第53話
前話の投稿からずいぶんとブランクがあいてしまいました(^^;;
ここまで長々と引っ張ってしまったんですが、これからはもう少しスピードアップした展開になる予定。
「ねえ、さっきの声のことなんだけど」
それまでずっと黙ってレスターについてきていたマーシャが、急に立ち止まった。
「声って、さっき追いかけてきたヤツのことか?」
「うん。あの声ね……私、どこかで聞いたことがあるような気がする」
「まさか、きみの知り合いだなんて言わないでくれよ?」
マーシャがレスターをちらりと見上げた。
「そこまでは確かじゃないわ。聞き覚えがあるように思えるだけ」
それからマーシャは目を閉じて、うーん、と言いながら、首をひねる。
レスターは今来た廊下を振り返り、がらんとした空間をながめた。
実験棟の廊下はひっそりとしていて、異常事態を示す警告音もなければ、赤いライトも点滅していない。レスターの前方、左右の三方向に分かれて伸びる廊下の先にも、人の往来はまったくない。
不審者の侵入があったのだから、館内はもっと騒然としていてもいいはずだが――ここは、普段どおりに落ち着きはらっているようだ。
マーシャが声の主をつきとめたい気持ちもわかるが、それより、レスターは誰かがいる試験室に早く戻りたかった。ひと気や音のなさすぎる場所は、どうにも落ち着かない。
「マーシャ。それは、あとでゆっくり思い出してくれればいい」
レスターがマーシャの肩を軽くたたくと、彼女は目を開けた。すると、その瞳の片隅で、小さな赤い点のようなものが一つ、きらりと光る。
不思議に思い、レスターは後ろに振り返ってみた。
何だろう、ついさっきまで何もなかった廊下の奥に、ぼんやりとした灰色の煙のような影が浮かんでいる。
ぼんやりとした影はだんだんと形をとっていき、レスターが目をこらしてみると、それはどうやら――人だかり?
レスターが戸惑いながらも見つめていると、その灰色の影の上から、赤い光が降りてきた。そして、その赤い光は通路全体にあっという間に広がり、いつのまにか、点滅する警告灯のライトに変わっていく。
その直後、大勢の人の話し声が、それぞれはっきりとした意味をともなって、レスターの耳に次々に飛び込んできた。
「……マーシャ!?」
また彼女が消えたのでは、とレスターが慌てて振り返ると、彼女は変わらずそこにいた。そして、マーシャもどうやら動揺しているようだ――ということは、彼女が見ているものも、きっとレスターと同じ。
その後すぐ、マーシャは何かに気を取られたらしく、息をのんだ。レスターがマーシャの視線の先を追うと、人だかりの中から誰かが抜け出し、こちらにまっすぐ走ってきていた。痩せた、金髪の女性だ。
「ハイディじゃないか!」
レスターが叫ぶと、走っていた彼女が立ち止った。
レスターが一歩踏み出すと、ハイディはさっと後ろに振り返る。
「どうしたんだ、あっちに何があるんだ?」
レスターがハイディの後ろを指さすと、彼女もつられて振り向いた。それからレスターに再び振り返った彼女は、どことなく、何かに怯えているようにも見えた。
「……レスターなの?」
ハイディはレスターの視線を避けるかのように、レスターの横に立つマーシャを見た。
「あなたはマーシャ……よね?」
マーシャは彼女に頷いたが、その後、レスターに困惑した顔を向けた。
「マーシャが一緒にいるんなら、あなたはやっぱり……」
「今、マーシャを迎えに行ってきたんだ。俺がいない間に、こっちでも何かあったみたいだな。何があったんだ?」
ハイディはレスターが伸ばした手を避けるように一歩さがった。
「ハイディ?」
彼女が青ざめて震えているのを見て、レスターはますます不審に思う。
「ハイディ、どうしたの?」
ハイディはマーシャを見ると、今にも泣きそうな表情に変わった。
「じゃ……どういうこと? あれが、あの人があなたじゃないのなら――」
突然、ハイディの声がそこで途切れ、レスターの目の前に暗闇が広がった。と思うと、足元にある地面がななめに傾いて、レスターの体は勢いよく滑り落ちていく。
**
ハイディによると、試験室で事故があったのは、彼女が廊下でレスターとマーシャの二人に出くわした、数十分前のことだ。三人が、真っ暗な空間に閉じ込められる少し前。
暗闇の中に落とされる直前にレスターが見た人だかりは、騒然とした事故現場で収拾にあたる人たちだったのだ。その中には、レスター自身もいたのだという。ハイディは、そのレスターから事故の話を聞いたのだ。
つまり、別々の時間が同じ場所で混在していた、ということになる。
その事故は、ハイディに事前に聞かされていたとおりに、レスターのいる試験室で起こった。
試験室の壁の中からいきなり現れたのは、旧型の時空移動機だ。それが姿を現すと同時に、試験室とレスターたちのいる機器室の間を隔てるシールドは、小刻みに振動し始めた。衝撃波だ。
危険がないことは、レスターはあらかじめ知っていた。だから、怖くはなかった。ただ、室内は急激に高温になり、その温度を下げようと一斉に動き出したシステムのせいで、試験室は蒸気で真っ白に染まっていった。
真っ白く変わった室内を見ていると、レスターには、それが現実とは思えないような、でも、どこか懐かしい情景とさえ感じられた。
これは、ただの既視感――?
