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俺は死んだのか、それとも奇跡が起こったのか。
柔らかいものの上に横たわっている。黒に沈んだ視界に、チラリチラリと光が差し込む。
少なくとも、ここは水の中ではない。肺に対する圧迫感も、全身をさすような冷たさもない。
けれども、俺の知っている場所でもない。こんないい香りのする場所、プラーナにはなかった。
「髪は黒、服も黒。真っ黒、迷子のカラス。カラスの少年くん」
歌うように囁く声が聴こえる。若い女性の声。
「カラスのくせに泳ぐなんて生意気ね、海神様は怒って沈めた。溺れたカラスは私が拾った」
やはり溺れたのか。そんな俺を誰かが助けてくれたらしい。
「ところで、瞳も黒かしら」
左眼の瞼が開かれ、大量の光が開いた瞳孔へ飛び込む。突然のことに目が慣れず、視界は真っ白だ。何があるかなんて見えやしない。
「瞳も黒ね。くろすけ君」
「――ヒミキだ」
声が出たことにヒミキ自身が驚く。身体がだるくて、全く動けないと思ったが、口を動かす気力はあったらしい。あれから何があったのか、どのような経緯でここに来たのかはわからない。溺れていたのが、遠く昔のことに思える。
明るさに慣れた瞳が、少しずつ景色を映し出す。金糸がキラキラと輝いている。
いや、違う。これは髪だ。なぜって、金糸の間から潤んだ双眸が、彼を見つめていたら。サファイアのように蒼い瞳だった。
おそらく年下の、美少女。本当に、この少女は存在しているのか。イラストなのではないかと疑いたくなるほど綺麗な姿。でも、顔に触れる手から伝わる彼女の体温が、彼女が本物の少女であることを告げている。
「目が覚めたのね。おはよう、ヒミキくん」
少女はほほ笑む。まるで天使だ。天使なんてもの見たことないし、実在する生き物でもないけど、もし実在すればこんな姿である違いない。
おはよう、とヒミキは言葉を返そうとした。しかし、口が上手く動かない。先ほどは話すことが出来たのに、今は石膏で固まってしまったかのように、ピクリともしない。
「焦りは禁物。今はまだお休みなさい」
そう言って、少女は柔らかい指先でヒミキの瞳を閉ざした。視界が暗くなった途端に、強烈な眠気が襲いかかってきた。まだ疲れていたのだろう。彼は逆らうことなく、すぐに眠りの世界へと落ちて行く。
「グッナイ」
闇の中で少女の囁く声が聴こえた。
現実に近づいては、まだ行ってはいけないと夢が俺を引き戻す。動きを繰り返すブランコのように、夢と現の間をさまよう。
現実に近づいた時は、必ず少女は傍にいた。時に食事を渡し、調子を尋ねる。たいていは簡単な言葉を返すことしかできなかった。渡された食事も食べることは出来なかった。それでも問題はないのだと少女は言う。栄養は他の場所から取れるから、と。軽く顔を上げると、点滴のチューブが身体に繋がれていた。なるほど、ヒミキは納得をした。そして、また眠りの世界へと赴く。
「キュベレーはあなたを殺そうとした」
ある日の現実に目覚めると、少女はヒミキに話しかけた。まだ身体はだるかった。腕は動くが、指の先は上手く動かない。足は全く駄目だ。それでも口ばかりは達者に動かすことが出来た。その動く口で、彼は彼女に言葉を返した。
「どんなコンピュータにも、間違いはあるだろう。人間と同じように」
「けれども、キュベレーはあなたの居住区、プラーナを総括する機械なのよ。わずかな間違いも許されはしない。確かにキュベレーは悪い機械ではないかもしれない、でも作られてから、大分時がたっている。もうあれは古いのよ」
ヒミキが首を傾けると、彼女はひらひらと腕を動かしていた。妙な動きだ。その腕は彼女が説得しようと意気込むあまり自然と動いてしまったものだと理解することに、彼はしばらく時間を要した。そして理解した後、もう一つの疑問が生まれた。なぜ、この少女はそのような主張をするのだろうか。
「俺に何を望んでいるんだ?」
ヒミキが尋ねると、少女は不敵な笑みを浮かべる。
「キュベレーを見つけ出して欲しいの」
「それは一体どういう?」
「キュベレーを見つけ出して、そのプログラムを改変して欲しいの。あれは古くてもいい機械だから、全てを変える必要はないわ。ほんの少しだけ変えれば、あなたみたいに間違って酷い目に会う人間もいなくなる」
その少女の言葉に、ヒミキは驚いて飛び上がりそうになった。実際は身体の多くの個所が動かなかったため、飛び上がることは出来なかったが、それでも精いっぱい目を見開いて、少女の顔を見ることは出来た。彼女の顔は真剣そのものだった。冗談を言っているようではない。そもそもこんなこと、冗談でも言うようなことではない。
「あのキュベレーのプログラムを改変するんだって? それはどんな大罪かわかって言ってるのか?」
キュベレーはプラーナを総括管理する機械だ。そのプログラムを変えれば、途端にプラーナ全体への影響が出る。食料管理や、交通管理、電気をはじめとしたエネルギーの供給、その他ありとあらゆる機能が異常をきたすだろう。そのため、プログラムの改変は大罪、犯した罪の代価は死刑だ。喜んでするようなことではない。
その上、プログラム改変なんて簡単にできることではないのだ。そんな大事な機械が簡単に改変出来てしまったら、危険極まりない。機械は何重にも保護されているはずだ。そもそもプラーナに住む人間で、キュベレーの場所を知っている人はいるのだろうか。
「大罪であっても、いつか誰かがやらなくてはいけないことよ。大丈夫、上手くいけば罪に問われることはないわ」
「無理に決まってるだろ。場所さえもわからないのに」
「方法はあるわ。場所がわからなくても、プログラムを変える方法がね」
少女はひらりと、一回転をした。その動きに合わせ、白いワンピースの裾が浮き上がり、太ももが垣間見える。何もできないような状態とはいえ、ヒミキも立派な思春期男子だ。思わず、先ほどとは違った意味で目を見開いた。
「そんなに頑張ってみても、足以外見えやしないわよ」
その足でも十分、ありがとうございました――などと口に出して言うわけにもいかない。照れ隠しに、話題を元へ戻す。
「で、プログラムを変える方法って何?」
「キュベレーが、その本体しか存在しないはずはないの。どこかに本体とは違う形で、人間を監視しているはずよ。本体に付属するサブユニットと考えればわかりやすいかしら、それがなくては本体だけで仕事は務まらないのよ。そしてそのサブユニットは利便性を考えると間違いなく、人間の形をしているはずね。そいつを見つけてくれれば、後は簡単。サブユニットと本体は繋がっているはずだから、サブユニットを通して改変プログラムを送ってやるだけよ。そこらへんのことは私の得意分野だから、簡単にできるわ。はい、説明終わり。質問ある?」
大人しそうな顔に見合わない上から目線の言葉。しかも俺が協力すること前提で話していないか。ヒミキは少女の態度に戸惑いを覚える。だが、その戸惑いは彼女を見るとすぐに消え去ってしまうのだ。少女は可愛い。態度とか、そんなもの気にならなくなる程度に、可愛い。
いや、騙されてはいけない。彼女はその美貌を利用して、彼を利用しようとしているのだ。命の恩人でもあるが――そのことと、今の要求とは別だろう? 少なくとも、物申しておきたいことが一つある。
「なぜ、君自身が行かないんだ?」
「行ければ苦労はしないわよ。でも、私はここから出られない。外の世界を見ることさえも許されていないのよ」
外へ出られない?
