にポーズじゃなかったんだ〜、と光は苦笑しかけてむせた。
ごほっ、と嫌な咳が出る。んんっ、と咳払いすれば視界が歪んだ。
トラウマレベルのしんどさである。こんな目にあってもなお女君たちを追いかけ続けた夢の自分のメンタルは逆にどうなっているのであろうか。
「………左大臣さま、北山に非常に徳の高い上人がいると聞きます。こうなればもう、その方におすがりするほかないのではないかと…………」
義父の左大臣に、そう進言する人の声が聞こえる。
手配してもらった祈祷が、なぜかことごとく効かないのである。
「北山に…………」
そう呟く、妻の声がする。
止まらない頭痛と吐き気、そして発作的に襲ってくる高熱と戦いながら、光はうめいた。
どこかで聞いた地名である。
ああ、そうだ。北山にはーーー。
そう思い、制止の声を上げかけた時、一際酷い発作が襲ってきて、光の意識は遠のいた。
気づけば牛車の音がする。歩けない自分の肩に腕を回す、惟光の声も。
だめだ。止めなければ。
そう思うのに、声が出ない。
視界が暗くなって、ゆっくりと消えて行くその寸前、光は必死に手を伸ばした。
「葵、あおい………」
声にならない声で、妻の名を呼ぶ。
自分が一人で北山へ行く訳にはいかない。
それだと夢の通りになってしまう。
牛車が動き出した頃だろうか。
ふわり、と葵の香の薫りがした。
冷たくなった手に、つなぎ慣れた優しい手が触れて、光は安堵のため息とともに闇の中へ落ちていった。
***
夜明けに京を出た牛車は、ゆっくりと昇る朝日に照らされて北山へと向かった。
山路を進めば、渓谷に立ち込める淡霞が、咲き乱れる桜が、美しい風景の全てが目に飛び込んでくる。
揺れる桜花のその間から、いくつもの僧坊が見える。待童たちが閼伽棚へ水を盛り、仏壇へ花を供えていた。
まるで絵のようである。
―――いかにも、光る君が、運命の姫君に出会うのに相応しいような。
ゆっくりと進んでいくその牛車の中で、葵は身を縮ませた。
ぐったりと目を閉じる夫の隣で、牛車に同乗する葵は、その身分を考えるとなんとも風変わりな格好をしていた。
小袖に小袴。長い髪は結ってまとめ、羽織物はおろか顔を隠す扇もない。
空蝉の君のところへ行ったあの時の進化バージョンだ。女房たちに箝口令を敷いた上で用意した、見事なまでの下使えの装束である。
だって身分に相応しいあの格好はこういう時、あらゆる意味で動きづらい。
元々合理的な性格の上に、プライドを叩き捨てた葵は潔い。
それに本当は自分は、今ここにいるべきではない。
身分云々とか、弱りきった夫が何故か握力だけは衰えておらず、うっかり触れてしまった手をどうやっても離してくれないからとか、そんなことの前に葵は知っているのだから。
夫の最愛の妻になる人が、この北山にいることを。
夫が明日、その人に出会うことを。
(………お兄様がいて、よかった)
風に揺れる桜を眺めながら、葵は屋敷での騒動を思い返した。
北山に行くためのあれこれを取り仕切ってくれたのは兄の頭中将だった。
葵が光のそばにいられるように。
そしてーーーもし、光が運命の姫君に出逢ったら、そっと、葵は二人の元を離れられるように。
頭中将に、葵の真意が伝わったかどうか、それは分からない。
けれど彼は、こう言って葵の背中を押してくれた。
「大丈夫、俺に任せろ。お前が傷つくようなことにはならない。帰りは俺が、北山まで迎えに行くよ」
約束だ、と兄が笑った。
ありがとう、お兄様、と、壺装束の葵は微笑んで応えたのだった。
姫君姿でいたくないのは、単に動きにくいからだけではない。
一目で葵の上だと分かる姿でなんか来て、間違っても自分の存在が、二人の邪魔になってはいけないと思ったからだった。
(光さま。葵がずっと、おそばにいますからね)
夫に手を握られて、山路を牛車に揺られる葵は、心の中でつぶやいた。
(あなたにとってわたくしが、必要である限り………)
***
修験僧たちの寺は、身に沁むような清らかさである。
惟光に支えられて歩く光は、上人が住んでいるという高い峰の巌窟にやっとの思いでたどり着いた。
満身創痍の光はもはや、息をするのもやっとである。
祈祷の場にまで葵を連れてくるわけにいかないので、泣く泣く別れてーーーそこからは衰弱に拍車がかかっているのである。
