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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第20話

 正式婚約の発表から五日後、フィンが昼食後にそわそわした様子でエリナのそばに来た。


「あの、エリナ様。ちょっとよろしいですか」


「どうしました」


「ヴァロアのことで、少し」


 エリナはペンを置いた。フィンが話すときのこういう顔は、言いにくいことがあるときの顔だと、最近わかるようになってきた。


「聞きます」


「ヴァロア王国から来ている商人伝いに、話が入ってきたんですが」


 フィンは少し声を落とした。


「正式婚約の知らせが届いてから、ヴァロアの宮廷では噂になっているそうです。婚約破棄されたエリナ様が、ランドールの宰相夫人になった、と」


「そうですか」


「それだけじゃなくて、その、色々と言われているみたいで。中には意地悪な言い方をしている人もいるようで……」


「フィンさん」


 エリナは穏やかに言った。


「気を遣ってくれてありがとうございます。でも、続きを言ってください」


 フィンが少し肩の力を抜いた。


「婚約破棄された令嬢が、すぐに別の縁談に飛びついた、という言い方をしている人もいるそうです。それと、ヴォルフォード家がランドールに取り入ろうとしているのではないかという話も。あとは……クロード殿下が祝福の書簡を送られたそうで、それを知った王妃陛下が、かなり不快に思われているとか」


 エリナはしばらく窓の外を見た。


 怒りがあるかと問えば、少しはあった。しかし思ったより小さかった。遠い場所の、遠い人たちの言葉だという感じがした。


「どうでもいいことです」


 エリナは言った。


「本当に?」


「本当に。あの人たちが何を言っても、今ここにある私の仕事は変わりません。アレク様との婚約が何であったかも、変わらない」


 フィンが少し目を細めた。


「強いですね、エリナ様」


「強いわけじゃないと思います。ただ、遠すぎて実感がないだけかもしれない」


 エリナはそう言いながら、胸の中で何かが少し軽くなるのを感じていた。


 怒りでも、溜飲でもなかった。もっと静かなものだった。


 あの宮廷に、もう自分の居場所はない。そのことが、今日改めて確認できた気がした。それは喪失ではなく、区切りだった。



 夕方、アレクが執務室に戻ってきたとき、エリナは一人で書類に向かっていた。


 フィンはすでに帰っていた。アレクは上着を椅子にかけ、机の前に座ってから、少し間を置いてエリナに声をかけた。


「フィンから聞いた」


「はい」


「気になるなら、話を聞く」


 エリナはアレクを見た。


 この人は表情を変えていなかった。いつも通りの、感情の読みにくい顔だった。ただ、言葉はここにあった。気になるなら話を聞く。短い言葉だったが、その奥にある意味はわかった。


 あの宮廷の話が、エリナを傷つけているとしたら、聞く、ということだ。


「ありがとうございます」


 エリナは言った。


「気にはなります。ならないとは言いません。でも、引きずるほどではないんです。あの宮廷は、私がいた場所ではなかったと、改めてわかったので」


「そうか」


「ただ——一つだけ」


 エリナは少し考えてから続けた。


「王妃ソフィア様が不快に思っているというのは、少し気になりました。あの方は今回の婚約破棄の件でも、静かに動いていた人です。ランドールへの影響力を使おうとする可能性はないでしょうか」


 アレクの目が、わずかに動いた。


「考えている」


「何か、動きがあれば教えてもらえますか」


「ああ」


 短い返事だったが、それで十分だった。


 エリナは書類に視線を戻した。アレクも自分の机に向かった。二人の間に、仕事の静けさが戻ってきた。



 その夜、エリナは自室で母への返事を書いた。


 先月の手紙への返事がまだ遅れていた。正式婚約の報告を兼ねて、今日の話も少し書こうと思った。


 ペンを持って、何から書こうかと考えた。


 結局、最初にこう書いた。


「お母様、正式婚約が発表されました。式典でアレク様は、私のことを綺麗だと言ってくれました」


 書いてから、少し照れくさくなった。でも消さなかった。


 母が喜ぶと思ったから。そして自分も、もう一度その言葉を確認したかったから。


 続きを書いた。アレクという人のことを、少し説明した。口数が少ないこと。感情を言葉にするのが得意でないこと。でもそのぶん、言葉の一つひとつに重さがあること。仕事に誠実で、誰に対しても不誠実な約束をしないこと。


 書きながら、自分がこの人のことをずいぶんよく見てきたのだと気づいた。


 半年前、初めて会ったときは、射抜かれるような目が怖かった。今はその目が、ただまっすぐに物事を見ている目だとわかる。感情がないのではなく、感情を大切に扱っているのだと、わかる。


 最後にこう書いた。


「歩幅を合わせてくれる人です。それが一番正直な説明かもしれません」


 封をして、明日の朝に出すよう侍女に頼むことにした。


 ランプの炎が、静かに揺れていた。窓の外は冬の夜で、空気が澄んでいた。エリナは少しだけ窓を開けて、冷たい空気を吸った。


 ここがランドールだ、と思った。ここが今、自分のいる場所だ。


 それが今夜は、少しだけ温かく感じた。


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