第37話 ご令嬢は悪役たるもの
今は昔より、どこの世界でも魔王と呼ばれる存在は、その最後において勇者と相対すると相場が決まっている。
それを人は伝統と呼ぶ。
この世のものとは思えぬ光景の中で、魔王は勇者に選択を迫るものなのだ。
世界の半分か死か、そのいずれかを突きつけるのだ。
勇者は服従を峻拒し、助けを待つ姫のため力尽きそうな身体を奮い立たせ立ち上がる。
これこそが、伝統である。
それこそが、あるべき姿であるはずなのだ。
故に、今繰り広げられている光景は物語の破綻を意味し、だからこそ可能性を見出だせる光景だった――
異界と化したベールの内側。
極彩色の光に包まれ、あらゆる景色が歪んだ世界。
魔王アルヴェルト・シュナイダーと対峙するのは、名すら忘れ果てた小鬼族の王。
そして、それを取り巻く無数の――魂を操られ傀儡と化した――小鬼族と攻城用弩群。
語るまでもなく、そのいずれもが矮小で脆弱な存在に過ぎない。
本来は魔王という存在と対峙することすら叶わない、吹けば飛ぶような有象無象に過ぎないのだ。
しかし、今――この最終局面において、こうして魔王と相対するのは、この最弱の群れである。
そこには正義も決意も……悪意すらも無い。
ただその場に横たわるものは、歪んだ義務感。
終わらせなければならない、などという原点すら喪失した願いでしか無い。
そのような空虚な意志に、魔王という最強種が遅れを取るわけがないのだ。
無論、本来であれば、と但し書きが必要になるが。
傷つき倒れた仲間を庇うため――無数の矢を防ぐため、魔王は枯渇寸前の魔力を振り絞り魔法障壁を維持することに専念している。
性根が優しい魔王は、必要とあれば身を挺してでも彼らを庇うだろう。
その光景は、あらゆる側面において決して魔王が取るべき行動ではない。
そんなことは魔王とて理解している。
だが、現状ではそれ以外の行動が取れぬ状況にまで追い詰められていた。
常であれば世界樹から供給されていた魔力が消え失せ、自前の魔力すらも濃密な結界の瘴気に奪われ続ける状況で、他にどのような行動が取れるだろう。
実際のところ、魔王が味方を見捨ててでも断固として攻撃に転じたなら、恐らく彼らは既に全滅していた。
この結界は、とどのつまり弱者のための力だ。あらゆる超常を拒絶する意志の表れである。人ならざる力を拒否するが故に、内部で発生する魔法全てを減衰する効果があるのだ。
魔力を消費し続けて維持するタイプの魔法でもなければ、敵に到達する前に掻き消えていただろう。そしてその隙を狙い、人間程度の防御力しかない魔王に槍のようなサイズの矢が雨あられと降り注ぐ。
この結界内における最適解は肉弾戦ないし魔法以外の遠距離攻撃に他ならないが、残念ながら魔力に依存する者――人間や小鬼族のような弱小種族以外――であればあるほど、その選択肢は非現実的になっていく。
つまるところ、魔力を奪えば並の人間程度の性能しかない魔王にとって、この状況に陥った時点で敗北は決まっていた。
小鬼族王は永い時の果て――ただの一度の勝利すら無い繰り返しの最後に、無感動なまま……しかしはっきりと勝利を確信する。
そこに喜びは無い。
ただ、安堵に似た何かを思い出しただけだ。
『――間断なく撃ち続けろ』
小鬼族王の少年のような顔に配置された口から、虫の羽音のような、しわがれ乾ききった声が聞こえる。
淡々と紡がれる――些か抑揚に欠ける死刑宣告を聞きながら、アルヴェルトは舌打ちと共に思考を巡らせる。
果たして打開する術はあるだろうか、せめて脱出は可能だろうか、と。
答えは見つけられなかった。
元来、彼は工夫をするタイプではあるが、それはあくまでも魔法使いとしてのそれであり、魔力の存在が根底にある。
如何に魔力が尽きる前に戦いを終わらせるかが肝であり、大前提である魔力が枯渇する前に離脱できていない時点で、それは既に敗北と同義である。
仮に今から逃げるにせよ、十人もの男を抱えては不可能だ。
勿論、彼に一人で逃げる選択肢は無い。
それが凡庸であり、人の良い――矛盾だらけの魔王が示す限界であった。
「くそ……隙が、見当たらん」