それでも病気する姿まで美しいと称えられるのだから、光る君でいるのも楽ではない。
巌窟の中の上人は、不思議な人だった。
足が悪いのか杖をつき、腰の曲がった姿の、数千年を生きていそうな老爺だったが、光をたたえた目は少年のように若々しい。
光を見て、おや、申し訳ない、と彼が口を開いた。
「あなた様に、こんなところまでご足労いただくとは。光る君さま」
身分を明かしていないはずの光に、微笑みとともにそんなことを言う。
上人は光を形どったものを作って、病を移す祈祷をしてくれた。
日が高くなる時分になって、ようやく加持が終わると、光は驚くほど体が楽になっていることに気付いた。
奈落の底よろしく真っ暗だった視界はまだぼんやりとはしているものの色彩を取り戻し、一番きつかった頭痛は綺麗に消えている。
多分まだ熱はあるだろうが、全くもって許容範囲内。
医学はなくとも、平安の世にはまじないと加持祈祷があり、徳の高い上人が確かにいるのである。
やっと自力で立ち上がれるようになった光は、上人に心からのお礼を言った。
自分はまだ、死ぬわけにはいかないのである。
葵と幸せな老後を送るという夢を、まだ叶えていないのだから。
夢の自分が、どんなにしんどくても泰然としていたのは、別に聖人君子だったからではない。
ただ寂しくて、仕方なかったからだ。
たとえこの病で死のうと構わないと思っていたからだ。
だって生きていたってどうせ、恋しくてたまらない藤壺の義母上には会えない。
寂しさを分かってくれた優しい夕顔の君は、自分を置いて死んでしまった。
ーーーこのまま死ねたら、夕顔を追いかけていける。もう、苦しまなくて済む。
そう思ったから、あいつは。
光は夢を回想して、苦笑をこぼした。
そう考えれば、しんどい耐えられないと悶絶していた今の自分はたとえダサくとも健全である。
そんな自分でいられるのは、葵がいてくれたからだ。
ーーーこの先、どんな未来が待っていたとしても、夢の通りにはさせない。
光がそう思って顔をあげると、すぐ目の前に上人の顔があった。
「わっ!……え、え?」
戸惑う光に、彼は何も言わずに目を合わせてくる。
上人はしばらく光を見つめて、ぽつりと呟いた。
心の奥底まで見通すような声で言われた言葉に、光は目を見開くことになる。
彼は、確かにこう言ったのだ。
「……あなたは、不思議な夢を見ていますね」
***
光が巌窟で目を見開いている頃、葵はひとり、北山の小道を歩いていた。
こんな格好で、しかもひとりでいるのだから、誰も左大臣家の姫君だとは思わないだろう。
市女笠を被った葵は寺院に手を合わせては夫の病気平癒を祈り、これから出会う姫君が、光さまを幸せにしてくれますように、と願って、また歩き出す。
桜が風に揺れていた。
都の桜はもう散っていたが、北山は今が盛りである。
夢の自分が、死ぬまで見ることのなかった洛外の風景だ。
綺麗……、と葵が呟いた、その時である。
「こちらよ、小納言!早く早く!」
そんな、明るい少女の声が響いてきたのは。
ハッとした葵の目に、一つの山荘が飛び込んできた。
凝った作りの美しい庭。廓と組み合わされた西向きの座敷。
少しだけ上がった簾の向こうに見える、重ねられた経典。仏前に供えられた花々。
若い女房や女童たちの奥には、経典を読む品の良い初老の尼君の姿。
見間違えようがない。
これこそが、若紫の姫君―――紫の上が育った屋敷である。
パタパタと走る足音。
明るく弾んだ、愛らしい声。
隠れるべきだったのに、思わず、葵の足は止まった。
「姫さま!お待ちください。なりませんわ、そんなに走って……」
そう止める声は、乳母のものだろうか。
小納言の乳母、と葵はその名前を思い出した。
「だって、見せたいものがあるの!」
と、はしゃいだ声が続く。
あの雀がね、やっと懐いたの!と。
固まったまま、動けない葵をよそに、パタパタと足音が近づいてくる。
無邪気な声が、葵の胸を打った。
若紫の姫君はまだ、十歳になったばかりのはずだ。
小さな足音は弾んだまま、まだ続いている。
きっと向こうに、雀を入れた伏せ籠があるのだろう。
そこまで考えた時、不意に葵の脳裏に、あの夢が蘇った。
初めて光る君と出会った時、は彼女は泣いていたはずだ。
なぜかと言えば、それは……。
―――犬君が、雀の子を逃してしまったの。
