16.ふたりの秘密の約束の行方
さて、舞台はまた、いつもの左大臣邸に戻る。
朝日の差し込む部屋で、光はいつものように葵を相手にくだを巻いていた。
「葵、どうしよう、今日は仕事にならないと思う。一日中葵のことばかり考えてしまって、葵のことが頭から離れない…………どうしよう?」
もう口癖のようになってしまった言葉である。
葵は出勤前の夫からそんなこと聞かされて自分の方がどうしようと頭を抱えた。
最初の方はキャーキャーと黄色い声を上げていた女房たちももはや慣れてきて、微笑ましさの余り吹き出さないように揃って口元を押さえているのもしんどい。
昔のようにさっさと「お父様が待っていますわ」と追い出してもいいのだが、正直父は待たされようがすっぽかされようが「娘夫婦の仲が上手くいっているのならそれでいい。それこそが無上の喜びだ」とほっこりしているので、この脅し文句はあまり効果がない。
夫がそれに気付き、味をしめつつあるからである。
「………もう、光さま。お願い……」
光にまた抱きしめられて、そろそろ限界がきそうな葵は方向性を変えた。
「恥ずかしいですわ。皆の前で、こんなにされたら………わたくし………」
そう言って、赤く染まった顔を伏せる。
深窓の令嬢らしい台詞なので、そう不自然でもないだろう。
「二人きりの時だけにして………」
と、今度は上目遣いに言ってみる。
途端に触れている夫の鼓動の速度がバグり始めたので、葵は作戦の成功を悟った。
「んんっ、葵、可愛い………そんなに恥ずかしいんですか。分かりました、あなたがそう言うなら………名残惜しいけど、仕事に行きます。義父上を連日、お待たせ申し上げても悪いですもんね」
チョロい夫である。
苦笑する葵に、夫が言う。
「よーし、見ててくださいね、葵。私はきっと出世してみせます。あなたのために頑張りますから!」
「………ええ。だから、早く行ってくださいませね………」
言いかけてから、葵はそっと夫の耳元に口を寄せた。
祝言の日の夜に誓ったことを、忘れるわけにはいかない。
「………でも。出世なさってもなさらなくても、光さま、あなたはずっと、わたくしの大切な夫です」
そう、葵は光を、闇堕ちさせるわけにはいかないのである。何があろうとも、絶対に。
途端に光の足は止まった。
「え?本当ですか?じゃあもう仕事なんて行かずにずっとあなたといたい………」
ふらふらと、光が逆戻りしてくる。
葵はピシャッと御簾を下ろした。
「もうっ!お父さまが待っていますわ!」
「うう…………」
追い出された光が項垂れた。
トボトボと廊下を歩いていく。
葵は数秒の思案の後に、ふうと息を吐いて、御簾からほんの少しだけ顔を出した。
「………わたくしだって、寂しく思っているのですから。早く帰っていらして………」
光が文字通りの骨抜きになり、ふにゃんとその場にうずくまったのは言うまでもない。
「光さま!どうしました!?」と葵は駆け寄る羽目になった。
「葵のせいですよ。今動けません…………幸せを噛み締めてるんです」
「…………!!」
葵は赤くなって、握った手を離した。
「もう。牛車の中で噛み締めてください!」
部屋へ戻ろうとすると、「葵」と呼び止められる。
葵が振り向くと、光が幸せそうに笑っていた。
「葵、大好き」
「……………!」
無邪気な笑顔に、葵は固まった。
じゃあねと手を振って、パタパタと夫が朝の廊下を駆けていく。跳ねるような足取りが眩しかった。
「………葵?何をしているの」
そのまま、しばらく廊下にいたせいで、気付けば母の大宮の方がそばに来ていた。
当たり前だ。葵の上が廊下でひとり座り込んでいたら、誰だってぎょっとするに違いない。
「皆が心配していますよ。中納言の君が、膏薬が足りなかったのよ、なんて騒いでいたけれど、あれは何かしら」
知らない間に謎の推理がされ始めていて、葵は慌てた。
膏薬の件はとりあえず、母には知られたくない。
だから急いで立ち上がって、なんでもないわ、お母さま、と言わなければならないのに。
ーーー葵、大好き。
夫の声がよみがえって来て、葵は真っ赤になった。
