第21話
問われたのは、何気ない夕方のことだった。
執務が一段落して、アレクが珍しく書類から離れ、窓の外を見ていた。秋の終わりの光が、執務室の床に長い影を作っていた。エリナは手元の資料を束ねながら、今日の仕事を頭の中で整理していた。
「一つ、聞いていいか」
アレクが言った。窓の外を見たままだった。
「はい」
「ヴァロアにいたころのことを、話せるか」
エリナは手を止めた。
婚約期間のこと、という意味だろうと思った。アレクはそういうことをこれまで聞いてこなかった。聞かないでいてくれたのか、聞く必要を感じていなかったのか、どちらかはわからなかった。
「話せます」
エリナは資料を机に置いた。
「どこから話しましょうか」
話し始めると、思ったより長くなった。
十歳で婚約が決まったこと。その日から少しずつ生活が変わっていったこと。好きだった本が棚の奥にしまわれたこと。友人との時間が減っていったこと。すべては王太子妃になるための準備として積み上がっていった十年間のこと。
アレクは椅子に座り直し、エリナの方を向いた。何も言わなかった。ただ聞いていた。
「嫌だったわけではありません。勉強は嫌いではなかった。政務の知識を得ることは面白かった。でも、それが全部、誰かのためのものとして位置づけられていた」
「クロード・レインのことは」
アレクが静かに聞いた。
エリナは少し考えた。
「好きだったかどうか、今でもわかりません。嫌いではなかった。礼儀正しい人だったし、乱暴なことは言わなかった。でも胸が高鳴るとか、会いたいと思うとか、そういう感情は最後まで育ちませんでした」
「それを、どう思っていたか」
「自分の欠点だと思っていました。愛し方を知らない人間なのかもしれないと」
アレクが少し眉を動かした。
「欠点、か」
「今は違うと思っています。あの関係に、そういう感情が育つ土台がなかっただけだと。でも当時は、そう考えていました」
エリナは窓の外を見た。空が暗くなってきていた。
「婚約破棄されたとき、悲しかったのか怒っていたのかも、よくわかりませんでした。ただ、少し楽になった感覚があって、それを感じた自分がいけないのかとも思いました」
「いけなくはない」
アレクが静かに言った。
「そうだと、今はわかります。父も同じことを言ってくれました」
しばらく沈黙が続いた。
アレクは何かを考えているようだった。エリナは急かさなかった。この人の沈黙には、いつも何かが詰まっている。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「お前は、誰かのためではなく、自分のために何かを望んだことがあるか」
エリナは口を開きかけた。
そして、止まった。
誰かのためではなく、自分のために。
頭の中を、いくつかの記憶が流れた。本が好きだった。でもそれは読んでいいものとそうでないものに分けられた。歴史が面白かった。でもそれは政務の勉強という文脈の中にあった。農村の人の話を聞くことが好きだ。でもそれは補佐としての役割の中にある。
純粋に、ただ自分が望んだこと。
答えが、出てこなかった。
「……わかりません」
エリナは正直に言った。
「考えたことがなかったのかもしれません」
アレクは何も言わなかった。批判も、同情もしなかった。ただ静かに、エリナを見ていた。
「今から考えればいい」
それだけ言った。
その夜、エリナは部屋でしばらく明かりをつけたまま座っていた。
私は何が好きなのか。
誰かの役に立つという文脈を取り除いたとき、エリナ・ヴォルフォードという人間に残るものは何か。
考えてみた。本当の意味で、初めて考えた。
本を読むこと。これは本当に好きだと思う。役に立つかどうかに関係なく、ページを繰ることが好きだ。知らないことを知ること自体が楽しい。
人の話を聞くこと。農村の老婆たちと話したとき、商人と値段の話をしたとき、自分の中に何かが積み上がっていく感じがあった。それは役に立つからではなく、面白いから、だったかもしれない。
それから——。
エリナは少し間を置いてから、正直に続きを考えた。
アレクのそばにいること。
これは誰かのためという文脈があるのかもしれない。婚約者だから、補佐だから。でも今日、あの書斎で話をしながら感じていたのは、そういうことではなかった気がした。ただ、この人と話すことが、この人の沈黙の中にいることが、不思議と落ち着く。
それは、望んでいることと言っていいのだろうか。
エリナはランプの炎を見ながら、答えを出すことなく、ただその問いを持ち続けた。
窓の外は冬の夜で、星が出ていた。




