第二話
漁船に乗って実家に戻ると、隆は居間にどっかりと腰を下ろして、ネクタイをゆるめた。仁や拓は普段スーツを着慣れないのもあって、ジャケットまで脱いでいる。じんわりと滲んだ汗を拭いながら、三人はしばし無言で部屋の中を眺めた。
隆にとっては島を出るまで過ごした懐かしい家だが、どうにも尻の座りが悪い。祭壇の両脇にある灯籠がくるくるとまわって、不思議な色のぼんやりとした光が天井を彩っている。
線香の香りが鼻先を漂ったとき、だからか……と隆は小さく息をついた。懐かしい家の気配に、葬儀の品の数々があることに慣れない。
仁が急須を手に、古いポットからお湯を注ぐ。座卓に並べた湯呑みにお茶を注いで、そっと出した。
「冷たいお茶じゃなくて悪いけんど」
仁は父と二人、長らく男所帯で暮らしていたから気が利く。隆や拓は所帯を持たずに一人暮らしをしているから、自分が必要なときに気が付く程度である。といっても、まめな性格の拓は、隆よりは気が利く。
──だから親父から受け継いだものが、なかったんかもしれへんな。
隆はゆるめたネクタイをほどいてポケットにしまいながら、ぼんやりと天井を眺めた。灯篭船を作ろうというのは、突拍子もない提案だっただろうか。けれども隆にとっては、亡き父の精神を継ぐ、最期の機会のように思われた。
「天気がようて、よかったのう」
「波も穏やかやったしな」
電話やメッセージではやりとりしていたが、直接会うのは久しぶりだ。どことなくぎこちないやりとりをしながら、三人は天気や海の話をした。
中国地方の戦国武将・毛利元就は、三本の矢の教えを残したという。一本の矢では折れるかもしれないが、三本纏まれば折れにくい……三人の息子たちに結束してことに当たるようにとした教えは、隆たち兄弟には、当てはまらないらしかった。三人が三人とも、別の方を向いている。
「隆兄さんも拓も、仕事は順調かの」
「まあ、ぼちぼちやね」
「俺は相変わらず船作っとるよ。仁兄さんは?」
「それほど変わらんき。……親父、突然倒れたけど」
仁は湯呑みから一口お茶を飲んで、ことりと座卓に戻した。
「ほんま、突然やったな」
仁が縁側の窓辺に置いた椅子を指差す。隆と拓はそちらに視線を送った。籐でできた背もたれのある椅子が、傾きはじめた日差しを浴びて、てらてらと輝いていた。三人兄弟が喜寿の祝いで父に贈った椅子は、使い込まれて飴色をしていた。
「親父、そこの椅子に座っとってな。夕飯作ってたら、ガチャーンて音がして……そのまま」
「心筋梗塞やて言うてたな」
「そう。こんな離島じゃ、ドクターヘリも間に合わんき」
隆は、もしも父が神戸に住んでいたら、と考える。救急車が間に合って、一命を取り留めることもあったかもしれないが、詮ないことだ。父は佐柳島で暮らすことを選んだし、なによりもう歳だ。
縁側のガラス戸の向こうに、初夏の青々とした木々が見える。夕陽に照らされた葉が、つやつやと照る。庭を二匹の猫が横切って行って、じゃれていた。
「……夕飯どうする? 泊まってくんじゃろ」
「ああ。夜通し線香炊かな、いかんしのう」
「埋め墓にお骨を納めたから、もうええんちゃうの?」
「そうじゃっけ?」
拓は祭壇の前にごそごそと移動して、線香に火をつける。何かしていないと落ち着かないのだろう。
「じゃあ、作るかぁ」
仁も台所に立って、冷蔵庫を開けている。隆だけは、身の置き所がない。すっかり冷めたお茶を飲み干して、隆はスマホを開いた。隆が大学に進学した頃は、携帯の電波があまり届かなかったように記憶しているが、今は問題ないようだ。会社からの忌引休暇についてのメールが一通、届いているだけだった。
