蛇は子守を続けるようです 2
朝日が昇り始めたばかりのまだ薄暗い森の中を、『ナイトメア・ディアー』は眼を凝らしながら移動していた。
時折耳を動かして音を気にしたり、鼻をひくつかせたりしている。
ナイトメア・ディアーは鹿の癖に肉を主食としていた。野草や木の実も食べるが、不味いうえに競争相手が地味に多いので、よほどの空腹時でもなければ積極的に食べようとはしない。
ナイトメア・ディアーの身体能力を持ってすれば、たいていの獣を、たいした苦労もせずに捕食できる。
しかし、『できる』から『やる』とは限らない。
そこは人も獣も、魔獣も同じで、楽に出来るなら楽な方法を選ぶ。
獣が待ち伏せをする様に、人が罠を張る様に、ナイトメア・ディアーは樹々を薙ぎ倒し、森の中に日光が差し込む広場を、幾つも作り上げていた。
今から向かう場所は、元からあった巨木と、その側にある巨岩が日光浴に最適らしく、トカゲやヘビが集まり易い、ナイトメア・ディアーのお気に入りの場所だ。
稀に、それらを狙うイノシシや、他の肉食動物がいる事もある。
音はあまり聞こえなかったが、匂いはした。
ナイトメア・ディアーは大きく空気を吸い、朝食の匂い、ヘビの匂いに気分を高揚させながら、その場所へと向かった。
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ナイトメア・ディアーは、巨体だが驚異的な速度で走る事ができる。しかし驚くべき点はその速度ではない。
足音を全く立てずに走り、崖の様な急斜面を苦もなく走破し、さらに細かな動きや急制動もやってのける脚力と、長時間、最高速度で移動し続ける事ができる体力だ。
細い木の枝や、走る事により発生する風などは流石にどうしようもできないが、それでも狩人として高い移動能力である事は間違い無い。
目的地の手前に到着し、ゆっくりとした動きで獲物を探すナイトメア・ディアーだったが、次第にその眼に憤怒の色が浮かんできた。
匂いというものは、意外と多くの情報を得る事ができる。
体調が悪いとか、死にそうだとか、緊張しているだとか、獣の種類によっては大きさが分かったりもする。
特に、今朝嗅いだ匂いを持つ、ヘビという生き物はそれが解りやすく、匂いが濃ければ濃い程巨大なヘビであると分かる。
複数のヘビが群れている場合も匂いが濃くなるが、その場合は匂いが複数あるかどうかで判断できる。
今回は間違いなく、単独で、巨大なヘビだ。
一匹で自分の腹を十二分に満たしてくれる大きさを持つ、そんな匂い。
しかしその匂いに変化が生じた。
嗅いだ事のあるこの匂いは、いつか食べた事がある餌が、ヘビを燃やしていた時の匂いだ。
ナイトメア・ディアーはその時も、自分の餌を勝手に狩り、あまつさえ火で燃やした愚か者に激怒し、原型を留めぬほどに叩き殺した。勿論、食べた。
今回それを上回る怒りであるのは、獲物が巨体である事、何より場所が自身のナワバリ、それもお気に入りの狩場で行われている事が原因だった。
首を動かすのを止めたナイトメア・ディアーの視線の先には、巨岩の裏から微かに立つ白い煙。
激怒しつつも足音を殺す事を忘れず、煙に向かって近づくナイトメア・ディアーは、空から降ってくるいくつかの小さな物体には気がつかなかった。
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ニグはシャードゥーマに作戦を(囮になる様に)伝えた後、その場で脱皮を始めた。
普通のヘビは成長の為に脱皮をするが、危険を回避する為に隠れ家や崖の途中等、身を隠したり外敵が接近できない場所で行う。
特にニグのように巨大に成長した個体達は、抜け殻が脱皮の際中に非常に硬く変化し、稀に脱皮を失敗して命を落としてしまう事もあるので、事前に断食をして身体を細くしたり、水場の近くで脱皮を行い表皮を湿らせる事で硬化を緩やかにするなどの工夫を凝らす。
食事をした直後、しかも火に当たりながら脱皮をするなど論外であるし、そもそもそんなにタイミングよく脱皮をする事は出来ない。
しかしニグは通常のヘビとは違い、脱皮をしたい時に自分の意思で行える。
流石に連続で行う事は出来ないが『奇妙な毒蛇』に進化してから脱皮をしていなかったので即座に脱皮をする事が出来た。
脱皮自体も、頭と尻尾の先以外に骨が無く、更に身体をある程度膨張させたり、逆に収縮することも出来るので素早く、スムーズに終わった。
脱皮をした直後、ニグは身体を地面に擦り付けて草や泥の匂いを染み付けた。
そうして匂いを偽装しながら、シャードゥーマに自身の抜け殻を火にくべるように指示を出した。
生乾きの抜け殻は火がつきにくく、白い煙が立ち昇ってゆき、煙の量が多くなってきたところで、シャードゥーマはいくつかの石を拾って巨岩の上に登った。