これまでなのか、そんな弱音が聞こえてきそうな表情のまま、アルヴェルトは天を仰ぎ見る。
絶え間なく揺れ動く色彩の向こうに、白い翼を見た気がした。
アルヴェルトは確信する。
追い詰められ、いよいよ以って幻覚が見えたのかと。
そうでもなければ、死の間際に見るという天の使いという奴だろうか。
どちらにせよ碌なものでは無いな……とまで考え、目を凝らす。
「あれは……」
幻覚では無い。
そう気付き、呆けたように極彩色の天井を見上げる。
その一連の隙を小鬼族王が見過ごすはずがなく、一気呵成の攻撃をしかける――はずだった。
しかし、小鬼族王は動かない。
それどころか、彼もただ一点を見つめていた。
それまで感情の欠片も無かったような顔に、呆然としたような、それでいて喜色ばんだような表情を浮かべながら、魔王と同じく天を見上げていた。
やがて小さな白いシルエットが勢いを増して大きくなり、鋭利な角度のままに結界に突き刺さる。
硝子が飛び散るように、極彩色のベールの一部に穴が穿たれた。
その光景とは裏腹に、鳴り響くような音は聞こえない。
ただ静かに、しかし地面に衝突するような勢いを以って、白色の龍が舞い降りた。
大地に降り立つ寸前、勢いを殺すためにただ一度だけ翼を大きく羽ばたかせた音だけが、決戦場に響く。
「ッ……何故!」
最初に再起動したのはアルヴェルトだった。
白色竜から降り立った彼女の姿に驚愕を覚えながらも、疑問を口にすることができた。
「助けに来ましたのよ」
当たり前のように不自然な事実を言い放つ令嬢――セレスティーナの表情は、いっそ朗らかにさえ見えるものだった。
事実、その心中は複雑に入り組んだ背景を持つ者にしては、迷いが無いといっても過言ではない。
吹っ切れていると表現しても良い。
あるいは、諦観の一種かもしれない。
皮肉な話だろう。人間の滅亡はおろか、魔族や亜人の困窮すら否定した力無き少女が、人間の苦難を糧に、世界滅亡の危機に対峙する権利を得たのだから。
これを皮肉と呼ばないのであれば、何と呼ぶべきか。いっそ喜劇だろうか?
そんな考えを振り切り、セレスティーナは苦笑を浮かべ、当然の如く――いつもの如く、周囲の驚きを捨て置き歩みを進めた。
その歩みを止めるものは無い。
誰しもが呆然とし、矢の一本すら飛んでくることは無かった。
そして、遂に対峙する。
『セレ……ナ』
小鬼族の王――空っぽの男が、咄嗟にそんな名前を口にした。
それはきっと奇跡的に何かを思い出した訳ではなく、こびりついた欠片が反射的に反応したに過ぎない。
何故なら、小鬼族王の顔には、やはり何の感情も浮かんでいないのだ。
「……」
それでも令嬢は表情を歪める。
もう覚えてすらいない他人の残滓が苛む。
そんな錯覚を抱いた。
「――アナタの負けですわ」
『…………あぁ』
策を弄する者はとして、互いに理解できる事実がある。
小鬼族軍の行動その全ては、難敵の事前排除を目的としていた。
理由など考えるまでもない。
それ以外に勝てる道筋が無かったのだ。
つまるところ、策以外に頼るべきものを持たない小鬼族王にとって、この状況に陥った時点で敗北は確定していた。
「一応お聞きいたしますが、降伏をする気はございまして?」
無言で首を振る小鬼族王に頷き、令嬢は腰の剣を抜き放つ。
「何か言い残すことは?」
『――…………』
彼女にしか聞こえない声で、かつて後悔を抱いた男は何事かを呟く。
「……わたくしを恨みなさい。救うことの出来ない、わたくしの無能さだけを呪いなさい」
躊躇いなく勇者たる彼女は剣を振るった。
最後に聞こえた言葉を、一人胸に秘めたままに。
こうして世界滅亡を巡る戦いは、呆気なく唐突に終わりを迎えた。
勝敗も何もかもが曖昧なまま。
激闘の末の勝利や美談めいた結末など必要ない。
少なくとも、彼女はそう信じることにしたのだ。
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結界内の戦闘が終結した直後、小鬼族王の支配を失った軍勢は糸が切れたように戦闘を停止した。