ヒミキは首をかしげた。少女が拘束されている様子はない。出ようと思えば自由に外へ出られるのではないか、と思うが、この部屋の構造が彼女を閉じ込めているのかもしれない。たとえばここが牢屋であるとか。となると、彼も外へ出られないこととなる。困った。助けてもらったものの、一生牢屋暮らしになってしまうのか。
彼の不安を察したのか、少女は微笑み、彼に語りかけた。
「私がここから出られないというのは、何も物理的な意味じゃないの。だからと言って精神的なものとも少し違うけど……。私は、この外へ出たら殺されてしまうのよ」
「えっ?」
殺される、一体どういうことだ。このか弱げな少女が何をしたというのだ。確かに、キュベレーのプログラムを改変するなど不穏なことを言っているが、それ以外には何も――いや、それだけで十分に危険因子か。だからと言って殺すことはないと思う。まだ行われていない犯罪で人は裁けない。あるいは、かつてこの少女は何かをしたのだろうか。
「君は何かをしでかしたのか?」
彼女は何も答えない。ただ「ふふっ」と笑って見せた。
ああ、きっと何かしでかしたんだ、この少女は。でなければ、外へ出ると殺されるなんて異常な状態にはなり得ない。
「さて、他に質問は?」
とっさには思いつかず、ヒミキは黙り込んだ。それを、もう質問がないのだと思い込んだのか、少女は言葉を続ける。
「じゃあ、今度は私から質問。あなたは、私に協力して、キュベレーのプログラムを改変してくれる?」
素直に頷くことは出来ない。彼女が何と言おうと、キュベレーのプログラム改変は、大罪であることには、変わりない。そして、自分が今までプラーナに住み暮らしてきたことも、重要な要因だ。今までの生活はキュベレーによって守られていた。それを改変だなんて。恩を仇で返すようなものじゃないか。
「何度も言うようだけど、改変といっても少し変えるだけよ。本質的には何も変わらない。おそらく、プラーナに住む人間はプログラムが改変されたことさえも気付かないでしょうね。ただ、『人柱』は必要なくなるでしょうけど」
「なんで『人柱』がなくなるんだ?」
「だってそうでしょう。『人柱』なんて本質的に必要ないシステムですもの。『人柱』はなぜ必要あるの? 機械の故障を直すため? キュベレー程高度なコンピュータであれば、自分で自分を直すことくらい可能なはずよ」
そうか、キュベレーは自己修復機能も持っているのか。すると、おかしい事に気づく。
「自分で自分を直せるなら、なぜプログラムを改変する必要があるんだ。こちらが改変しなくても、勝手に修復してくれるはずじゃないのか」
「普通はね。だからほとんどの機能は正常に動いてくれる。けれども、この一点に関しては、修復することをキュベレーは望んでいないの。望んでいないから、自分で修復を行わない」
「つまり間違った状態をキュベレーは望んでいる、と」
「そういうこと。総括管理を行う機械としては、あるまじき状態を、ね」
そのような間違いをなぜ機械が望むのだろうか。機械が何かを求めることなど、あり得るのだろうか。
「どのような間違いがおこっているかなんて、訊かないでちょうだい。それくらい自分で考えてね」
ヒミキが訊く前に、少女は先回りして言う。そう言われてしまったら、もう訊けないじゃないか。彼女はしたり顔。やはりあまり性格はよろしくないと見た。
「で、やるの? やらないの?」
少女はヒミキの枕元へ手を置き、彼をせかす。ノーと答えればこのまま首を絞められそうな――そんなことはさすがにしないと信じたいが。
彼はまだ悩んでいた。確かに、彼はキュベレーに殺されかけたが、あれは何かの間違いだったのだと思う。車の故障かもしれない。今までキュベレーは見守ってくれたのだ。それが突然敵になるとは考え難い。
だがしかし、少女の言葉を信じるならば、キュベレーには何らかの問題があるのだ。今は大した問題でなくとも、後に大きな問題を生むこともあり得る。一つの間違いを小さな物と考え放っておくと、どんどん膨らんで、やがては取り返しがつかなくなる。誰かがやらなくてはいけないのだ。自分でなくてもかまわないが、逆に自分であればできることでもある。
決めた。そもそも、一度は失ったことも同然の命なのだ。罪になることは、怖くないと言ったら嘘になるが、必要以上に躊躇することもなかった。やってやろうじゃないか。
「わかった、やろう。キュベレーのサブユニットを探そうじゃないか」
少女は跳びはねた。感情は、言わなくてもわかる。嬉しいんだ。手を振り上げ、全身で喜びを示すその姿は微笑ましい。
やがて落ちついたのか、彼女はヒミキに話しかけてくる。まだ頬が赤い。
「ありがとう、改めまして私はチト。これから仲間よ、よろしくね」
名乗られて初めて、彼女の名前を知らなかったことに気づく。そうか、チトというのか。聞き慣れない名前だが、プラーナと違う居住区では普通のことなのかもしれない。
ん、プラーナと違う居住区?
