【31】トオリ・プール・リバイア
こ、こは……
うっすらとした意識の中でトオリは自分の居場所を確認した。自分は何をしていたのか、自分は今何をしているのか、自分はどこにいるのか。ぼやけた思考の中で彼女は考える。自分が困難な状況へと陥っていることを知りながら。彼女は、見えた景色をそのまま取り込んで解釈した。
「……教会?」
小さな一声も響き渡る程の広い教会。天使を召喚する場所とはまた異なる。ステンドガラスが煌めき何本もの柱で構築され、天井はそのまま塞がれた一種の空間だった。
そんな中でトオリは自分が身動きの取れない状態にあることを理解した。手足も、何も動くことはない。人の気配がすることもない。しかし、大声を張り上げることもなかった。
その前に酷い頭痛が脳を揺らしたから。身体が思うように動かないのは別にしても、身を捩りたくなるほどの頭が割れるような頭痛に眼をぐっと瞑って耐える。だが、それが一向に収まることはなくて意識が奥へ奥へと吸い込まれていったのだ。理解の時間が与えられることもなく、トオリは誰かに闇へと突き放された。
上に上がることは許されない。
ただただ、落ちてゆく。
そこは懐かしの暗闇の世界。
◇◇◇
「悪魔」
誰もがこちらを見ては唾を吐いた。
誰もがその呼び名を口にした。
そして、誰もが私を見ようとしなかった。
俯くしかない私は誰の目にも止まらない。それが私の運命なのか。
18世紀テグラス、オルグレイは、面白いほどに栄と貧で別れている。ロムリアを中心とする栄で産業革命が起こる反面、公害やら貧困やらで苦しむ日々は続いているのだった。
だが私は、違う。黒人、白人の人種差別ではない。特定の理不尽である名前の由来に値して迫害を受けた。これは紛れもなく幼少期、若干9歳の自分の現実だ。
何を思い出しているのだろうか……
思考の中でそう考えても蓋はどんどん開かれていくばかり。自分の弱さをさらけ出していくかのように過去ばかりが目の前で顕になっていく。
そうしながらも、彼女の瞼は重く閉じるのだった。抗いようのない眠りと化して。
皆の目はいつも白くていつもそこに黒を持っていた。向けられるのは全てが鋭く尖った視線でそこに、優しさも安心感も存在するわけがない。
「トオリ!行くわよ」
親も私と同じく、終わりの見える末路を辿る人間の1人。いや、これは正しいものではないか。私自身の運命を定めてきたのは彼女らであって、自分自身ではないのだから。
「はい」
機械的口調を要してトオリは、彼女の後に続いていった。街に食料は不足していた。ギリギリの生活に耐え凌いで、私たちは生きていたのだった。弱々しく細く骨が浮き出る手足は自分のもの。筋力は衰えて、空腹は限界を達していたが、泣き叫んだところで何が変わることは無い。親も私も確かにそこに、幸せを求めていたのだから。
「あぁッ!リバイアサンだッ!」
近所の子供たちがこちらを指さし、目尻を上げて面白そうに笑った。私よりも1つ2つ下の子供たちだろう。彼らも貧困に悩まされている苦しみを知る同士であった。普通ならば協力してそれを乗り越えるべきだと思っていた当時の私は、少々変人だったのかもしれない。
これは私の考えだが食料の取り合いをするのではなく、人々は団結をしていくことに意味があるのではないかと問いたかった。
だが彼らの苦しみやストレスには、はけ口があった。私たち親子という名のはけ口だ。ストレスさえを溜め込まなければ苦しさを少しでも和らげることが可能になる、ということだ。
「行きましょう」
母は決まってそれを無視した。当時の私が、その意味を理解するにはまだ知識が足りなかったので私は頷いて彼女に続いた。一般よりもその年頃にしては多分知識が浅い方だったと思う。だが、それは環境が環境のためであって仕方の無いことだったと解釈している。
「はい。母さん」
味方は母だけだった。母しか、己の世界の中で存在してはいなかった。父はおらず他はただの背景の1部でしかない、そう信じて疑わなかったのだ。細い腕を掴んだ母の手も細々く弱々しいものだったのは記憶に残っている。だが、足早に去ろうとする母を見るのも何故か知らないが心がざわついたのものだ。
「リィバイアサン!!」
悪魔はどちらかと言えるほどに彼らの表情も歪んでいたのだった。
時代を考えて彼らに歪みが生じることは決してありえない話ではない。それは、理解していた。しかし、自分だけが何故そういう扱いを受けていたのかは疑問に思う日々だった。
年は過ぎた。何も知らずに10歳になった時、母は死んだ。呆気なく病死した。不思議と彼女が衰弱していく姿を傍でじっと眺めていても何も感じなかった。それは私に何かが欠落していたからなのだろう、とそう感じた。
「リバイアサンの呪いだ。アイツの母親は死んだ。呪いで死んだんだ、だってアイツの家系は」
風当たりは徐々に強くなった。
「悪魔なんだからな!」
口を開けば揃って同じことを吐き出す。誰かを傷つけて自分の傷を癒すなど馬鹿のすること、それでも彼らが止まらないのは仕方の無いことだった。
しかし、全てを仕方の無いことで済ませるのは流石に無理がすぎていた。彼らは私を映さなかったのだ。映していたのは本物の悪魔だけであり、私という1人の人間はそこに存在していなかった。
知った。なぜ、自分が腫れ物扱いされていたのか。
知った。なぜ、自分だけは他の人達のような1人の普通の人間として生きていられなかったのか。
知った。私は悪魔であったことを。
「リバイアサンッ!リヴァイアサンッ!リヴァイアサンッ!」
歌は出来た。こちらの準備も知らずして出来ていた。そして私は。
私という存在を、もう1人の私に乗っ取られた。
そこからの記憶はほとんどがない。ただ、聞こえたのは悲鳴と人間を壊していく音。血肉が混ざりあった嫌な匂いは鮮明に記憶され。見えたのは、彼らの恐怖に怯えた表情と憎悪に満ちた表情。自分が自分であることを忘れた。私はこの両手で沢山の命を奪っていたのだ。理性を失い狂人となった私はもはや人間ではなかった。短剣は血色に染まり果てて誰彼構わず斬っていった。
傷つくことも理解せず、ただ闇雲に暴れ回った。結果、オルグレイの人々は死んだ。
私はその血痕と背中合わせで誰にも知られずに息をした。
リヴァイアサンは神が造り出した天地創造内における1つの悪魔であり、海中に住む巨大な怪物と言われている。だがそのリヴァイアサンもいつしか、姿を暗ましてその存在も忘れられてきているのだった。だが、これはその直系に当たるトオリという少女が起こした大規模な事件であり事故である。それは1つの悲しみの渦が飲み込んだ一種の光矢であるに過ぎない。トオリは血溜まりの中に立った。
とぼとぼと歩いた帰路はなんとも寄らぬ虚無感を与えるのだった。
自分の存在意義を知りたい。なんのために私は生きていたのか?目的がない私にこれから何をしろと言うのだろう。
ズルズルとしゃがみ込んだトオリはもう立ち上がる気力もなかった。小さく蹲って誰かに気づいてもらいたかった。悪魔に間違いはなかった。だから、母も悪魔と言われたことを無視して一生懸命生きていたのだ。誰もが秘密を持っている。そしてそれはどれほど、当人を傷つけたのだろうか。
下を向いて、息を殺して。何かを待った。
だが、神は私に目的を与えてくれたらしい。漆黒な髪の少女はそこに降り立ち私に向けてこう言うのだ。
「君はこんな所で何をしているのかしら」




