第1話
シャンデリアの光が、広間のすべてを白く照らしていた。
ヴァロア王国の大広間には、国内外から招かれた貴族たちが集っている。今夜はクロード・レイン王太子の二十二歳の誕生日を祝う舞踏会だ。柱には金の蔓草の装飾が巻かれ、奥の楽団は軽やかなワルツを奏でていた。香水と蜜蝋蝋燭の甘い匂いが、薄く空気に溶けている。
エリナ・ヴォルフォードは、広間の中ほどに立ってグラスを持っていた。
淡いブルーグレーのドレス。肩に沿うように整えられた薄茶の髪。胸元には細い銀のネックレスだけ。派手ではないが、公爵家の令嬢として申し分のない装いだった。
婚約者として、彼女はこうして長年、隣に立ち続けてきた。
クロードが壇上に上がったのは、夜も更けたころだった。
背が高く、金色の髪を持つ王太子は、この国でも指折りの美貌の持ち主だ。柔らかな笑みを浮かべながら、参列者の顔を見渡す。エリナも自然と彼の方へ視線を向けた。
スピーチが始まった。誕生日の祝辞への謝辞。母への感謝。国への誓い。
エリナはグラスを傾け、半分ほど残った白ワインに視線を落とした。クロードのスピーチはいつも長い。十年の付き合いで、それはよく知っていた。
だから、最初は聞き流していた。
「……この場を借りて、皆様にご報告があります」
クロードの声のトーンが、少し変わった。エリナはふと顔を上げる。
「私は、エリナ・ヴォルフォード嬢との婚約を、本日をもって解消することとしました」
広間が、一瞬静まり返った。
エリナの手の中で、グラスがわずかに揺れた。
「エリナ嬢は優れた方です。しかし、私と彼女の間に、心の通じ合いはありませんでした。私の隣に立つべき人は彼女ではない。私はそう、確信しています」
クロードの視線が、広間の一点へ向かった。
人垣の間から、一人の娘が顔を赤らめながらうつむいていた。明るい栗色の髪に、花を散らしたような笑顔の持ち主。平民出身の商人の娘、リリア・テインだ。エリナも知っていた。王太子が近ごろ彼女と親しくしているという噂は、宮廷内に広まっていた。
ただ、まさかこんな形で、こんな夜に。
「リリアこそが、私の隣に立つべき人です」
その言葉は、広間じゅうに響いた。
ざわめきが起きた。扇で口を覆う婦人たち。互いに視線を交わす貴族の男たち。くすくすと笑う者さえいた。
エリナはグラスをそっとテーブルに置いた。
震えているのは、わかっていた。指先も、膝も、喉の奥も。それでも表情は動かさなかった。十年間、感情を抑えることだけは上手くなっていたから。
視線が集まるのを感じた。哀れむような目。面白そうに眺める目。中には同情を隠さない知人の顔もあった。
エリナはゆっくりとクロードの方を向き、深く礼をした。
王族への正式な礼儀として、完璧な角度で。乱れなく、よどみなく。
それだけして、踵を返した。
広間を出るまで、誰とも目を合わせなかった。
廊下に出ると、足音だけが石畳に響いた。案内の侍女も付けずに、エリナは玄関へと歩いた。馬車を呼ぶ手配をして、外の夜気の中に立った。
春の夜だというのに、空気が冷たく感じた。
泣きたいかと、自分に問うてみた。
よくわからなかった。悲しいのか、怒っているのか、それとも茫然としているのか。十年間、隣に立つための練習をしてきた。礼儀作法、政務の補佐、外交の知識、言語の習得。すべては彼の妻になるためだった。
なのに今夜、そのすべてが要らなくなった。
馬車が来た。御者が扉を開ける。エリナは何も言わずに乗り込み、シートに背中を預けた。窓の外を、王宮の灯りが流れていった。
涙は出なかった。
ただ、窓の向こうの暗い空を見ながら、エリナはぼんやりと考えた。
私は、何がしたかったのだろう。
クロードではなく、私自身の話として。誰かの婚約者であることを取り除いたとき、エリナ・ヴォルフォードという人間に、何が残るのだろう。
答えは、すぐには出なかった。
馬車は夜の中を走り続け、公爵家の灯りが遠くに見えてくるまで、エリナはひとことも声を出さなかった。
邸の門をくぐってはじめて、目の奥が熱くなるのを感じた。それでも泣かなかった。
まだ、泣くべき夜ではない気がした。