「拓は、結婚せぇへんの?」
「職場と家の行き来やけん。隆兄さんも似たようなもんじゃろ?」
「せやね。今はほら、ストーカーやらセクハラやらで、女の人に声かけにくいやろ。怖がらせとうないし」
「神戸じゃったら、マッチングアプリとかで会えるんと違う?」
「そこまでして付き合いたいとは思わへんわ」
拓はケラケラと「おんなじじゃ」と笑い声をあげた。
「仁はー?」
居間から台所を覗いて、隆が水を向けると、仁は聞こえないふりをした。
「……結局兄弟三人とも、親父に孫の顔は見せられんかったのう」
「親父は、どうやっておふくろと知り合うたんやろな」
そういえば父から、その手の話を聞いた記憶がない。三人の母も佐柳島の出身だから、幼い頃から知ってはいたのだろうが。
「……なんちゅう話しとるがや」
先ほど聞こえないふりをした仁が、青菜のおひたしを座卓に置いた。
「仁は女の人とは話さんの?」
「……観光客とは話すけども、あいさつと道案内程度じゃ」
視線を逸らして膨れている仁は、照れ臭いのだろう。日に焼けた頬がほんの少し赤く染まっているような気がした。拓は小さく笑って「おんなじじゃ」と座卓の下に脚を投げ出した。
バラバラの方を向いていた三本の矢が、こんなときにだけ結束しなくてもいいものをと、隆はおかしくてたまらない。米を炊けたことを知らせる炊飯器の音が、ピーッと鳴った。
仁の料理の手際はよかった。佐柳島の海で獲れたタコを茹でた刺身と、青菜のおひたし、目玉焼きが、次々と座卓に並ぶ。拓はご飯をこんもりと盛って父の祭壇に供え、隆は三つのグラスによく冷えたビールを注いだ。
「いただきます」
ビールの泡が、拓の口の周りについている。青菜のおひたしにはほんの少し辛子が効いていて、つまみにちょうどいい。
「これ、美味い」
「親父もよくつまみにしとったよ」
隆はタコの刺身をつまみながら、父のことを思い出した。これも仁と父が、漁船から蛸壺を沈めて獲ってきたタコかもしれない。
隆が大学に進学するときに、父が漁船で見送りをしてくれたっけなと、隆はコリコリとしたタコの吸盤を噛み締めた。
大きな荷物は先に送って、小さなカバンだけを抱えた隆が漁船に乗り込むと、父はいつものように船を動かした。漁船のエンジン音と潮騒を聞きながら、父と息子は香川県の多度津の港まで、船旅をした。
めぼしい会話はなかった。父は漁船の操縦に集中していたし、隆は新生活への期待と不安に胸をざわつかせていた。
港に着いたとき、父は「身体に気をつけてな」と言ったが、なんと返したのだったか。
日に焼けたシワだらけの父の顔は、いつもより神妙だった。寂しいでもなく、悲しいでもなく、わずかにキリリとした顔で、火打石を鳴らして隆を送り出した。
隆は祭壇の遺影を眺めながら、よく冷えたビールを煽る。
拓が島を離れたときも、おそらく似たようなものだっただろう。けれども島にずっといる仁は、あの父の顔を知らないのではないか。
──兄弟っちゅうのは、きっとそういうもんやな。
隆はグラスについた結露で濡れた手をズボンで拭って、目玉焼きをご飯茶碗の上に乗せた。箸を入れると、とろりとした黄身がゆっくりと、ご飯に染み込んでいった。
「雑魚寝でえい?」
ご飯をかき込む隆の横で、仁が部屋の隅に積まれた布団を指差す。父が火葬される前に、仁が干しておいてくれたらしい。
「うん。何から何まですまんのう」
「蚊帳は吊る?」
「まだ蚊の飛ぶ時期やないやろ」