「ここはどこ?」
そうだ、俺はプラーナの外で溺れたのだ。その後、どのように移動したかわからないが、気づいたらここにいた。この場所が一体どこであるかを知らない。
「あれ、話してなかったかしら。ここは、プラーナの近くよ」
「近くって? どこの居住区?」
「どこの居住区でもない。ここは居住区の中ではないのよ」
驚いた。居住区でないところ、コンピュータ管理がなされていない場所に住む人がいたとは。それどころか、コンピュータ管理がなされていないのに、少なくともここには電気がある。食事もある。
「まあここだけ特別なのよ。居住区の中でもないのに、こんな贅沢ができる場所って、そう多くはないから安心して」
そして、ここが居住区でないとすると、もう一つの問題が生まれる。
「俺はどうやってプラーナに戻ればいい?」
総括管理するキュベレーに追い出された身で、どうやって帰ればいいのだろうか。まさか普通どおりに、ただいまと言って入れるはずもあるまい。
「それは私が考えておくわ。きっとそう難しいことじゃないのよ」
チトにしてみれば、なんでも難しいことではなくなってしまうらしい。なんとも頼もしいことだ。
「それと、一つ、共犯者として、あなたに要望があるの」
いつから共犯者になったのだろう。ヒミキは彼女の言葉を不審に感じたが、よくよく考えてみれば彼らはキュベレーのプログラム改変という大罪を犯すつもりなのだ。確かに、それは共犯者に違いはない。
それにしてもこの改まった言いよう。チトのことをよく知っているわけでもないが、強引に事を進めることの多い彼女が、前置きありで話を始めるのは、少し嫌な予感がする。それなりの覚悟を決めて、彼は少女に先を促した。
「あなたの見ている世界を、私にも見せて欲しいの」
ヒミキの身体は徐々に回復していった。動かなかった身体の箇所が、順番に動くようになっていく。元の状態へ戻っているだけなのに、まるで新たな部位を手に入れたような新鮮な驚きを感じる。
身体が治るにつれて、彼は今置かれている状態をようやく把握できるようになった。寝かされていた場所は、白いベッド。デザインから判断するに、医療用だろうが、彼の家の硬いベッドに比べれば、素晴らしい寝心地を提供してくれる良いベッドだ。その寝心地のよいベッドの周りには、様々な機械が置かれている。それぞれを何に使うかは判断しかねたが、全て医療用の道具と見て間違いなさそうだ。他にも点滴に使うチューブや、なぜか見舞いの花まで置いてあった。見事に病院の個室を再現している。
そのようなスペースが、なぜこんな所にあるのか。彼のためだけに用意したスペースであるとは考え難い。昔ここを使っていた人がいたのか。だとすると、その人間はどこへ行ってしまったのか。暗い回答が予測できて、訊くのは憚られた。
余計な想像はやめて、治療に専念すべきだ、ヒミキは思った。
身体は少しずつ動くようにはなったが、すぐに自由に動かせるというわけでもなかった。しばらく動かしていないと、筋肉の使い方を忘れる。折角足が動くのに、上手く歩くことはおろか、最初は立つこともできなかった。
「ゆっくりでいいよ」
焦って転んだヒミキを置きあがらせながら、チトは語りかけた。彼女の腕はか細いにもかかわらず、その力は意外にも強かった。
「私がプログラム改変のための道具を作るまで、まだまだ時間がかかるから」
そう言いながらも、彼女の作業は順調に進んでいるようだった。見た目は彼とさほど変わらない年齢に見えるが、出来ることにかなりの差がある。学校では相当の優等生か。そもそも、学校へは通っているのだろうか。まあ、彼女程何でもできる人間であれば、学校で何かを習う必要もないかもしれない。
プログラムを改変する道具を最初に作るのかと思いきや、先に出来上がったのは、彼女にヒミキの世界を見せるための道具だった。どうやら息抜きに作ったものが、先に出来てしまったらしい。彼女は嬉々として、小箱に入ったそれを彼に渡す。
「俺、同意してないよね」
話には聞いたが、彼の見る世界を彼女にも見せることに同意はしていなかった。彼の同意を聞く前に彼女は作ってしまったらしい。
「でも、まだ拒否もしていない。拒絶されてないから、脈ありと思ったのだけど……。とりあえず見てみて」
「脈あり、か」
ヒミキは納得をしかねたが、しかし拒否しなかったのも事実だった。彼はプライバシーに関しては、あまり気にしない人間だ。常にキュベレーに監視され続ける社会にいたのだから、今更なんだと言うのだ――まあ、機械相手と、美少女相手とは違うだろうが、同じ監視されるのであれば機械より美少女の方がいいに決まっている。
問題なのは、自分の見ている世界を他人に見せるとはどの程度のものかということだ。さすがに心の中まで見せるわけにはいかない。雑多な思考が入り混じったこの脳内は、他人に見せる程の価値はないだろうし、それを見せろと言われても羞恥心が拒絶するだろう。けれども、彼女は心を見せてとは言わなかった。彼女が望んだのは、世界を見ること。単に世界を見るだけならば、別に問題はないんじゃないだろうか。
チトから渡された小箱を開けてみる。箱自体も小さいが、中に入っていたものはそれよりもまた一回り小さなものだった。何だかわからない直方体の金属と、左耳だけのコードレスイヤフォン、そしてコンタクトレンズ?
「これがその機械なのか?」
どう見ても普通のイヤフォンとコンタクトレンズにしか見えない。
「使ってみて。装着方法は普通のイヤフォンやコンタクトレンズと一緒よ。イヤフォンは両方付けると周り音が聴きにくくなってしまうから、左耳用だけだけど」
試しに、言われた通りはめてみる。こういうところで躊躇しないのが、男らしさというものだ。コンタクトレンズをはめたことがなかったため手間取ったが、チトの指導と、彼女の持ってきた鏡を駆使して、何とか両目にはめる。
コンタクトレンズが蒼色を呈していたため、鏡を見てみるとヒミキの眼の虹彩がほんのり蒼く染まっていた。「お揃い」と、言いながらチトが自分の眼を指し示す。確かに彼の眼の蒼は、彼女の眼と似た色であった。彼女の美しい色には敵わなかったが、それでも同じ蒼であることには変わりない。
わざわざ色を付ける必要性はなかっただろう。これはあえて、同じ色にしたかったのかな。同じ色の眼を見て頬を染める彼女を愛おしく感じたこともつかの間、「では実験開始」と彼女の言葉に、彼は驚いた。
「実験って、これ性能確かめてないのか」
「だから今から確かめるの」