足に力が入らなくて、立ち上がれない。
葵は着物の袖で頬を覆って、小さな声で呟いた。
「待って、お母さま……。今動けません」
***
秋空の下の御所は、いつにも増して美しかった。これから紅葉の季節になれば、きっと絵のような風景に変わるに違いない。
空を見上げる光の隣に、いつのまにか頭中将が立っていた。
「やあ、光。もうすっかり秋だな。今朝は空を行く雁の声が聞こえたよ」
夕顔の君と再会してからというもの、頭中将の風格には磨きがかかって、さらに男らしくなった。その上、口を開けばこの風流人っぷり。
なんて様になる男なんだ、と光は従兄弟ながら感心した。
「そうですね。涼しくなってありがたい。私も聞きましたよ」
なんて、とりあえず嘘八百を返しておく。
前半部分は嘘ではない。心の底からありがたい。
そういえば頭中将の着ている着物は、四の君が作ったものなのだろうか。それとも夕顔の君がーーーなんて、光はそんなことを思った。
「君の二条院は、さすが、素晴らしい屋敷だ。庭の朝露を眺めていると、彼女と出会った頃を思い出したよ。砧を打つ音に、唐臼の音、こおろぎの声なんかもして………下町の朝の騒がしさなんて、君は知らないだろうな」
光は顔をしかめた。
揶揄うようなその声に、光も精一杯の惚気を返してみる。
「さすが、お詳しいですね、義兄さんは。でも妻と見る朝の景色なら、私だって負けませんよ。朝露なら、三条邸の庭にだってあるんですからね」
「そうか?君が俺の可愛い妹と、一緒に朝露を眺める生活をしているとは知らなかったぜ。毎晩君の腕の中にいるなら、葵は御帳台から起きられないに違いないと思っていたよ」
「んんん…………」
そう言われると今朝の自分のろくでもない言動が蘇って、光はうめいた。
こうしていかにも詩的な義兄の恋愛譚を聞かされると、途端に自分が馬鹿みたいに思えてくる。
そもそも朝、御帳台から出られないのは葵ではなく自分である。葵はきちんと起きて、支度を整えた上で自分が起きるのを待ってくれているというのに。
そんな妻に、どうしよう葵〜、と朝っぱらからべたべた絡んでいるのだ。
頭中将にだけは、絶対に知られたくない醜態である。
「なんだ、光。苦虫でも噛んだような顔して」
頭中将ににやにや笑われて、光は嫌な予感がした。
この親友ときたら、自分の弱みを握るのが大好きなのである。
「そうか、伊予介の任国への赴任を気にしてるんだろう。たしか十月の初めに、四国へ旅立つと言っていたな。奥方も連れて行くそうだ。これでもう、方違を口実にお忍びはできない。残念だったな、光」
「…………?………ああ!そうですね。“行く方知らぬ秋の暮れかな”………空蝉の君も、もうすぐ遠い人になってしまうな。そうだ、小君が寂しがるといけないから、また面倒を見てあげなきゃ」
遠国へ向かう姉と、小君はもう会えなくなる。
あの歳で、家族に会えない生活は、何よりも寂しいだろう。自身の少年時代と重ねて、光は自分の近侍になった少年を思った。
「君も酔狂な男だな。家に泊まったというだけで、縁もゆかりもない子の後見を申し出るなんて。君でなきゃ、その家に秘密の恋人でもいて、恋文の遣いでもさせているのかと勘繰るところだ」
「げほっ。んんっ、見くびらないでください義兄さん。あの子は立派になりますよ。なんたって、この私が見込んだ子ですからね。ひとたび光源氏チルドレンの仲間入りをした子の前途は皆、明るく輝いているんですよ」
そう、小君は、のちに右衛門佐になる。
言いながら、光の脳裏にはあの夢が流れていった。
血のつながりがないにも関わらず、夢の光が後見した子は、実はたくさんいる。
玉鬘とか、秋好中宮とか、薫とかだ。
そういえば、紫の上も入るのかな……….なんて光が考えていると、頭中将がじーっと光を見下ろしていた。
「ふうん。やけに自信満々だな。………何か、心境の変化でもあったのか?」
「………え?」
謎のきっかけから鋭すぎる質問が飛んできて、光は硬直した。
結婚以来、葵の上とは鴛鴦の仲という設定でやってきた手前、本当に夫婦になれたのはついこの前、今が一番有頂天、なんてことはこいつにだけは絶対に知られたくないのだが。
