後編
諒が深咲の部屋に転がり込んで一週間が経った。
直ぐに出ていってくれると思ったのに、行く当ても無くそもそも先立つものが無い彼は深咲の部屋に居座り続けた。
その代わりに部屋の掃除や買い物などの家事を手伝ってくれたり、深咲の帰宅が遅くなる時は夕飯の支度もしてくれて助かったが、いつまでもこの状態を続けるつもりなど無い。
「ちょっと、もう一週間になるんだけど、あんた何時になったら出てくのよ?」
「あー、悪い…。今仕事探してるからさ。それまで置いてくれ!」
見ればローテーブルの上には就職情報誌や職業安定所の仕事案内のチラシがある。働く気はあるようだ。
「……仕方ないわね」
深咲はもう暫く彼を置く事にした。
幸いな事に彼の仕事は早くに見つかり、働き始めた。仕事ぶりも真面目にやっている様だ。
そして驚くことに以前は呆れる位に悪かった浪費癖(主に女関係)が無くなって、退社後は真っ直ぐ部屋に帰り、遅くなっても日を跨いで帰る事は無かった。
「仕事見つかって三ヶ月よね?いつ出てくの?」
「そうだなー…引っ越すとなると色々物入りになるだろ?深咲に借りた金も全部返してないし…、もう少し待ってくれないか?」
「…仕方ないわね」
新しいスーツや靴、スマートフォンの契約や歯ブラシなどの日用品まで必要な物を買うのに使った深咲から借りた金を早く返済して、引っ越し資金を貯める事を優先している様だ。
もし部屋に女を連れ込んだりしたら即追い出すつもりだった深咲は意外に思った。
ある日ふと諒の左手の薬指に指輪が嵌まっているのに気付いた。
「あれ?あんた、もしかして彼女が出来たの?」
(だったら私と同居しているなんてばれたら大変な事になるじゃない!ついでにその彼女さんに引き取って貰えないかしら?)
「ああ、これ?違うよ。女避け…暫くは懲り懲りだから」
「女避け?…あんたが!?」
「……俺だって懲りるよ」
(人って変わるのねぇ。…尤もあれで変わらなきゃ救いようがないけど)
「なぁ、深咲!」
珈琲を飲もうと台所でヤカンに火を掛けた深咲に諒が後ろから抱きついてきた。
「わっ!いきなり何よ?危ないでしょ!」
「あ、ごめん。なぁ、ここ新しいアトラクション入ったって!行こうぜ!」
彼はスマホで行楽情報を見ていた様で、画面はある遊園地のホームページだった。
「え〜?そういうのは彼女と行ったら?」
「この間も一緒に映画行ったから知ってるだろ。他に誘うような女なんかいねぇし。…だから、な?一緒に行こう?」
抱きついたままの諒の腕が強められたのを深咲は少し意識した。
「うっ…仕方ないわね…」
「やった!じゃ次の日曜な」
(何か最近甘えてくるのよねぇ)
深咲から借りていた金を返し終えると余裕が出来てきたからか、諒は深咲を誘って外に遊びに出る事が増えてきた。
「会社の可愛い子でも誘えば?」と聞くと「前と同じ轍は踏みたくない」と言う。
(まさかトラウマになっているんじゃないでしょうね?)