「でも葬式で蚊取り線香炊いて、殺生するのもなんじゃけな」
「わかった。シーツは洗ったのを置いてあるから、自分らでかけて使って」
仁が早々に食事を切り上げて、縁側に雨戸を閉めに向かう。隆は伸ばしていた脚であぐらをかいた。
「……なんや、もう寝るんか」
「漁師はキュッと飲んでパッと寝るもんじゃ」
「一杯しか飲んどらんじゃろ。ささ、もう一杯」
「えぇ……」
仁がガラス戸を開けると猫がひょいと顔を出して、家の中に上がり込んだ。
「あ、コイツ」
葬式の最中に見かけた猫とは、別の猫だ。拓は声を上げるが、猫はお構いなしに仁の足元に身体をすり寄せた。
「ちょっと待ってな。ちりめんじゃこあるわ」
ガラス戸を開けたまま冷蔵庫に向かった仁に、拓が呆れる。
「そうやって甘やかすけん、家に上がり込むんと違うか」
「親父の見送りに来たんじゃろ」
「いや、案外おふくろの生まれ変わりかもしれへんで」
隆が葬儀の最中に思っていたことを冗談めかして伝えると、拓は肩をすくめて猫の頭を撫でた。
「おふくろなら、邪険にはできんのう。でも何匹おるんじゃ」
拓の呟きに、隆と仁は声をあげて笑った。父の葬儀にやってきた猫は、三匹である。読経の最中に座布団で太々しく寝ていた猫と、家の前を通り過ぎて行った猫、そうして今やってきた猫だ。埋め墓までの道で出くわした猫を数えると、おそらくもっと多いだろう。
仁からちりめんじゃこをもらった猫は、一声にゃーんと鳴くと、先ほどまで甘えていたのが嘘のようにあっさりと帰って行った。ぴんと伸ばした尻尾が揺れるのを眺めながら、仁と隆は雨戸を閉めた。
「現金やのう……」
拓は座卓で、ビールを煽っている。
雨戸とカーテンを閉めて、隆と仁が再び座卓に戻ると、拓が空になっていた仁のグラスにビールを注いだ。
「それで、灯篭船の話じゃけど」
「ああ、うん」
「どんな船にする?」
「初盆に流すんやから、八月やろ? 今五月やから、まだ早いんちゃうか?」
「いや、図面に起こさんといけん」
言い出しっぺの隆がスマホで灯篭船を検索すると、小さな灯篭を水面に浮かべた精霊流しの画像が画面にずらりと並んだ。中には人間が乗れるほど大きな船の画像もあるが、隆の記憶に残っている灯篭船とは違う。
「ちょっとちゃうなぁ」
「大人が抱えるくらいの大きさじゃろ?」
仁がチラシの裏に、ペンを走らせた。
「こんなんじゃなかった?」
「仁、お前、絵、下手やなぁ」
「じゃかあしいわ」
へなへなとした線で描かれた船の横に、針金人間が描いてある。
隆は仁の投げ出したペンを拾うと、拓に向けた。
「こういうのは、拓が上手いやろ」
「えぇ……」
拓は隆からペンを受け取って、さらさらとチラシの裏に船を描いていく。見取り図や設計図のような、カクカクとした絵だ。
「これはこれで味気ない」
「そういう隆兄さんはどうなんじゃ」
隆はさらさらと、チラシの裏に船を描いた。父の乗っていた漁船に似た船だ。両脇から覗き込んでいた仁と拓が、めいめいに口を開いた。
「親父の船じゃ」
「……でもえいな。漁師の灯篭船にピッタリじゃ。親父の最期の送り舟じゃ」
「模型なんかで、何分の一スケールとかあるやろ? ああいう感じで、作られへんかな」
「……わかった。図面に起こしてみるけん」
三人は酔いも手伝って、ああでもない、こうでもないと騒ぎながらチラシの裏に材料を書き足していく。まるで子供の頃に戻ったかのようだった。
そうこうするうちに祭壇の線香が途切れそうになって、拓があわてて次の線香に火をつけた。