いきなり人体実験というわけか。いやはや、このチトという少女、天才なのかもしれないが、しかし考えることがよくわからん。副作用が出たらどうするつもりなのだろう。間違って爆発するなんてことはないだろうな。少女は失敗することなど想定してなさそうだ。そのあり余った自信が逆にヒミキを不安にさせる。
何か間違ったことが起こるのではないか、失敗するのではないか。そわそわと辺りを見回すが、一向に何も起こらない。
彼女は実験開始といったが、何かが変わる様子はない。いつまで待とうと、先ほどまでと何も変わらない。
「――失敗?」
恐る恐る尋ねてみる。この少女は自分の作ったものが上手く働かないと、怒りだす――彼は勝手にそんな印象を抱いていた。
「いいえ、大成功よ」
少女はピンと親指を立てて見せる。
「いや、でも何も変わってないぜ」
「あなたから見ればね。でも私からしてみればあなたが見てる景色と、聞いている音がよくわかるわ」
なぜ。ヒミキが唖然としていると、少女は見下したような表情をする。
「仕組みを知りたいか、少年」
偉そうに……。だが、ここで断れば、誰もこの仕組みを教えてくれないだろう。だから、彼はこう答えるしかない。
「はい、知りたいです」
「よろしい、教えてあげよう」
尊大な態度で言う。生徒を教える先生のつもりか。まあ、本当にわからないのだから仕方ない。模範生徒として講義を聞こうか。
「まず、イヤフォンやコンタクトレンズと言えばどういうものであるか、わかるかね?」
「音を聞いたり、物を見るために使うものです」
先生、とは呼ばなかった。
「間違いだ」
「えっ」
少女はにやりと不敵な笑みを浮かべた。反抗したいところだが、やはり考えても何が違うのかわからないため、頭が上がらない。そのヒミキの様子を見て、より一層少女の口角は上がる。
「音を聞くのはあくまで耳、物を見るのは眼でしょう」
「ひっかけ問題じゃないか」
「別にひっかけるつもりはなかったの。勝手に君がひっかかっただけよ。さて、正解をいってしまうと、基本的にイヤフォンは音を出す道具、コンタクトレンズは光を屈折させるための道具ね。共通点としては、どちらも受容器官である眼や耳の近くで、受け取るべき情報である光や音に加工を加えること。その加工という働きを、転送へ変えたのがこの機械よ。つまり眼や耳で受け取るはずだった情報を、そっくりそのまま変換して無線通信で送ってるの。案外簡単な仕組みでしょ」
「コンタクトレンズは俺の眼で見ている光景を君に送って、イヤフォンが俺の左耳で聴こえる音を君に送ってるわけか」
「あなたが見たり聞いたりしているのは、無意識に脳が加工した映像や音やだから厳密には違うのだけど……まあだいたいあってるからいいわ」
頭の出来の悪い生徒だったから、先生に見限られた。
「ついでに。その機械は小型だけども、その代わり送信能力はあまり高くないから、媒体が必要なの。箱の中に直方体の物が入ってたでしょ。二つの機械から送られた情報は、その箱を中継して私まで届くのよ」
なるほど、この箱にも役割があったわけか。
それにしても――ヒミキは少女を見た。話が難しくなってきてないか。あえて難しい単語を使っているような気がするのは、気のせいだろうか。
「そんなに私の表情が気になるの?」
不意にチトに指摘され、ヒミキはたじろいだ。
「なんで?」
「あなた私の顔ばかり見てるじゃない。無意識かもしれないけど、会話している間、視線をそらすふりをして何度も私の顔を見ているよ。一応気づいてないようだから注意しておくけど、眼で受け取る前の光を全て送信されているということは、あなたが見ている先が正確に私へ届くことなの。もしあなたに好きな人がいて、その人ばかり見ていたら、私はあなたがその人のことが好きだということをすぐに理解できる」
そうか、そんな危険性が。けれどもまあいいや、とヒミキは考えてしまう。彼には好きな人がいないし、いざとなればコンタクトとイヤフォンを外せばいいのだ。
「ちなみに、その機械逆もできるのよ」
「というと?」
どこからか波の音が響く。ここは海ではないはずなのに。その音に合わせ、眼の前に現れたのはサメ。空中を泳ぎながらも、サメはどんどんヒミキへと迫ってきて、最後には大きな口を開けて彼を一飲みに――。
「こういうふうに、音が聞こえたり、映像が見えたりするわけか」
「――ってもうちょっと驚いてくれてもいいじゃない」
眉根にしわを寄せ不満そうな表情を浮かべる、チト。出来が悪くて呆れられてばかりのヒミキは、ようやく彼女に勝てたような気がした。
「まあいいや。この機能を利用して情報はあげるから、侵入は頑張ってね」
なんだかんだ言って、これも侵入のために必要な道具なのか。コンタクトレンズとイヤフォンを外して、まじまじと見つめる。小型だけれども、情報を共有することのできる便利な道具。スパイの道具のようでなんだかかっこいい、とヒミキは思う。考えてみれば、彼がやろうとしていることはスパイに似たようなことなのだ。敵であるキュベレーの支配するプラーナに潜入し、隠密にプログラムを改変する。かなり、かっこいい。その分危険は伴うが。
ほんの少し前は、無条件に信じていたキュベレーを、美少女の言葉につられ容易に裏切り、あまつさえそれをかっこいいなどと考えてしまう。彼自身も自分が現金なやつである自覚はあったが、先に裏切ったのはキュベレーの方だったのだ。売られた喧嘩は買うしかない。裏切られたら裏切り返せ。仕方ないことだ。それに、好みの美少女に言われたのだ。男だったら彼女に従うしかないだろう?
自分で自分に言い聞かせてみる。
自分がやるしかないのだ。躊躇うわけにはいかない。
チトが渡した小箱を握りしめた。
リハビリの甲斐もあってか、二週間ほどでヒミキの身体は昔と同じように動くようになった。それとタイミングを合わせたかのように、チトの作るプログラムを改変する道具も完成した。あるいは、本当に少女は彼の完治のタイミングに合わせたのかもしれないが、訊いても答えてはくれそうもないので、訊かないことにする。余計なことを詮索して楽しむ趣味は、彼にはない。
「キュベレーのサブユニットである人間を探し出すの。見つけたら、これを差し込むだけ」
渡されたものは、小型の万年筆のようなものであった。
「差し込むって?」
「腕でもなんでもいいから、身体の部位に、こうプスッと」
チトはヒミキの腕を掴み、彼の左腕に万年筆のようなそれの先を、差し込むような動作をして見せる。いや、その動作は差し込むというより、ペン先で刺している。
「これ間違って人間にやったらまずいよね?」
「小さな穴があいて血が出る程度だから、たいしたことにはならないよ」
それがまずいことというのではないのかな?