「早く外に出ろ!」
仲間の手に引っぱられて外へ逃げ出す直前、レスターは振り返り、室内にもうもうと立ちこめる白い煙のような蒸気を見た。
すると、目の前の光景が大きく揺れ、上から二つに裂けるような、おかしな感覚を覚えた。さらには、その向こう側に、同じような白煙に覆いつくされた部屋が現れた。その床には、二人の人間が倒れている。
レスターには、その二人のうちの一人の外見に見覚えがあった。その男の髪や体格、服装まで。
いや、見覚えというより、もっと確かな記憶。
口の中にわきあがってきた煙のような臭いに、レスターは戸惑う。
記憶をたどれば、レスターが煙に包まれたことがあるのは、過去に一度きり。まだ学生だったマーシャが、一時的に行方不明となった事故のときだけだ。
数年前の当時、今回と同じように、無人の移動機が戻ってきた部屋は高温になり、熱い蒸気で真っ白に変わった。機体が焦げる臭いが充満していた。
そのすぐあと、レスターは吹き飛ばされ、床を転がったのだ。まさに、レスターが、割れた世界の向こうに見た光景だ。
「レスター? おい、大丈夫か?」
仲間の声にレスターは我に返り、窓に映る自分の顔が青ざめていることに気づく。
実験室の方を見てみると、いつのまに下りたのか、安全シャッターがその先の視界をさえぎっていた。それはまるで、そこが、現在と過去の境界線だとでもいうように。
レスターが割れた世界の向こうに見たもの。
それは、煙に巻かれ、床に倒れていた、過去を今生きているレスター自身だ。
過去と現在が隣り合わせで存在することに、レスターはそれほど驚きもしない。
というのも、レスターは今回の事故に遭遇する直前に、マーシャやハイディと一緒に、ほんの少し先の未来から戻ってきたばかりだからだ。厳密に言えば、三人が落ちた不思議な暗闇――どの時点でもないグレーゾーンの空間――を経て、未来から現在に戻ったのだろう。
それと同じように、過去・現在・未来のどこでもない時間帯が、あの試験室でレスターが見た、歪んだ光景にあったのだ、たぶん。それに、レスターとマーシャが不気味な何かに追いかけられたあのときも、実はグレーゾーンの時間だったのかもしれない。
そして――その過去と現在が交差した接点には、無人の時空移動機が介在している。
事故の知らせを聞いて集まってきた人たちの中には、マーシャもいた。彼女はレスターに会うと肩をすくめ、同情したように笑った。大丈夫よね、という彼女の口ぶりは、彼女が、レスターと同じ時間を経験してきたマーシャだと言っている。
レスターは、彼女の顔を見ながら、事故機に乗っていたはずの人間はどこに行ってしまったんだろう、と考える。
それは、現在と平行して存在する過去の世界で事故にあったマーシャ?
だとしたら、彼女は途中でどこかに振り落とされ、ここに機体だけが流れついてしまったということか。
それとも、それは、レスターたちが昨日から追い続けている、正体不明の生命体?
