エピローグ 美月と伊織
私は、キーボードから手を離して、座ったまま両手を広げ、大きく背伸びをした。
「……やっと納得」
キッチンに向かって、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。ぽこぽこという音に混じって、挽きたてのコーヒーの匂いが漂った。
立ったままコーヒーのでき上がりを待った。目に入るのは、リビングの中央に置かれた小さなテーブル。その上にあるノートパソコン。
モニターには、テキストがいっぱいに並べられ、その最後に『完』の文字が添えられていた。
そこに書かれているのは、五百城美月を主人公にした恋物語。
いったい何度書き直したのだろう。
私が描く美月は、いつも必ず誰かの人生に寄り添ってしまう。
何度書いても、いつの間にかヒロインに収まってしまう。
コーヒーが入った。サーバーからマグカップに注ぎ入れる。湯気と共に、その温もりと香りを感じる。
マグカップを持ったまま窓際に行き、カーテンを開けた。日はとっくに落ちていて、窓の外には雲ひとつない夏の夜空が広がっていた。
――これでやっと、美月が主人公になれた。
私は、勝手に進んでいく人生に、いつも受け身だった。歳を重ねるごとに、選ばされていたことに気づいていった。
初めて自分で選んで始めたのが、小説の創作だった。
けれど、習った書き方は、まるで私の半生そのものだった。
キャラクターは記号。分かりやすい予定調和。作者が操るエモーション。
私が作った世界の中で、キャラクターたちが設定通りに動く。
先が読めてしまう物語が好きではなかった。
ガチャリ
。
玄関の鍵が開く音が聞こえた。夫だ。
足音が遠ざかっていった。洗面所に顔を洗いに行ったのだろう。
私はテーブルの上のノートパソコンを閉じ、夫のマグカップにもコーヒーを注いだ。そこに少しの牛乳を加える。
リビングのドアが開いた。三十代半ばの夫が顔を見せた。
「ただいま」
「伊織、おかえり。コーヒーのむ?」
私はそう言って、マグカップを夫に差し出した。
「ありがとう、美月」
夫はそう言って、マグカップを受け取った。
「ごはんは?」
「結局、食べる暇なかってん。なんかある?」
「大丈夫。適当でいい?」
私はキッチンに戻り、冷蔵庫の中身を確認する。
「ほんまに適当でええで」
夫は窓を開けて、ベランダに出た。手すりに寄りかかって、夜空を眺めている。今日は新月。夫はきっと、蠍座を探している。
その度に、私の心は少しだけ痛む。
あの時こうしていればと、もしも話ばかりが頭に浮かぶ。
本当の人生は、物語とは違う。頭に描いたようには進んでくれない。
転生なんてできないし、魔法なんて使えない。小さな少女が、身体より大きな剣を振り回すことなんてできない。
物語を書くことは、自分ができなかったことを、キャラクターたちに預ける行為なのかもしれない。
ベーコンとアスパラを刻み、フライパンで炒める。ジュッという音と共に、油の匂いが部屋に充満する。
夫の顔はずっと、南東の空を向いている。その理由を彼にたずねたことは一度もない。
幼子の泣き声が寝室から聞こえた。
私は一旦火を止めて、ベランダの夫に言った。
「伊織、ごめん。あと自分でやってくれる?」
「あ、おけ」
夫は部屋の中に入って、キッチンへと向かった。私は、急いで階段を上がり、寝室に向かう。ダブルベッドの横に、小さなベビーベッドが置かれている。
覗き込むと、そろそろ一歳になる娘が泣きながら、私に手を伸ばしてくる。私は娘を抱きかかえて、軽く上下に揺らす。
私は高校時代の同級生と付き合って、そのまま結婚した。苦労はしたけど子供も授かり、不満のない人生を送っている。
でも、不満がないだけだ。
だから、物語に自分の夢を載せようと思った。
ストーリーを決めずに書いても、個性あるキャラクターたちは紙上で勝手に交錯し、それぞれが性格に合わせて動いていく。
自分で描いているはずなのに、キャラクターたちはまるで生きている。
勝手に予定調和が作られて、勝手にストーリーが進んでいく。
私は、そこにほんの少しだけ、いたずらをする。屋上の扉の鍵を開けてみたり、イベントを追加したり、登場人物の配置を変えてみたり。
するとまた、違う調和が生まれて、違うストーリーができ上がる。
キャラクターたちは、その中で、きっとそれぞれに考えて生きている。
だから本当は、キャラクターの数だけ、一人称の物語が折り重なっている。
私が描いた美月の物語の中で、伊織は何を見ていたのだろう。
「美月はどうすんのー? 一緒に食べる?」
夫がキッチンから大きな声で聞いてきた。
「食べるー」
私は幼い子を抱えて、階段を下りていった。
ドアを開けると、ベーコンの焦げた匂いとペペロンチーノの香りが、フワッと顔の周りを覆った。