何事が起きたか察した地母龍の停戦命令によって、全軍の戦闘が中断し――なし崩し的にそのまま戦争そのものがあやふやに終わった。
小鬼族の多くは虚脱状態に陥っており、真っ当な交渉相手も居ない状況で、連合軍首脳陣は両軍の処理に追われることになった。
そして、感慨や感傷を抱くタイミングを失ったまま、彼らは戦後処理に追われる多忙の日々を送る。
ようやく概ね急ぎの案件を片付け、一息つけたのが七日目――つまり、今現在である。
「――やっと終わったな」
それだけで並の樹木の幹ほどの太さはある世界樹の枝の上で、感慨深げに魔王――アルヴェルトは沈む夕日を眺める。
勿論、その隣には令嬢――セレスティーナが座っている。
「何がですの……?」
茜色の夕陽に物悲しげな表情を見出してしまうのは、彼女の心境の表れなのだろう。
馬鹿馬鹿しい話だ、と彼女は笑う。
この状況を作り出したのは自分だというのに、何を感傷に浸る必要があるのだ。
そして何より、己にそのような権利はないと断じた。
「何がって……戦争だよ。やっと明日には終戦協定を結んで、全てが終わりだろう」
現状を端的に表現するなら、アルヴェルトの語る通りだった。
主要国家のほぼ全てを巻き込む協定により、長年続いた人間と魔族の戦争すら明日には終わる予定である。
小鬼族の暴走による各国の致命的なまでの国力低下、情勢不安、治安悪化……これらの問題を解決するためには、種族間でいがみ合っている場合では無いと誰しもが認める状況なのだ。
魔族排斥派の主力であったゴトフリード王国を中心に、幾つかのタカ派国家が壊滅的な被害を受けたことも相まって、終戦に向けた話は驚くほどスムーズに進められた。
故に、今こそが最たる機会である。
「馬鹿ですのね。まだ終わってはいませんわよ」
いっそ塞ぎこんで引き篭もってしまいたい心境を胸の奥底に封じ込め、セレスティーナは立ち上がる。
「むしろ、これからが本番ですわよ」
「おい……どういことだ? 嫌な予感がするぞ」
意味深に笑う彼女を見て、アルヴェルトはため息を吐く。
「まぁ……なんだ。何を企んでるかは知らんが、一人で抱えこもうとするなよ。頼りないだろうが着いていてやるから、好きにすれば良い。もうお前をどうにかできるとは思わんし、何より――」
そのほうが似合ってる、という言葉で物語は締めくくられる。
後に彼女は、世界維持機構なる全国家を傀儡とし得る組織を設立し、半ば強引に全人類種を支配下に置くことになる。
歴史書の多くは、彼女のことを独裁者としての側面を強調して記載している。
魔族の統合を果たし、人間の滅亡を防ぎ、どさくさ紛れに全人類種の大同盟を作り上げた立役者でありながら、彼女は傲慢な支配者として名を残すことになった。
無論そこに多くの事実が在り、必ずしも不当な評価であるとは言い切れない。だが、最も大きな要因は彼女自身がそう印象付けるように行動したからに他ならない。
激動の変革期において、強引なやり口は反発を生むとしても有効であったし、独裁者は国家が安定した段階で不要になることも彼女は見越していた。
だからこそ、彼女は出来うる限りの不平不満を自身に集め、己が不要だと判断できるタイミングで追い落とされることを選んだのだ。
彼女は表舞台から消えるその時まで、徹頭徹尾……悪役を演じきったのだ。
彼女らの働きによって、この世界に一時の平和が訪れた。
世界がリセットされ得る問題は一切解消されていないが、それは致し方がない話でもある。
どのような世界であれ、明日も滅ばない保証は無いはずだろう。
恒久的な平和など幻想でしかないが、少なくとも暫くは平和が続く。
人ひとりがもたらせる結末としては、そのくらいが限度なのだ。
一つの物語は終わりを迎えたが、この世界は今日も回っている。
未だ見ぬ、未来に向けて。
願わくば、この歴史が再び潰えぬことを――
なお、後に彼女らの子のうちアルヴェルトに似た勇者と、セレスティーナに似てしまった魔王を継いだものが、世界を巻き込む兄弟喧嘩を始めたが、それはまた別の話である。
これにて完結となります。
ご高覧頂き、誠にありがとうございました!