「……………!!」
ちゅんちゅんと、雀の鳴き声がする。
バタバタと羽ばたいて、飛んでいく音も。
こくん、と唾を飲み込んで、葵は思わず駆け出していた。
***
そうとは知らない光は、いまだに巌窟の中である。
「………わかるのですか?」
聖人に言われた言葉に、光は目を見開いて、こう問い返した。
頷くだけの聖人に、光の口から堰を切ったように言葉が溢れ出す。
夢で見た、自分の人生の物語のことを。変えられるもの、変えられないものーーーその通りに、人生が進んでいくことの戸惑いと葛藤を。
夢を知っている人は、この世界に自分一人しかいないのだ。
夕顔の君の未来は、変えられた。あの夢は変えられるはずなのだ。だって、そうでなければ。
―――そうでなければ、葵は。
光の頬に、涙が伝った。
「………どうしようもなく、不安になることがあるのです」
そうこぼした光に、聖人は目を細め、変わらぬ調子で言った。
不思議に笑みを含んだ声である。
「………夢には、浮橋というものがあります。あなたの見た夢も、あなたの縁の深い人と繋がっているのですよ。だから………今ここにいるあなたは一人ではないのです」
夢の浮橋。縁の深い人…光は少しだけ眉を顰めた。誰だろう、と考える。
―――葵以外だったらやだな。
そう思ったのである。
惟光が手を貸してくれたが、なんとか歩けるようになっていた。
上人に見送られて巌窟を出ると、京の都が眼下に広がっていた。
霞が晴れ、揺れる桜の中で、光が毎日を暮らしてきた都が遠くに輝いている。
「見て、惟光」
振り向いた光は、まるで絵のようだね、と笑った。
傾きかけた春の陽が眩しかった。
「絵のような風景なら、もっと美しい場所がありますよ。播磨国の明石浦です。そこから眺める海が、それは美しいのです」
後ろを歩く従者の一人がそう言って光を見上げた。少しだけ元気を取り戻した主人の様子が嬉しいのだろう。
彼は名を良清という。
六位蔵人から惟光と同じ従五位になったばかりの、中流貴族・播磨守の息子である。明石は彼の故郷だった。
「明石といえば……先の播磨守の入道が、娘を住まわせているのではなかったか」
と、これは良清に尋ねる惟光の言葉である。
「よくご存知ですね。その通りです。入道は二代ほど前までは大臣まで務めた名門の出ですが、若くして出家なさったでしょう。自分の人生が不遇だったから、娘だけはなんとしても后にしたい、それが一族の悲願なのだ、というのが口癖なのですよ。姫君は、もしそれが叶わなければ海へ身を投げて死んでしまえ、と言われているのです」
ひどい遺言だ、と光は苦笑しながら相槌を打った。
「へえ。竜宮城の乙姫に………」
なるんだね、と言おうとして、不意にあの夢が蘇った。
「な、なるん……だよね?」
熱がぶり返したかのように、また頭が重くなる。
光は呻き声とともに頭を押さえた。
これは、あの明石の君のことだ。
夢の自分が姫君を産ませた明石の君の伏線が、まさかこんなところに転がっているとは。
良清と惟光が目をぱちくりする。
「何言ってるんです、光さま?」
「なったら可哀想と言うものでしょう。鄙に埋もれているには勿体無い美しさだと評判の姫君です。きっと、どこかから立派な貴公子がやってきて見初められるのでは?」
「………!!」
惟光の意見に、光は青ざめる。
「わ、私は駄目だからな!?私には葵がいるんだから!ははははははは、早く帰ろ」
「………ちょっと。立派な貴公子それ即ち自分という考えをいい加減捨ててください。いくら光り輝いてるからって、よそで言わない方が……」
ため息をつきながら、よろけた光を惟光がさりげなく支えてくれる。
来た道を戻れば、これまたどこかで見たことのある美しい山荘が見えてくる。
簾が上げられた座敷には、尼君と女房たちの姿がある。そして庭には、女童たちと戯れる美しい姫君の姿がーーー。
(………ああああああ、そうか……今ってそうだった)
思ったそばから、頭痛とめまいが再発した。
誓って自分はロリコンじゃない。
葵は自分より年上だから、むしろ年上の方が好き。
慌てて目を逸らし、Uターンしようとした光は、ふと、そのまま固まった。
(ん?………あれ?)
そう首を傾げては、目をこする。
たとえどんな格好でも、見間違う訳がない妻の姿が、なぜかその屋敷の中に見えたのである。