深咲は諒の将来が少し心配になった。
「ただいまー。おっ、すげー!ご馳走だっ!」
帰宅した諒がネクタイを緩めながらローテーブルに並ぶ料理を見る。
「カレンダーにあんなにでかでかと誕生日って書いてあったら、祝うしかないでしょー」
ローテーブルの上にはファストフード店のフライドチキンや手作りのポテトサラダ、コンロの上の鍋には具沢山のスープに冷蔵庫にはビール、デザートにケーキもある。
「オムライスで終わりだからその間に着替えといで」
「ん〜」
すっかり定位置のリビングの片隅にある仕切り代わりのハンガーかけの向こう側に彼が消えて戻ってくる間に深咲は最後の料理を仕上げた。
「それにしても…今日くらいは遅くなっても良かったんじゃない?」
向かい合わせに座って食事しながら深咲は聞いてみた。
「あ?何で?」
「せっかくの誕生日なんだし、同僚とか…可愛い女の子とか誘ってさ、楽しんでくれば良かったのに」
「面倒くさくなりそうだから周りに教えて無いんだ」
「ふ〜ん。…気になる子はいないの?」
一緒に暮らし始めてもう半年を過ぎた。いくらあの事件で女に辟易したとしてもそれは一時的なものだと思っていた。
見た目は良い男なのだ。言い寄る女は直ぐに現れ、それに乗っかる奴だと思ったのにその気配が見えない。
(……あんたはいつまで此処に居るのよ?)
このまま惰性の様に同居生活をする事に深咲は少しずつ不安を感じてきていた。
「…気になる子?」
「そう。だって、あんた女の子大好きだったじゃない。そろそろ彼女が出来ても可笑しくないなぁって。あ、もちろん今度は付き合うのは一人だけにしなさいよ!トラブルはもう嫌だからね!」
「あー、うん。俺もあれはもう嫌だ」
苦笑しながらグラスに注いだビールを飲む彼を見ながら深咲も自分のビールを飲む。
「で?いないの?」
「好きな子か…」
自分のグラスに目線を落として考え込む諒を見て、深咲は気付く。
「…いるんだ?」
「うん。いる」
「そう…付き合ってるの?」
その質問に彼は苦笑した。
「あのなぁ、付き合ってる女がいたらさすがに今此処にいないし」
「あ、そっか。あれ?じゃあ…?」
「好きな子はいる。…でも、自信無くて言えないんだ」
その告白に深咲は驚いた。目の前の男のもてっぷりを長年見てきた彼女にとって、この男に言い寄られたら無下にする人などそういないと思っている。
「自信無いって…もしかしてその女の子、もう他に好きな人がいるとか?」
「いや、いない…と思う。けど俺、その子に過去の悪行知られてんだ」
「ああ〜…そっか」
彼は複数の女と付き合ってきたのだ。その内の誰かと知り合いの子を好きになってしまい、けれど過去の女癖の悪さを知られて避けられているのかもしれない、と深咲は思った。
「でも、今はもうやめているんでしょ?」
「ああ…でも過去は消せないだろ?」
落ち込む彼を見て深咲はなんとか励ましてやりたくなった。
「だったら誠実に言ってみたら?今はその子だけなんでしょ?」
「そうだけど、俺いまいち意識してもらえてないみたいなんだ」
「なんだ、アプローチはしてるのね?」
自信が無いなんて言うから遠くで見ているだけなのかと思ったら違うらしい。
「してる。けど、男として見られて無いっていうか、対象外みたいでさ」
「…もしかして嫌われてる?」
「やっぱり、そうなのかな…?」
(わぁ〜更に落ち込んじゃったよ!不味い!)