「そう?君の気のせいですよ。私は前からこうじゃないですか。自信満々にもなりますよ、だって私は葵に…………」
ーーーずっと、一生、わたくしだけなの?嬉しい………。
ーーー光さまだけ………。
葵に、そう言ってもらえた男なんだから。
言おうとして、言えるわけがない言葉は不自然に消えていった。すぐ赤くなるこの顔、なんとかならないかなあと、光は心の中でうめいた。
頭中将の疑惑の視線がますます突き刺さってくる。
「………よし。決めたぞ、俺は今日は三条の家に泊まる。久しぶりに、可愛い妹の顔が見たい。文句はないな、我が義弟よ」
「んぐっ………ど、どうぞどうぞ。おもてなししますよ。ようこそ我が家へ。光る君と葵の上の愛の巣へ」
「うるさい!そこは元々、俺の実家なんだよ!」
足音も荒く頭中将が牛車に乗り込んで、御者に行き先を告げた。
***
「ただいま葵。ごめん相談があるんだけど」
御者と惟光を急がせ、義兄の牛車を抜いて三条邸に帰還した光は、部屋に飛び込むなり葵に駆け寄った。
玄関からここまで、久しぶりにあのキショい高速移動術を繰り出す羽目になったが、今日ばかりは仕方ない。
事情を聞いた葵はむしろ、狼狽した。
中納言の君に隠しなさいと指示したやたらでかい薬入れがなんなのか、光は知らない。
いつもの癖で話しながら無意識に繋いでいた手を、葵は慌てて離した。
それから赤い顔で光に懇願する。
「ねえ光さま、お願い………お兄様がいらっしゃるのだから、そんなに近くにいてはだめ。わたくしにーーー」
ーーーわたくしに抱きついたり、頬ずりしたり、口吸いしたりしてはだめ。
残りの台詞が思い切り言いづらかったので葵は口を閉じた。
夫がはにかんだような、バツが悪そうな顔をしているので、それでも真意は伝わったらしい。
「………約束ですわ。光さま」
「はあい。二人っきりの時だけ、ですよね。あなたがそう言うなら」
と、光が拳何個分かの距離をあけてくれる。
これが本来の距離感である。
ホッとする葵だったが、夫の顔を見て赤面した。
ーーーあ〜あ。義兄さんが急に来るなんて言わなかったら、今頃は………。
そう言わんばかりの不満顔だったからである。
キッと睨むと、照れ笑いを返された。
バレてましたか?ごめんなさい。
…………ねえ、葵。義兄さんが帰ったその後には………。
ヒソヒソ声で、夫がそう尋ねてくる。
(………光さまったら、わかっているのかしら)
展開が不穏になり始めたので、葵はさっさと兄を通すように女房たちに指示した。
***
そわそわ、そわそわ。
夫婦の対屋へ通された頭中将を前に、御簾の向こうの二人がぎくしゃくしている。
久しぶりに会う妹とその夫を見て、夏のあの日からずっと、夕顔と死ぬほどイチャイチャしてきた頭中将は首を傾げた。
………なんだ、この距離感。
そう思ったのである。
そうかと思えば、葵がフイと光から顔を背けてーーー光はそんな妹の姿を、また惚けたように見つめているのである。
俺がいて、これだ。二人っきりの時はこいつ、大丈夫なんだろうか。
頭中将はらしくもなく、そんな心配をした。
照れるでもなく、また熱っぽい視線を返すでもない妹の方も何を考えているのかわからなくて心配である。
左大臣家を辞す時、頭中将はこっそりと顔馴染みの女房を呼び寄せた。
「ねえ、君。あの二人はどうなってるのかな。いや、まさか都中で噂の二人が、本当はまだ夫婦じゃない、なんてことはないだろうけどさ」
呼ばれた女房はびっくりした。
「まあ、頭中将さま。姫さまは毎夜、光さまとお休みですのに」
「そう?ならいいんだけど。なんだか気になってね。ーーーそれにしても君は相変わらず綺麗だな。妹に傅かれ、美人の女房たちに囲まれて、光も嬉しいことだろうね」
最後の言葉は、いつもの彼らしい軽口だった。
左大臣家は彼の生まれ育った家である。
彼に口説かれるのにはもう慣れっこの女房は笑って躱した。
心に残ったのは、「まさか都中で噂の二人が、本当はまだ夫婦じゃない、なんてことはないだろうけどさ」という言葉の方だった。
(姫さまと光る君さまが、夫婦じゃない……?)
