第三十四話 夏休みが始まってしまった
夏休み初日、朝の八時。俺はすでに剣道場の前にいた。
不思議なものだ。
授業の日だと寝坊するのに、休みの日だと早起きできる。
部活まで、まだ二時間もある。
とりあえず、校庭に出て、トラックを回った。
今日は、中元がいない。俺も道着ではなくジャージ。
清々しい。
三〇分ほど汗を流して、道場に戻った。
日が少し昇ってきて、アスファルトの焦げる匂いがする。
ひとり。
解放感が気持ちいい。
俺は道具室からホースを持ってきて、水道に繋いだ。
蛇口をひねって水を出した。
ホースの先から出た水を、頭からかぶる。
「ぷっはぁ」
手のひらで乱暴に顔を拭いてから、指でホースの先を潰して水を撒く。
ジュッという音と共に、少し湯気が上がり、湿気が身体を通り抜ける。
だけど、そのすぐあとに、暑かったはずの空気が冷たくなる。
ホースを伸ばしてできるだけ広い範囲を濡らしていった。
「伊織せんぱーい。なにしてるんですかー」
中元が俺を見つけて、制服のまま走ってきた。
「おはよう、中元。打ち水してんねん」
「打ち水?」
「道場の周りに水を撒いておけば、少しは涼しくなるやん。気化熱ってやつ?」
「へぇ。なんで先輩が?」
「ん? 道場ってクーラーないやろ。熱中症とかになったら困るやん」
「へぇ。ねぇ、先輩。それ貸してください」
「ホース? ええよ」
ホースを手渡した瞬間、しまったと思った。
夏の匂いに頭がやられていた。
これは中元の手中だ。
「えい!」
ほらきた。
ホースから出た水は、俺を直撃した。
俺は、直立不動で立ち続けた。
「あれ? びっくりしないんですか?」
「こんなもん、完全に予定調和やろ」
「えー、つまんないです」
「こら! やったなぁ! とか言うて追いかけて欲しかったんか?」
「そうです」
「やらへんで」
「んむー」
中元が頬を膨らませた。あら、かわいい。
ホースから出る水を見ながら何か考えている。
なにかしそう。やめろ。なにもするな。
中元は自分の頭に水をかけ出した。
制服が濡れていく。下に着ていたTシャツが透けていく。
下着じゃなくて良かった。
いや、良くない。
「中元! それアカンて。透けてるて」
俺は慌てて、中元からホースを奪おうとした。
「ボフォッ」
水が顔面を直撃した。
「えへへへ」
「えへへちゃうって。誰かに見られたら、また噂になるて」
「のってこない先輩が悪いんですー」
蛇口の元栓を閉めに行こうとしたとき、清水がやってきた。
「おはよう、中元。水撒いてくれてるんか……って、透け――」
中元は清水に水をぶっかけた。
許されると確信してるんだろな、こいつ。
「中元! 俺にはかけるな。大西にかけろ」
こいつ。俺を見つけてたのか。
巻き込むな。
「……いやさぁ、中元。そろそろ終わりやって。蛇口しめるでー」
再び蛇口の方を向いたとき、背中越しに聞き覚えのある声が聞こえた。
「キャ!」
振り向いた。五百城だった。
流れ矢、違う、流れ水がかかったようだ。
「五百城先輩、ごめんなさい」
「え? だ、大丈夫。中に着てるから」
「じゃあ、先輩もお仲間になりましょー」
中元の辞書に手加減の文字は載ってないのだろう。五百城は頭から水をかけられた。
「ちょっ、ちょっと中元さんっ……」
見事に五百城も中元の餌食になった。
スカートが太ももにぴたりと張り付く。五百城の濡れ姿は目に毒だ。
俺は、蛇口の方に歩き出した。歩き出したはずだった。
腕を掴まれた。
とても、とてもイヤな予感がする。
そっと振り向いた。
満面の笑みの五百城だった。
一瞬、心臓が止まった。
その一瞬で、五百城に呑まれた。
腕を引かれて、中元の元に連れていかれた。
「中元さん、連れてきたよー」
「ナイスですー」
「うぉっ? やめろって」
ホースで水をかけられる。
中元も大声で笑う。五百城も笑う。
「ひゃぁ! きっもちいい!」
清水が俺の肩を組みにきた。
やめろ。モブに夏のCMは向いてない。
そのうち、続々と人が道場にやってきた。
中元は笑いながら、続々と水をかけまくる。
俺は、集団から離れて、その騒ぎを少し外から眺めていた。
髪の毛から水がしたたり落ちていた。
「すげぇなぁ……」
独り言だった。
「すごいよね、あの子」
声がした。横を見ると濡れた五百城の顔があった。
「なんだか、なにされても許しちゃう」
俺は、ホースを奪われ水をかけられている中元を見た。
「雰囲気ぜんぶ、もっていくんよな……」
「私にはできないなー。うらやましい」
その声は、寂しげにも聞こえた。
「そうか? 五百城は違った意味で、雰囲気ある思うけどな」
嘘でも慰めでもない。
五百城が転校してきたことで、俺の周りは完全に変わった。
「ほんとにそうなら、もう終わってるはずなんだけど……」
五百城はそう言った後、手を口元にあてた。
俺は「なにが?」と聞きたいのを我慢した。
「あ、そうそう」
「なに?」
「LINE見た? 海いこ! みんなで」
「へ? 見てない」
「じゃあ――」
五百城が何か言いかけた時、顧問の怒鳴り声が耳に入った。
「おまえらー! 水の無駄遣いをするなー!」
みんなが笑いながら、先生から逃げて、更衣室へと散っていった。
稽古が終わってから、俺と中元は、教官室に呼び出されて厳重注意を受けた。
「えへへ。先輩、怒られちゃいましたね」
中元が肩をすくめながら、いたずらに笑った。
「悪いなんて思てへんやろ?」
「はい、思ってないです」
「なんでやねん」
中元を見ると、つい笑顔になってしまう。
妹顔、おそるべし。
「怒られるのも、高校までです。わたしはめいっぱい青春したいんです」
松田といい中元といい、なんでそんなにラノベ展開したいんだよ。
「じゃ、帰りまーす。お疲れさまでしたー」
ジャージ姿の中元は、走り去っていった。
振り返りもしない。
相変わらずの俊足だ。
「はぁーあ」
ため息交じりに剣道場に戻ると、ジャージ姿の五百城が俺を待っていた。
「あ、伊織くん、一緒に帰らない? 暑いし、アイス食べにいこうよ」
一瞬、止まった。止まってしまった。夏の夕日に照らされる姿に見惚れてしまった。
足元を見て、一度だけ唾を飲んだ。
「あー、それいいな」
朝撒いた水はもうすっかり乾ききっていた。
空を見上げると、太陽がこれでもかと光を発していた。