誕生日というめでたい日に人を突き落とす悪い人間の様で深咲は焦った。
「今のあんたなら大丈夫よ!顔だけの昔と比べて今は中身も良いし!」
「…へぇ〜…、顔だけ…そう思ってたのか?」
「あっ?…だから前はね!過去よ、過去!今のあんたはいい男よ!」
アルコールが入っているせいか、少し口が軽くなっているらしい。深咲は更に焦って褒めた。
「…本当に?」
「ほんと、本当。半年見てきた私が言うんだから信じなさい!あんたは変わった!」
「深咲、適当に言ってないか?」
「本当だよ?仕事、真面目にやってるし、家事手伝ってくれるし、楽しい所に連れてってくれるし、もし彼女出来て此処から出てったら寂しいなぁ〜ってくらい本当だよ?」
「……本当に?」
深咲はコクコクと首を縦に何度も振った。
すると諒は立ち上がってテーブルを回り込み深咲の傍でしゃがんだ。
「じゃあ深咲、俺と付き合って。俺の彼女になって?」
「…………はい?」
首を振りすぎて耳が馬鹿になったのかと深咲は思った。
「今の、OKって事?」
「へっ?…いやいや?」
「嫌なの?さっきのは嘘?」
目の前の男が眉間に皺を寄せて膝立ちになり更に近付く。
「ええっと、何だっけ?」
何だかいつもとは違う諒に深咲は戸惑う。
「…出ていったら寂しいって」
「え〜…言った…って、違うよね?言う相手が違うよね?」
「深咲が好きだ」
「はぁぁ?何?からかってるの?」
「本当に、好きなんだ」
「いやいや!今までそんな事言わなかったじゃない!」
「此処に転がり込んで直ぐに告白して、お前それを信じられるか?」
「……それは…ちょっと」
無理だなぁ、と深咲も思う。「ふざけるな!」と叩き出していただろう。
「えぇ〜?…本気?何で?いつから?」
「そうだな…、あの刺された日から…かな?」
深咲は「はぁ?」と首を傾げた。
「…あの日刺されて、俺の事心配するのは深咲だけだった。…他は皆…家族だって迷惑そうで…」
「自業自得だよね?」
「…叱ってくれるのも深咲だけだ。他の奴等は笑うか怒るだけ」
「そんな事ないわよ。私だって散々怒ったりしたわ」
迷惑をかけられたのは数えきれない位なのだ。何度も呆れ、怒ったりした。
「でも、深咲は俺から離れていかなかった。他の奴等は皆いなくなったのに」
それこそ思い違いだ。深咲と彼はどこまでも友人関係で腐れ縁。男女の関係ではなかった。他の女共とは関係性が違う。
「本当は深咲が俺みたいな女や金にだらしない奴が嫌いだって事は知ってる。…でも、俺変わったよな?」
(…変わったのは私のせい?)
確かに以前の彼の様な男はタイプでは無い。女癖や金癖が悪い男を好みにする女の気がしれないと思っている。
でも、この半年ほど彼を見てきた。まるで人が変わった様に悪癖の無くなった諒を。
(本当にこいつはあの時に刺されて、生まれ変わっちゃったのかも)
諒が更に近付き深咲に手を伸ばしてそっと抱き締めてくる。
「深咲がいたら俺はちゃんとやれる気がする…だから付き合って」
(…これってある意味強迫じゃない?ここで見捨てたらどうなるのよ、こいつ?)
抱き締められたまま深咲はさっきまでのやり取りを考えた。
(こいつが出ていったら、また独り暮らしか。…それを寂しいって思ったのは本当だわ)
突然始まった二人暮らしは楽しいものだった。
でも長年友達付き合いだったし、いつかは此処から去っていくのだからと恋愛対象として意識してこなかった。
(こいつが出ていって、他の誰かが此処に住み始めたら?)
深咲は別の男性との生活を思い浮かべようとするが全く想像できない。
それは一緒に生活したのはこの男だけだったというのもあるかもしれない。
次に諒が別の女と生活する姿を想像した。
……何だか胸がモヤモヤとした不快感に襲われる。
その気持ちを深咲は素直に受け入れた。
(ああ、何だ。私も焼きもち焼く位にはこいつの事好きなのかも)
「仕方ないなぁ…」
その言葉は自分に言ったのか、彼に言ったのか。
苦笑混じりで諒の背中をぽんぽんと叩く様に撫でる。
「…そうやって、俺の事許してくれるのも好き」
「……言っとくけど、浮気したら只ではすまさないわよ?」
「肝に銘じとく」
次の朝、一緒のベッドで眠った彼と同じデザインの指輪が自分の指にも嵌まっているを見て、
(……早まったかも)
と思ったのは内緒の話。