恐ろしいことを淡々と説明してみせる少女に、余計なことを言う気にはならなかった。
「これで、こちらから送ったプログラムがサブユニットに入り込んで、本体のプログラムを改変するの。心配しないで、こんな時のために渡した道具があるでしょう。あれを使って私が判断した内容を伝えるから、間違うことはないよ」
判断を間違うことはなくとも、意図的に間違うことはあったりして。
「あとは、質問はない?」
仕組みはよくわからないし、そもそもチトの説明が手抜きだったような気もするが、とりあえず使い方はわかったので、頷く。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
チトに身体を押される。それにタイミングを合わせたように、車がやってきて扉が開く。一人乗りの車だ。「人柱」になる時に乗った車によく似ている。少女がなすままに従っていると、彼は車の中へと放り込まれた。扉が閉まる。
「え、待って」
慌てて外へ出ようとするが、扉は開かない。それどころか、勝手に動き出したじゃないか。窓が黒く塗られているため、外の様子もわからない。これでは本当に「人柱」として連れて行かれた時と同じだ。行き先も、今いる場所もわからない。
一体チトは何を考えているのだろうか。説明もなしに車に放り込むなど、身勝手もいい所だ。文句の一つでも言ってやりたいが、その文句を伝える方法がない――わけではないようだ。彼女から貰ったイヤフォンとコンタクトの存在を思い出す。ポケットの中をまさぐると確かにそれは入っていた。今は彼女と話したい。とりあえずイヤフォンだけをして、どこへともなく話しかけてみる。
「チト聴こえるか、どうして突然車に乗せるんだよ?」
間があくかと思いきや、すぐに言葉は聞こえて来た。
〈眼の方も装着して〉
答えというより、新たな要求だ。仕方なく、コンタクトレンズを入れる。練習したため、鏡なしでも手間取ることなく装着できるようになっていた。
「さあ、いれたから、説明してくれないか」
〈質問ないって言ったじゃない。だから、もう大丈夫なのかなって思ったの〉
「車に乗せるなんて言ってなかったじゃないか」
〈でも、あなたは十分に回復したんでしょ。今ならプラーナに戻ることだってできる〉
回復したから、すぐに出て行けと言うわけか。ずいぶんとぞんざいな扱いだ。もう少しチトを見ながら話をしていたかったのに。
ところで、今彼女はプラーナへ戻ることが出来るといったか。まさか……。
「この車、プラーナへ向かうのか」
〈そうよ〉
そうよ、って随分とあっさりと言ってみせるが。
「プラーナへの出入りはキュベレーが管理してるんだぞ。そう簡単に出入りできるとは思えない。何か得策はあるのか?」
〈だから、その車なんじゃない〉
その車? 一体どういうことだ。
ヒミキが無言になったことを戸惑いと理解したのか、少女は説明を続けた。
〈外へ出る車なら、中へも迎えてくれるでしょう。あなたは普通の「人柱」と同じように、帰ればいいの。普通の人だったら、「人柱」が帰ってきたんだな、程度にしか思わない。問題なのはあなたを死んだと思っているキュベレーだけど――間違いなくキュベレー自身は、あなたを一度殺そうとしたことを反省しているはず。あの機械は、自分のために住民を犠牲にしていいと考える程、馬鹿じゃない。あの事件は、誤りだったの。だから、あなたが戻ってきたら、喜んで中へと向かい入れてくれるはずよ〉
そんな風に説明されても納得がいかない。一度自分を殺そうとした機械が、そして今自分がプログラムを改変しようとしている機械が、プラーナの中へ戻ることを許すなんて。
〈逆にね、キュベレーは自信があるの。あなたによって復讐されない自信がね。もっとも、あの機械は私のことを知らないだろうから、その間違った判断も、仕方がないことだけども〉
キュベレーは、チトの存在を知らないから、油断をしている。確かに言われてみれば、そうなるのは当然のことだった。あの機械からしてみれば、ヒミキなど取るに足らない存在だろう。何せただの学生だ。よからぬことを企もうにも、行動に移す術はない。
プログラム改変が実行できるのはチトのお陰なのだ。逆に、彼女さえいなければ、そんな仕事を任されなかっただろうが。
命の恩人だ。あまり悪く考えるのはよそう。
「俺には君という、キュベレーの知らない強力な共犯者がいるというわけだね」
〈そういうこと〉
ふふっ、と笑う。何かを企む笑い声。それにつられ、ヒミキも彼女と同様にふふっ、と笑った。共犯者の笑みだ。
〈あと、これだけは守ってちょうだい。プラーナの中では私のこと絶対に、言わないって〉
「わかった」
当然だ。隠し兵器は、隠してこそ意味がある。
一人で出来ないことも、彼女とならばきっとできる。チトが裏切らなければ、そしてヒミキ自身が彼女を裏切ることさえなければ。
けれども。
ああ、なんでだろう。決意はこんなにも簡単に揺らぐ。
あっけなくプラーナへの門は開かれた。外部から遮断された黒い車の中にいたヒミキは、いつ越えたのかを判断することは出来なかったが、間違いなくその門は越えていたのだろう。車から降りると、懐かしい光景が広がっていた。
久方ぶりの喧騒。舗装された道を歩く人と、それ以上に多い車。電気の力で輝くディスプレイが街を彩り、人工的な香りが鼻腔を満たす。
安堵のため息が漏れる。やはりここが、落ち着く。これが自分のいるべき日常だと言うことを、思い知らされる。
ヒミキは長い夢を見ていたような気分だった。そう、あれは夢だったのだ。非現実世界に呼び出される夢、金髪の美少女が現れる夢。あまりにも平和すぎる現実への小さな反抗心が、思いがけない夢を見させたのだ。
今や夢は終わった。眼は醒めた。
ただいま、現実。生ぬるいけど、生気溢れた居住区が一番だ。
〈――すごい〉
左耳から、音が聞こえる。
〈知識としては知ってたけど――こんなにもたくさんの人がいるなんて〉
ありきたりな日常に感動するチトの声。
わかっている。「人柱」となったこと、黒い車に乗せられて海に落とされたこと、どこかわからないベッドの上で眼ざめたこと、全て夢ではなかった。左耳のイヤフォンも両眼のコンタクトレンズも確かに存在していた。もちろんヒミキもそのようなことはわかっているのだ。あのような生生しい夢があるはずもない。チトの綺麗な金髪も、澄んだ碧眼も、細くて白い腕も全て覚えている。
しかし。平穏な世界に帰ると、途端に彼女との約束が異質なものに感じられる。今となってはなぜ、あのような計画を簡単に了解してしまったのかわからない。キュベレーのプログラムを改変するなど、犯罪じゃないか。例え、それが正しいことだとしても、今の自分には恐ろしくて到底出来やしないのだ。