一方、ハイディは、レスターの姿を見るなり、あからさまにほっとした様子を見せた。レスターの隣に立つマーシャも事故に居合わせたと思い込み、けがはなかったかと尋ねている。
レスターの予想どおりだ。つまり、ここにいる彼女は、レスターやマーシャとは違い、平行して存在する別々の世界の間を、まだ経験していないハイディだ。
それから、これもレスターの想像だが、レスターとマーシャがここに早く戻ってこられたのは、ハイディが一緒にいたからだ。
ハイディは二人とは違い、本来の時間だけに生きている。それがたまたま、何かのはずみで二人に引きずられ、時間の歪みに一緒にはまってしまったのだ。
そこでは、三人の携帯がすべて使いものにならなかった。途方にくれていたのだ。だが、あるタイミングで、ハイディだけが本来の世界からかかってきた電話を受けることができた。その繋がりこそが、異なる二つの時空の接点となって、三人全員が元の世界に戻ることができたのだろう。
だから、ここにいるハイディには、今から、この廊下の先で『時間に迷っている』レスターとマーシャに出会ってもらう必要がある。
「ハイディ、ちょっと頼みがあるんだ」
レスターはハイディを呼び、事故の説明をして、急ぎの用事を頼んだ。
彼女には、二人を『ここに』連れ戻してもらわなきゃならない。
**
事故の報告をレスターに求めたのはウッズなのだが、彼はすでに当時の映像やデータを見て、全容を知っていたようだ。
「とにかく、今回の件で人的被害が出なくてよかった」
レスターの報告をろくに聞きもせず、ウッズはそう言った。
もっと詳しい内容が知りたいのかと思い、レスターが再び口を開くと、ウッズに素早くさえぎられた。
「そんなことより、実験棟で発生したあのマイクロ・ブラックホールには、きみが関わっているんじゃないか?」
レスターが唖然とすると、ウッズは眉をひそめてレスターを見返した。
「皆は、ナイトメア・ブラックホールのせいで、そいつが偶然ここにも混入したと言っているがね。私はそう思ってはいないよ、レスター」
「何だって?」
ウッズの言うマイクロ・ブラックホールのことをレスターが知ったのは、事故の数時間後だ。そして、その数分後には、実験棟の一部で停電が起きたらしい。それが、レスターたちがあの歪みに閉じ込められるきっかけになったのかもしれない。
「ハイディは、きみたちと不思議な体験をしたらしいじゃないか」
「要するに、何が言いたいんだ、ウッズ?」
レスターがむっとして問い返すと、ウッズはいっそう目を細めて、レスターを見返した。
「きみが私の許可なく危険な行為をするとは思わんが、一応聞いておきたい。まさかとは思うが、きみは……マイクロ・ブラックホールをわざと引き寄せたんじゃないだろうな? そいつを利用して、タイプDを呼び戻そうと考えたんじゃないのか?」
レスターは再び唖然とした。ウッズが言った方法は、素人でもわかる、あまりにも無謀な賭けだからだ。
ウッズの不信そうな視線に出合うと、レスターはまたさらに呆れた。
「俺が……おい、冗談だろ」
冗談だ、とウッズが笑うことを期待するが、彼の硬い表情はいつまでも崩れない。
レスターは大げさに深いため息をついてみせたが、それでもなお、ウッズの態度は変わらなかった。
「ウッズ、俺だって命はまだ惜しいんだ」
「そうは言うが、例の彼女がそばにいれば、大丈夫なんだろう?」
レスターはウッズの確信に満ちた表情を見て、もう一つため息をつく。
「いや、それとこれとは――」
「とにかく、今回の件では人的被害がなくてよかったな」
一方的なウッズの口調が、レスターには腹立たしい。
ところが、このとき、レスターは直感的にわかってしまったのだ。これまで行き詰まっていた問題に、不愉快だがはっきりとした答えが見いだせたことを。
ウッズのオフィスから出たところで、レスターはハイディにばったり出会った。なんとなく気まずい雰囲気の中で、先に口を開いたのはハイディだ。
「あの、さっき、ちょっと聞いたの。私は昨日の検査で何の問題もなかったけど、あなたと彼女が……昨日からずっと、医務棟にいるんだって」
「ああ、まあね」
ハイディに細かい事情を説明する気はなかったので、レスターは愛想笑いを向ける。
実際のところ、レスターとマーシャは検査なんかしていない。
レスターは、マーシャをほかの皆から隔離し、彼女のいる環境を監視しているだけだ。そうでなければ、あの正体不明の生き物にまた遭遇し、連れ去られてしまうかもしれない。あの生き物に対して、シールドは何の役にも立たないから。
レスターのそっけない答えに満足できなかったのか、ハイディはぎこちない笑顔を向けた。
「大丈夫……なのよね?」
ハイディの細い指が彼女自身の腕をぎゅっとつかむのを目にして、レスターは、時空の歪みに陥ったとき、彼女の震える手につかまれたことを思い出す。さらには、不安がる彼女を腕の中に抱いたことも。
それは、気の弱いハイディに関わるのは面倒だと思いながら、泣かれたら煩わしいと考えたせいだ。今もまた、困ったように眉を下げる彼女を前にすると、レスターはすぐにでもこの場から立ち去りたい気分になる。
それでも、ハイディがいたから、レスターやマーシャは結果的に助かったわけだ。レスターは、彼女を腕に抱いていたおかげで、マーシャの瞳が作り出す、また別の世界の中に引きずりこまれずにすんだのだ。
そう思い直し、レスターは彼女に笑うことにする。
「ああ、心配いらない。念のために、細かく検査してるだけだから」
ハイディが頷き、笑った。事故のあと、彼女がレスターを見つけ、ほっとしたときとまったく同じ表情だった。
最後まで読んでくれて、ありがとう~
だんだんと核心に近づき、話がややこしくなってます。
私の力量不足で内容がわかりにくいところがあったら、できれば、メールでご指摘くださるとありがたいです!