そうこうしている内に、ナイトメア・ディアーはどんどん近づいて来る。周囲には微かながら白煙が立ち込め始めたが、それに構わず白煙の発生源に向けて歩を進めるナイトメア・ディアーの怒りは、巨岩の上にいるシャードゥーマにも分かった。
だからこそ、死なない為に、ニグの作戦を忠実に実行した。
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ナイトメア・ディアーが巨岩に近付く速度は決して速いものではなかった。
ゆっくり近付く事が、獲物に恐怖を与えるという事を理解しているからだった。
例え怒りで荒々しい行動を取ろうとも、本能に刻まれた習性が、怒りを抑え込み、獲物に恐怖を与える為にそんな行動をとらせていた。
だから
不意に、斜め後方から聞こえた音に意識が向いてしまった事も
反対側から近付く音に気が付き意識が急速にそちらに向いた事も
頭部に急に発生した僅かな衝撃に必要以上に警戒してしまい、視線を上に向けた事も
仕方のない事だった。ただの草食動物だった祖先から受け継がれた、獲物だった彼等から受け継がれた、生き残る為の本能なのだから。
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ニグがシャードゥーマに伝えた作戦は、今の所とても上手く行っていた。
抜け殻に火を点けて匂いと煙を撒き散らし、嗅覚と、ちょっぴりだが視界を奪う。
そうして警戒しているナイトメア・ディアーの斜め後方にゆっくりと音を立てないように近付き、合図をしたら反対に石を投げさせ、直後にナイトメア・ディアーの頭を目掛けて残りの石を投げさせる。
最初の石が落ちた瞬間に全力で接近し、そのまま身体に巻き付き絞め殺す。
シャードゥーマが、『接近する時に気付かれるのではないか』と心配していたが、『少し知恵が回る獣ならば、警戒心を引き上げた後に直接攻撃を喰らわせればそちらに過剰反応を示すはずだ』と言い、作戦を実行に移した。
結果、予想通りニグの接近音に気付いたらしいナイトメア・ディアーは一瞬ニグの方に振り向きそうになったが、頭に石が当たった事で全ての意識を巨岩の上へと向けてしまった。
いつものように身体を縮め、一気に伸ばす。
まるでバネのような動作は見る者によれば不気味に、あるいは滑稽に映る事だろうが、ニグが飛び出した瞬間に驚愕の表情を浮かべるだろう。
それ程までに、その動作によって飛び出したニグは速かった。
矢のような速さで、巨岩を見上げるナイトメア・ディアーの無防備に晒されている喉に向かって飛び付いたニグは、即座にナイトメアディアーの首を締め上げ、次いで上半身に巻き付いた。
牙は恐らく刺さらないだろうと当てにはせず、最初から絞め殺すつもりで巻き付いたが、悪夢の名を持つ魔獣はニグが首に触れた瞬間に我に返ったようで、右手をニグの身体と自身の首のあいだに差し込み、左腕を持ち上げニグの身体を掴もうとした。
しかし巻き付く事を第一に考えていたニグはそれを想定しており、右腕をそれ以上動かせない様にしっかりと巻き付き、左腕は腋の下に身体を通して手を挙げた状態で固定し、可動域を狭めてろくな抵抗ができないようにした。
後はナイトメア・ディアーとニグの根性比べである。
なんとか拘束から逃れようと暴れ回るナイトメア・ディアーは必死に両腕に力を込めるが、やはり不自然な姿勢のせいで右腕はまともに動かせない。左腕も肩から下に下げる事ができないまま必死に振り回すがなんの助けにもなっていない。
暴れるナイトメア・ディアーを締め付ける力を強めながら、ニグは顔をナイトメア・ディアーの口元に近づけついく。拘束から逃れられた場合の策として、毒を飲ませようとしていた。
そうしてジリジリと時間が経ち、ニグの顔がナイトメア・ディアーの口元に充分接近した時、ニグはパカリと口を開け毒牙を剥き出し、水鉄砲の様に勢いよく毒を噴射した。
酸欠に苦しむナイトメア・ディアーにそれを防ぎ、拒む余力は無く、口内に侵入してくる毒液は食道や気管支、胃や肺にまで入り込んだ。
暫くするとナイトメア・ディアーの抵抗が弱々しくなっていき、遂に地面に膝をついた。
それでもニグは締め付ける力を緩めず、逆に力を込め直した。
その直後、カッと眼を見開いたナイトメア・ディアーが信じられない力で再び暴れだし、左手で角を掴みあろう事か引き抜いた。
ニグも流石に驚き眼を見開いたが、力は決して緩めなかった。
・・・最後の力を振り絞った抵抗だったのか、引き抜いた角を頭上で滅茶苦茶に振り回し取り落とした後は、ゆっくりと地面に倒れ込み、痙攣を繰り返すだけとなった。
ニグはその後も締め付け続け、ナイトメア・ディアーの首の骨が砕けてようやく力をゆるめた。