なぜ自分が。他の人に任せることは出来なかったのか。
〈世界はこんなにも広かったのね〉
左耳から聴こえるチトの声。知らない世界への感嘆。
この少女を、裏切ることは出来ない。約束してしまったから。だが、ヒミキには計画を実行に移せる自信もなかった。
悩むだけ無駄だ。いまさら約束をなかったことには出来ないし、今すぐに実行しなくてはいけないことでもない。せっかく無事に戻ってきたのだから、明るいこと、今やりたいことについて考えよう。
帰ったらやりたいこと――ありきたりだが、やはりヒミキの脳内に最初に浮かんだのは両親の顔だった。
とにかく、まずは家に帰ろう。両親へ、生存報告をしよう。ずいぶんと家へ帰っていなかったから、きっと心配しているだろう。ヒミキは歩いて行く。立ち止まったら、また悩んでしまいそうだから。ひたすらに、前へ進んでいく。
家族と久々の再会だ。家へ帰ったら、何を話そうか。今まで何をしていたのか訊かれるだろうが、それは嘘を言うしかない。二週間以上も家に帰らなかったのだから、「人柱」に選ばれたことも、何となく察しているだろうと思う。「人柱」として何をしたのかを訊かれても、答えることは出来ないな。殺されかけたなど、言えるはずもない。さて、どう説明をすべきか。
足を止める。誰かに監視されているような気がして、辺りを見回すが、誰もヒミキを見てはいなかった。皆、自分の行く先を見ている。そのことがわかっても、誰かが自分を見ているという気持ちは消えない。
人は見てなくとも、自分を見ている「眼」はある。
――キュベレー。
プラーナを総括する機械は、カメラで街全体を監視している。あいつは、無限と言える程の数の「眼」を持っているのだ。どこへいたって、自分はあの機械に見られている。居住区の中へ入れてくれたのは、単にその方が監視しやすいためかもしれない。今もまだ殺す機会をうかがっているのかも。
そう考えると、途端に恐ろしくなった。ヒミキは人がいない場所を探す。人がいない場所ならばカメラがないのではないか。キュベレーに監視されない場所がどこかにあるはずだ。
そして、出来るだけ人眼がない場所へ。周りにいる人間はプラーナの人間だ。あの機械に管理されている人間だ。誰が敵かはわからない。チトは言っていたではないか。キュベレーは人間の姿のサブユニットを持っていると。一見人間に見えても、実はそのサブユニットである可能性もある。
人がいない場所は、なかなかあるものではない。計画的に整備された街に、人通りの少ない路地裏などほとんどない。店や簡単に入れる建物の中は、それこそ人だらけだ。今は昼だから、個人の家には人がいないこともあり得るが、さすがに侵入するわけにもいかない。
〈まさか臆病風に吹かれたの?〉
何かを察したのか、左耳からあの少女が語りかけてくる。責める口調ではない。ただ訊ねているだけといった感じの、落ちついた声。
〈平和な世界に戻った途端に、何もやりたくなくなったの〉
違うんだ。答えようとするが、舌が上手く動かない。口の中が異様に乾燥して、それなのに身体中が汗で湿っていた。
〈逃げてもいいのよ〉
「えっ」
驚きの声は出た。眼の前にチトがいるわけでもないのに、思わず顔を上げる。見えるのは、少し古い建物の薄汚れた壁。コンタクトレンズをしているのに、瞳は彼女の姿を映し出してはくれない。映像を送られたら、目の前が見えなくなってしまうのだ。当然通常は映像を映してはくれないが、今はあの少女の顔が見たかった。自信に満ちた表情を見て、安心をしたかった。
けれども、その少女の言葉も自信とは離れたものだった。
〈どうせたいした期待はしてなかったの。嫌なら、やらなくていい。キュベレーのプログラム改変はいつかまた他の人に頼むから〉
なぜ珍しくネガティブなことをいうのだ、やらないなんて、そんなことあるはずないじゃないか――と言うことは出来なかった。ヒミキは、この平和な場所で、罪を犯すという気持ちにはなれなかった。怯えているのだ。罪を犯すということに。人と違うことをやらなくてはいけないということに。どうにかして、自分はその義務から逃れたいと思ってしまう、弱い心が自分の中にある。やらなくてもいいと言われると、ついやめたくなってしまう。
だが、プラーナで安穏とした生活を送ることもできない。自分を殺そうとした機械に、監視されている。いつかは、今度こそ誰にも気づかれない方法で殺されるのではないか。例え、チトとの約束を破棄しても、怯えながら暮らすことになる。
あるいは、別の選択肢として、他の居住区へ移るという方法もあるだろう。居住区が変われば、管理する機械も変わる。居住区間の移動が上手くいくかは問題だが、上手くプラーナを脱出し他の居住区へ行けば、もう何も怯えずに暮らすことが出来る。一人では無理だろう。チトに頼めば、他の居住区へ移る方法を教えてくれるのではないか。
一番安全な方法を選んでいいのか。
〈どうする?〉
チトが答えを待っている。他の居住区へ逃げ出すか。いや、頼めるはずもない。自分だけ逃げるのは、恰好が悪い。それに、しばらく離れていたからこそわかったことだが、他の居住区へ行くには、住み慣れたプラーナに対し愛着を持ちすぎていた。
サブユニットを積極的に探すという勇気はない。ただ、そのままでもいられない。ない勇気を生み出すしかない。
「まだ、頑張るよ」
逃げたいという気持ちがないわけではないんだ。足はこんなにも震えている。だが、住み慣れたプラーナのために、そして彼女のために――自分を救ってくれたチトのために何かをしてやれないかと思う。
〈ありがとう〉
柔らかい声。映像が見られなくとも、少女の笑顔が眼に浮かぶような気がした。
〈これからの方針なんだけど――〉
「ねえ、君」
チトの声を遮るように、女性の声が響いた。声の元へ振り向く。そこにいたのは、おそらくヒミキよりも年上の女性――といっても二十歳前後だろうか。高等教育機関の学生といった感じだ。
見知らぬ年上の女性に呼び止められる理由はない。人違いだろうと思い、無視をしようとした。
「聴こえてるのでしょ? ヒミキ・カタクラ」
なぜ名前を知っているんだ。まさか、知り合いだったかと思い、ヒミキは彼女の顔を見つめる。少し乱れたショートの茶髪に、眼鏡のレンズを通して見える瞳の色も茶色。いや、角度によっては緑色にも見える、少し不思議な色の瞳だ。間違いなく、このような女性は知らない。
では、なぜ名前を?
