第一話 転校生は雨の日に来る
高校二年、四月の朝。校庭には、散った桜の花が雨に打たれて、茶色に汚れていた。
昇降口は、まだ新しい靴の匂いがした。
交わされる挨拶が、入学式の花よりも強く春を主張していた。
「春やなぁ」
俺――大西伊織は、下駄箱の前で立ち止まった。
右手には、コンビニで買ったビニール傘。左手には、紙パックのカフェオレ。
そして、今まさに俺の正面で、女子が倒れかけている。
肩のあたりまである髪が雨で少し濡れていて、手には折り畳み傘の袋を持っている。
昇降口に入ったところで、誰かの靴紐でも踏んだのか、身体がこちらへ傾いている。
次に起こることはだいたい決まっている。
俺が反射的に支えようとする。
女子の手が俺の腕に触れる。紙パックが潰れる。カフェオレが制服に飛ぶ。
女子が顔を上げる。やたら綺麗な目。
軽く謝罪。言葉は多く交わさない。
遅刻寸前のチャイム。
教室に入ると、担任が言う。
「今日は転校生を紹介する」
そして、その女子は、俺の席の隣に座る。
完璧やな。完璧すぎて、気持ち悪い。
だから俺は、半歩横にずれた。
脳内スロー再生が解除された。
女子は俺の目の前を通過した。伸ばしかけていた手を引っ込めた。
カフェオレは無事だった。俺の制服も無傷だった。
代わりに、背後で鈍い音がした。
「うおっ」
「きゃっ」
振り返ると、松田海斗がその女子を受け止め損ねていた。
松田は同じクラスの男子で、サッカー部。朝からスポーツドリンクを持ち歩くタイプの人間だ。
設定上は身体能力が高いはずなのに、今は中途半端に女子を支えようとして、結果として自分のペットボトルを豪快に握り潰していた。
透明なスポーツドリンクが弧を描き、その女子のブレザーの袖にかかった。
「あ、悪い!」
「いえ、こちらこそ……」
松田は慌ててハンカチを探していた。女子は濡れた袖を軽く押さえていた。
俺はその横を通り、下駄箱を開けた。
とりま、回避やな。
そう思って、紙パックにストローを刺した瞬間だった。
その女子が、こちらを見た。
造形は整っていた。テンプレ通りに。
怒っている感じではなかった。困っている顔でもなかった。
ただ、何か見透かしているみたいな目をしていた。
「……やっぱり逃げた」
なんや?
松田には聞こえていなかった。周囲の生徒も、雨の音と朝のざわめきに紛れて気づいていなかった。
ただ、俺にはそう聞こえた。いや、聞こえた気がした。
俺はストローを噛んだまま、聞こえなかったことにして、教室に向かった。
後ろ側のドアを開けた。
窓際の奥の席には向かわなかった。
右から三番目、後ろから二番目が俺の席。転校生が前後左右に座る余裕はない――はずだった。
朝のホームルームになり、なぜか左隣の席が空いていた。
嫌な予感しかしない。
担任の三枝先生は、いつもの眠そうな顔で教室に入ってきた。
髪もネクタイも予定通り曲がっていた。教師としてどうなのかと思うが、その雑さが許されているあたり、先生の仕様なのだろう。
先生は教卓に出席簿を置き、教室を見回した。
「えー、知ってるやつもいるかもしれないが、上川が親の都合で引っ越した」
いや、そんなん知らんやん。
「代わりに、今日からこのクラスに入る生徒がいる」
はい、来たな。
三枝先生が廊下に向かって声をかけた。
「入っていいぞ」
教室の扉が開いた。
さっきの女子が入ってきた。
袖口には、まだ薄く濡れた跡が残っていた。
松田のスポーツドリンクだ。俺のカフェオレではない。ここ重要。
女子は教卓の横に立つと、チョークを手に取った。黒板に、ゆっくり名前を書いた。
『五百城美月』
字面がもう転校生やんけ。
もう少し、名字が田中とか山口なら、まだ穏やかに受け入れられた。
「五百城美月です。よろしくお願いします」
声は静かだった。大きくはなかったのに、教室の後ろまで届きそうなほど、澄んでいた。
周囲の男子が、言葉にならないざわめきを発していた。美人だとか、かわいいとか、そういう話だろう。
ま、それは事実やな。
「転校初日に雨とは、災難だったな」
先生が五百城に軽く声をかけた。
ヒロインが転校してくるときは、だいたい雨が降る。
そういうもんや。
三枝先生は座席表を見た。
「席は……上川の席だな」
俺は手を挙げた。
ここで「ちょっと視力が落ちてきたので、前の席に移ってもいいですか」と言えば、「お前、こないだ両目一・五だったろ」と言われる。
「先生」
「なんだ?」
教室が静かになった。
「昨日から、思春期が爆発しています」
三枝先生は黙って俺を見た。いや、クラスの全員が俺を見た。
「女子が近くにおると、授業に集中できへんのです」
笑いは起こらなかった。
そらそやろな。
「……人生相談なら放課後にしろ」
「ちゃいます。成績が下がります」
「お前、葛西に失礼だぞ」
後ろを向いた。小さめリス系女子、葛西がぷっくり顔でこちらを見ていた。
こいつ苦手やねん。
五百城美月が俺の隣の席に鞄を置いた。俺は目線を黒板に固定した。先生が教室を出ていった。
左から椅子を引く音が聞こえた。
「よろしく、大西くん」
俺は黒板を見たまま答えた。
「あんま、よろしくされたないなぁ」
五百城は少しだけ笑った。俺はその笑い方にひっかかった。
明らかに拒絶した。なのに五百城は、最初から分かっていたように笑って流した。
一時間目の国語教師が入ってきた。
クラスメイトたちは椅子を引き、教科書とノートを出し、いつもの一日を始めた。
俺は横目で五百城を見た。五百城は何事もなかったように教科書を開いた。
窓際の松田が、五百城をガン見していた。
松田と目が合った。親指を立ててきた。
何の親指やねん。
俺は黒板の方を向き直して、みんなから一拍遅れて教科書を開いた。
ん? 俺、名前言うたっけ?
横目で五百城を見た。鼻筋が、やたら通っている。
――やっぱり逃げた。
俺が半歩ずれたことまで、こいつは知っていた……のか?