ありえない、と思いつつも、二人を見る目が変わってしまう。
祝言の日から今まで、そう思ってみるといくつもの心当たりがあるのだ。
(それなら、もしそうなら……光る君さまは、お寂しいのではないかしら)
ざあ、と遠くで、雨の降る音がした。冷たい色をした空から、時雨がこぼれ落ちていく。
夜になると頭中将は、自室へと下がった。
結婚した貴族の多くは実家に部屋など持たないが、彼はいまだに、実家に自室を置いてもらっているのである。
一日の勤めを終えた女房たちが、思い思いに過ごす夜。さっさと寝てしまう者、噂話に興じる者、編つぎをして遊ぶ者と、様々である。
頭中将が呼び止めたあの女房はひとり、それには加わらず、そこから漏れる灯りを見つめていた。
葵の側仕えの中で、彼女は目立つ方ではない。むしろその逆だ。
控えめな性質、清楚な佇まい。それなのに、簡素な女房装束を纏っていても目立つ美貌。
その顔はどこか、光の夢に出てきた紫上にーーーいや、それよりも藤壺女御と桐壺更衣に似ていた。
彼女の名は、中将の君。
左大臣家で葵に仕える女房で、そしてーーー光と葵が見た夢の中で、光が手をつけた女房だった。
***
それから季節は目まぐるしく変わった。
霜月の新嘗祭が過ぎ、師走の大祓が終わって、新しい年がやって来る。
白馬節会が、そして祈年祭や涅槃会が終わり、春の曲水の宴が開かれる頃。
葵とした、「人前ではデレデレしない約束」にも段々慣れてきて、皆といる時にはそっけなく、二人っきりになれた時だけめちゃくちゃイチャイチャする、という逆仮面夫婦生活を光は送っていた。
もちろん御所の仲間たちの前では、相変わらずの愛妻家で通している。
光は幸せだった。
葵にどれだけツンツンされても、「これは恥ずかしがってるだけ。こんな顔してても、二人っきりの時にはあんなに………」と考えればもうたまらない。
その姿を知っているのは自分だけなのだ。
義兄が何やらコソコソ葵付きの女房と文のやり取りをしていたが、知ったことではない。
季節が何度巡っても、隣には葵がいる。
左大臣家の庭に咲く桜を、光は葵と寄り添って眺めた。
風が吹けば、一面の桜吹雪である。
光は忘れていた。
夢の自分がこの先、どんな人生を歩むのかを。
桜の花が散るのと同時に、何年も前に見た不思議な夢の記憶は、朧げになって消えていった。
光の身に、突如異変が起こったのは、そんな春の日のことだった。
「うう、寒い………」
ある朝。そう呟いて、光が衾にくるまっている。
「光さま。早く起きてくださいませ」
すっかり習慣になってしまったそんな言葉で、葵は夫を起こそうとする。
「そんなあ、葵。私は寒がりなんです」
そう言って、光が震えてみせる。
葵は苦笑した。
都中の桜ももう散ってしまった、あたたかな陽気の日のことである。
「もう……光さまの嘘つき。こんなに暑いのに……」
そう言って、夫の手に触れて―――葵は異変に気付いた。
「………え?熱い……光さま!熱があるのではありませんか!?」
「………え?」
こうして二人の脳裏に、消えたはずの夢が再び蘇った。
光る君が十八、葵の上が二十二になった春。
そう、まさに今この時期、光は瘧病に倒れるのである。
想い合う仲になった、幸せにしたいと願った夕顔の君を喪った、その心痛から………。
熱に浮かされる夫のそばで、青ざめた葵は無意識に手を握り締めていた。
だって葵は、知っている。
―――夫の病には何も効かない。まじないも、僧の加持祈祷も。この病を治せるのは、北山の巌窟に暮らすお上人さまだけだ。
そう、だから………。
夢の光る君は、お忍びで北山に赴いて。
後の最愛の妻であり、運命の少女、若紫の姫君に出会うのである。