「俺のこと、どうして知っているんですか?」
「ヒミキ・カタクラ、君は『人柱』に選ばれたんだよね」
不意を付かれて、ヒミキは眼を見開いた。なぜ、初めてあった人間がそのことを知っているのか。耳元で〈気を付けて〉とチトが囁く声が聴こえた。言われなくとも、わかっている。この人、少なくとも一般人ではない。
「なぜそう思うんです?」
「私は『人柱』に選ばれた人間を追っているんだ。ちょっとした調査でね。君は知らないかもしれないけど、『人柱』に選ばれた人間は、調べることが出来るんだよ。そこで、君の名前をみつけたってわけ。ちょっと調査に協力してくれないかな?」
胡散臭い……。だが、ここで逃げたら、怪しまれるだろう。
「答えられる限りのことは答えます」
曖昧な答えを返す。
「ありがとう。私が聞きたいことは三つ。一つめ、君は『人柱』に選ばれて何をしたか?」
左耳のイヤフォンから声が聞こえる。〈誘導するわ。彼女の質問に対しては、私の言うとおりに答えて〉と言い、答えるべき言葉を伝える。その声の通りにヒミキは答えた。
「キュベレーの、ちょっとした話し相手を」
「その会話の内容は?」
再びイヤフォンから助言が聴こえる。
「お教えすることはできません」
「口封じされたの? あの機械と話した人間は、だれもがそういうね。まあいい、二つめ。君は一度死亡報告が出ていたのだけど、その情報は誤報として取り消された」
「なんだって?」
自分が死んだことになっていた。まさか、キュベレーそのようなことをするとは思わなかった。〈落ち着いて〉、チトが話しかけてくる。
〈死んだことになっているのは、キュベレーがあなたは死んだのだと思い込んだから。訂正されたのは、あなたが生きていることが分かったから。一般人から見れば、それはキュベレーの誤報と考えるはずよ〉
「でも――」
確かに、そうだろう。あの事故が、キュベレーの計画であれば、ヒミキは溺れ死んだと考えられるのは自然なことだ。しかし、まさか死亡報告までなされていたとは思わなかった。死体も見つからなかっただろうに。管理された社会では行方不明というわけにもいかない。
「ずいぶん特異な例だから気になったのだけど、この様子じゃ君は何も知らなそうだね。訊いくだけ無駄か。まあこれも、仕方ない。さて、最後の一つの質問。その眼の色は何だい? 君の本当の眼の色は黒だよね?」
「カラーコンタクトレンズです」
カラーコンタクトレンズくらい珍しいものではない。手軽に瞳の色を変えることが出来るから、ちょっとしたおしゃれに使う人は多い。
「『人柱』に選ばれる直前に、眼の色を変えてみようとでも考えたのかい? しかしそのイヤフォンはなんだね?」
彼女はヒミキの左耳を指し示す。鏡で確認は出来ないが、おそらく髪の間から、少し見えていたのだろう。
「音楽を聴くために……」
「片方の耳だけ付けてるの? じゃあ、ちょっとコンタクトレンズとイヤフォン貸してくれないかな? ちょっと見せてもらえればいいんだ」
そう言って、その女性は手を差し出した。渡すわけにはいかない。注意深く確認すれば、この機械がただのイヤフォンやコンタクトレンズでないことは、彼女でもわかるだろう。これがなくては、チトとの通信手段がなくなってしまう。
ヒミキは一歩後ろへ下がった。強制をするようならば、すぐに逃げるつもりだ。
「嫌です」
すっと女性の手が伸び、ヒミキの腕を掴んだ。素早い動きだった。逃げるより前に、捕まってしまった。振り払おうとするが、掴む力が想定以上に強くて、上手く逃げることが出来ない。考えてみれば、しばらく身体が動かない状態だったのだ。彼自身は回復しきったと思ったが、まだ不十分だったらしい。
「何か不都合なことでもあるのかな?」
〈逃げて!〉
左耳から、チトの声が聞こえる。逃げられるものなら逃げているさ。今も逃れようと必死にもがいていた。だが、掴まれた腕は逃れることが出来ないのだ。こんなにこの女性の力が強いはずはない。自分の身体が弱っているだけでもない。長袖の服に隠されて見れないが、この女性おそらく腕力増強装置をつけている。機械で腕力を高めているのだ。
無理か……。諦めかけた時、妙なものが視界に入った。
一匹の魚が泳いでいく。銀色に輝く長い身体に、特徴的な紅色の背びれ。ヒミキはこの魚の種類を知っている、リュウグウノツカイだ。本来ならば深海に住む巨大な魚。こいつは二メートルほどの長さだが、最大で十メートルを超える大きさになるという大物だ。少なくとも街角には不釣り合いな、その魚はまっすぐにこちらへ泳いでくる。
そして、魚は女性の腕に巻き付いた。
「何これ」
女性は戸惑いを示す。きっと彼女はリュウグウノツカイという魚を知らないに違いない。眉をひそめ魚を見る。すると魚も顔を上げて、彼女を見つめ返した。
「ナニコレ、チガウ、ワタシ、エリー」
パクパクと口を動かし、魚は機械的な音声を発した。さすがの彼女も、眼を丸くして緊張した面持ちで魚を見る。なんだこいつは、とでも思っているのだろう。仕掛けを知っているヒミキは、彼女の様子を面白く眺めることが出来る。何も知らないチトが〈何、あの深海魚?〉と疑問を漏らした。
「ヒミキ、ツカマエル、アナタ、ワルイ」
「痛いっ」
女性は叫び声を上げた。それはそうだろう、魚は彼女の腕を締め付けている。これは相当痛いはずだ。この魚の締め付ける力は、かなり強い。痛みに耐えかねたのか、彼女はヒミキを掴んだ腕を離し、巻きつく魚を振りほどこうとする。そのすきに、彼は逃げ出す。女性はと言うと、ヒミキが逃げ出したことにさえも気付いていないようだった。
「ありがとう、エリー」
魚に向かって、感謝の気持ちを呟く。
〈魚にそんなことを言ったって〉
何も知らないチトがなおも戸惑っている。無事逃げ出したことだから、そろそろネタばらしをしてもいいかもしれない、とヒミキは考える。あれは魚ではないのだ。普通の魚がその言葉を理解するはずはないし、そもそも空を泳ぐ魚など存在しない。つまり魚そっくりの偽物、機械なのだ。そして、あいつがいるということは――。
「大丈夫か、ヒミキ」
よく知った顔。旧友であり、機械魚エリーの飼い主であるカイル・クーニッツだった。きっとあの魚が助けてくれたことも彼のお陰だ。ヒミキが女性に捕まっているのを見て、助け舟ならぬ助け魚を送ってくれたのだろう。
「助かった」
感謝を述べると、カイルは苦笑いをする。
「それにしても、随分と豪快な女性だな。ああいうタイプ嫌いじゃないぜ」
「違う。そんな事件ではないんだ」
「え、ナンパで困ってたわけじゃなかったのか?」
不思議そうな表情で、顔を傾ける。「オレはてっきり……」と呟く。一見、本当にナンパだと思い込んでいたように見えるが、さすがに付き合いが長いヒミキは騙されない。冗談を真面目な表情で言う、これがこの男の特技であり、癖なのだ。
「冗談はよせ」
「バレました?」
全く困ったものだ。あまりにも真に迫った表情で、あり得そうな嘘や冗談を吐くものだから、騙されて酷い目にあった人間は数知れず。これで本人は悪気がないものだから、余計にタチが悪い。
「まあ、今回はお相子でしょう。お前はキュベレーさえも巻きこんで一世一代の大嘘を作りだしやがったから。ふふふっ、油断ならないな、これを話すためにお前を探し出したといっても過言ではないぞ」
口では笑い声を発しているが、眼が笑っていなくて怖い。
「また、冗談か」
「いいや、冗談じゃない。お前の大嘘に嫉妬してるんだ。オレにもあんなことは出来ないな、一体どうやったんだ?」
ギクリとする。本当に頭の中でその音が響いたような。友人にまで、訊かれるとは思っていなかった。殺されそうになったことも、どうにかして助かったことも、何も説明するわけにはいかない。たとえ相手が助けてくれた友人でも。思わず早口で答える。
「俺がやったんではないんだ。機械の判断ミスだ」
「何か隠してるんじゃないのかな?」
「何も隠してない」
ヒミキの動揺に気付いたのか、胡散臭げな眼差しでカイルは彼を見つめる。至近距離で、じっと瞳を覗き込む。あまりにも近くによるものだからたじろいでしまう。
「後ろめたいことでもあるのかねぇ?」
生唾を飲みこむ。良く知っている人ならば、些細な動作から様々なことを察してしまいそうで、知らない女性よりも怖いかもしれない。
しばらくヒミキを見つめた後、カイルは一歩後ろへ下がった。ようやく至近距離の瞳から解放される。興味をなくしてくれたのだろうか。それとも、もうすでに何かわかってしまったのか。彼は無言で頷くと、拳を作り、腕を前へ伸ばした。
「冗談だ」
え。きょとんとした情けない表情のヒミキに対し、にやにやと妙な笑みを浮かべながらカイルは拳の親指をピンとたてて見せる。ナイス?
「何がナイスなんだ?」
「お前の騙され方を称えて。ナイス表情」
そう言うと、声を上げて笑う。ヒミキが騙されたことが、余程楽しかったのか、笑いながら膝を叩く。
騙されて気分の良い人間など少数派だろう。少数派ではないヒミキは、笑い転げるカイルを冷めた眼で見つめた。本当に怖かったのだ。知らない人間に問い詰められることも怖いが、それ以上に信じている友人に問い詰められるのは、恐ろしい。裏切られたような気がして。いや、それとも裏切ったのは自分の方なのか。どちらにせよ、友情とかそんな名前の何かが壊れてしまいそうな気がした。
「少なくとも」
笑うのをやめて顔を上げたカイルの瞳は、予想外に澄んでいた。
「お前はしばらく人が多い所に行かない方がいい。学校も、出来れば家族にも会わない方がいいと思う」
「なんでだ?」
「お前、隠してることがあるんだろ」
やはり、気づかれたか。
「この際言うけど、ヒミキって、表情に乏しいように見えて、実は表情豊かだからな。思ったこと、全て顔に出てるんだぜ。わかりやすい、騙し甲斐あり」
「話をそらすな」
「お前に隠しごとがあるってことは、知り合いには丸わかりだからな。お前にあまり興味のないオレは、まあ気にならないけど、プラーナ全土に散らばるお前のファンたちは、絶対その隠し事が何か知りたがるし、問い詰めるだろうな。そうでなくとも、一度死んだことになった、しかも『人柱』だぜ。まさに選ばれし者。そりゃあ、世の好奇心旺盛な人々は黙っちゃいないだろうよ。あのオバチャンに限らず、ね」
相変わらずふざけた口ぶりなのに、何か不快なものが背中を駆け抜けたような、恐ろしさを感じる。つまりそれは真実なのだ。カイルが言っているのは、確かに起こり得ること。今や自分はキュベレーに監視されるだけでなく、特別な存在となってしまっているのだ。
「まあしばらくすれば落ち着くだろうけど、それまで我慢することだな」
しばらくって、どれほどだ? 人の噂も七十五日などと言うが、七十五日なんて二カ月以上じゃないか。それまで隠れ続けなくてはいけないとは。気が遠くなるような気がした。
「それまでは、オレの家に泊まるか?」
「冗談」
「そう、冗談――といっても、いざとなれば考えなくもないが」
「カイル!」
会話を遮って、機械的な音が彼を呼ぶ。何かと思えば、先ほどヒミキを助けた機械魚が、こちらに向かって泳いできていた。
「カイル、ワタシ、ヤッタ。ヒミキ、タスケタ」
エリーはカイルの首にじゃれるように身体をすりよせる。彼は、その魚を撫でてやる。
「よし、よくやった」
機械魚はほめられて、嬉しそうに身体をくねらせる。首元でそのようなことをされて、カイルがくすぐったいとは思わないのか気になってしまうが、もう慣れているらしい。これでむりやり引き離すと、魚は拗ねるというから、便利だが面倒なペットだ。
エリーには、簡易的な人工知能が入っているのだ。カイルが大切に扱っているお陰か、随分と懐いている。この機械魚は彼に恋しているのではないかと思うほど。いや懐くことと恋との違いがわからないだけかもしれないが。何せ旧式で本当に単純な人工知能なのだ。最初にカイルが付けた名前を未だに覚えられずにいる。そもそも、その名前がエリシャ・ジー・フィッシャーなんたらかんたらという、妙に長い名前であるのもいけない気はする。
この機械魚、不便なことが多いし、あまり可愛いとも思えないが、カイル曰く出会った時の一目ぼれだったのこと。それで未だにこの機械魚が彼は大好きで、甘やかしているのだ。その愛情にエリーも応えているのだから、素晴らしいコンビであることには変わりないか。
「じゃあ、エリーも戻ってきたことだし、オレは家に帰るよ」
「もう帰るのか?」
「えっ、まさか寂しいというわけか? 男に呼び止められても、生憎オレは嬉しくはないなあ」
「そうではなくて、何か訊きたいこととか?」
「言っただろ、オレはお前にあまり興味ないって。どうせ、教えてはくれないだろうし。それとも話してくれるのか?」
プライバシーを尊重してくれているようだ。でも、言わなくていいと言われると、ついその優しさに心を許して、言いたくなってしまう。一人くらい話してもいいのではないか。
駄目だ。話すわけにはいかない。黙っていると、彼は一人で納得してくれた。
「どうせ言えないんだろ。隠しごとなんて偉そうなことをやりやがって……。いつか教えてくれるのを待ってるぜ」
そう言って、彼は立ち去るのだった。帰るときばかりは、行動が早い。すぐに視界か消え去る。ふざけているのか、真面目なのか、こんな時もわからない。
〈よかったね、訊かれなくて。問いただされていたら、あなたすぐ心が折れそうだから〉
一人になったため、またチトが話しかけてきた。
「それは、余計な御世話だ」
〈聴いている方は不安だったの。何か口走ってしまうんじゃないかって〉
話している方も、まずいことを言ってしまわないか不安だった。
ふう。思わずため息が漏れた。空を見上げる。少し雲が浮かんだ、青い空。
〈どうしたの?〉
「せっかく戻ってこれたのに、思ったよりも大変そうだ。まさか死んでいることになってるとは思ってなかったし、妙な人もいる。面倒くさい」
〈逃げる?〉
「いや、逃げない」
逃げるのは恰好が悪い。チトに失望されるだけでなく、カイルにも笑われてしまう。出来る限りのことは頑張る。それは今でも宣言通りだ。
だがそれだけではない。平穏に暮らせるはずだったのに、突然その平和が奪われてしまった。今までヒミキを支えてくれたはずの機械に裏切られた。今や自分の故郷にさえも、安らげる場所はない。許せない。
なぜ自分は「人柱」に選ばれたのか。そして、キュベレーは自分をなぜ殺そうと思ったのか。その真実を問いただしてやる。
〈ふふっ、頑張るね〉
左耳で少女が笑った。