第二話
翌朝、仏間に敷いた布団からごそごそと出てきた隆はカーテンを開けた。窓の外はすっきりと晴れ渡っている。まだ寝ていた拓が、まぶしそうに寝返りを打った。
「タカ兄、おはよう」
「おはよう」
漁師を生業とする仁は、朝が早い。もう畑に水を撒いてきたようだった。米の炊けるいい匂いがする。
「朝ご飯は?」
「卵焼きと味噌汁。あと干物。今焼いちゅう」
台所のグリルでパチリと魚の脂が弾ける音がした。魚の焼けるいい香りに、猫の親子がやってくる。台所をうろうろとして、落ち着きがない。
「やらんて。猫には塩分多いじゃろ」
仁は猫の背中をポンポンと叩きながらなだめようとするが、猫はにゃーんと仁の脚にすり寄って魚をねだっている。
「……おはよう」
寝癖のついた拓が台所にやってきて、洗面所に向かう。隆はそれを見送りながら、昨日のうちに枕元に置いておいた服に着替えた。
「朝ご飯食べたら、フェリーに乗るんじゃろ?」
「いや、もうちょっとおる。灯篭船作っとったから、あんまり島歩いてないし」
「そうか。レンタサイクルあるから、自転車借りたら?」
「せやね。……拓ー! お前も行くやろ?」
「タカ兄が行くんじゃったら」
戻ってきた拓が着替える横で、隆は顔を洗いに洗面所に向かう。戻ってきたときには、すでにテーブルに朝食が置かれていた。三人分の茶碗と箸を持って、拓がテーブルに並べていく。
「ほな、いただきます」
「あ、ちょっと待って」
仁が仏壇にご飯と水を供えて、蝋燭と線香に火をつけた。隆と拓は仏間に戻って、仏壇に手を合わせる。仏壇には、灯篭船の底に入れてあった石が置いてある。柔らかな線香の煙が漂う中、三人は居間に戻って朝食を摂った。
脂の乗った鯵はつやつやとして、いい焼き色がついている。味噌汁には畑で採ったばかりの青菜が入っている。ふっくらとした卵焼きに箸を入れながら、三人は島の近況について話した。
「ちょっと前に、小中学校の跡地が、ホテルになったがよ。そこにレンタサイクルがあるわ」
「へぇ、学校に泊まれるんか」
「……理科室とか保健室とか、ちょっとおっかないじゃろ」
「そうでもないよ。綺麗にリノベーションされとる。カフェもあって、アイスクリームとかあるがよ」
「アイス! ええな。島歩きで疲れたら、寄ってみよか」
「予約しとき」
朝食をすっかり食べ終えると、隆と拓は家を出た。仁は昨夜遅くまで続いた盆踊りの後片付けを手伝うらしい。
「鍵は?」
「忘れとったけど、島を出る前に使ってたやつがあるけん、大丈夫じゃ」
拓はキーホルダーについたたくさんの鍵を見せた。仁はそれを見て、「物持ちがえいんじゃね」と微笑んだ。
「荷物取りに来たら、鍵閉めとくわ」
「わかった。あ、水筒持っていき。ペットボトルの方がよかったら、ろうとで入れたらえいよ」
隆と拓は水筒を持ってなだらかな坂道を下り、ゆっくりと海沿いを歩いた。防波堤の上には猫が何匹もいる。観光客が猫たちにカメラを向けている。
「おはようございます」
「……おはようございます」
観光客に挨拶をされて、隆と拓ははにかみながら返事をする。島の外では、見知らぬ観光客に挨拶をすることもほとんどない。
海風に吹かれながら、二人は自分たちが通っていた小中学校の跡地に向かい、自転車を借りた。祖父が島出身という縁があって島で暮らすようになったという主人は顔見知りではないが、言葉の訛りは島のものだ。同じ島に縁があるという点で、妙に距離が近いようにさえ感じられた。
自転車に乗って見慣れた景色の中へ漕ぎ出す。波の音と潮風を浴びながら、隆と拓は自分たちの胸に故郷を刻み込むように島を見て回った。
日差しが波間に当たって、銀色に輝いている。魚の鱗のような海を眺めて、二人は島の東側をぐるっと回った。潮風で錆びた建物や、人の住まなくなった民家跡を見ると、二人はそこにかつて住んでいた島民を思い出す。島民は少なくなったが、島のいたるところに猫がいて、二人を不思議そうに眺めていた。
二人は大天狗神社の近くに自転車を停めると、ゆっくりと石段を上った。夏で勢いを増した草木の匂いがわっと押し寄せる。日頃運動をしない隆は石段の途中で息を乱して、何度か足を止めた。
「拓、ちょっと待ってぇな」
「この辺イノシシが出るらしいけん、はよ行こう」
天狗が祀られている山頂には何度か行ったことがあるが、まだ長い。隆と拓は休み休み山を上り、仁が持たせてくれた水筒で水分補給をしながら山頂に向かった。
じっとりとした汗が滲んでくる。隆はぐいとTシャツの裾を伸ばして汗を拭うと、拓と山道を上っていった。
山頂には、大天狗の石像が祀られている。しめ縄の奥の苔むした石像を眺めて、隆は拝んだ。この神社には、失せ物探しや泥棒避けのご利益があるという。
「失せ物っちゅうか、見つかったお礼かもしれへんなぁ」
「失くしたものがあったんかいの」
「失くしたーて言うよりは、忘れてたーかもしれん」
「それは俺もじゃな。……実家の鍵持っとったの、忘れとったけん」
隆は一礼して、山頂から来た道を見下ろす。遠くで茂みがガサガサと揺れている。イノシシかと身構える拓の前で、猫がひょっこりと顔を出した。
「脅かしなや」
「猫かて、イノシシはおっかないやろ」
隆は笑って石段を下りていく。拓は慎重に辺りを見渡しながら、後に続いた。イノシシがいれば、猫は逃げるだろう。猫がいるなら安心だと、隆は道に伸びてきた草木を手で払いながら、ずんずんと来た道を戻っていく。自転車のすぐ側に戻ってきたとき、拓が「あれ」と強張った声をあげた。
隆がゆっくりと顔を上げて、拓の視線を追う。山頂をウリボウ……イノシシの子供が、ひょこひょこと歩いているのが見えた。ウリボウがいるということは、親イノシシも近くにはいるだろう。まだ姿が見えないのが幸いだ。
「はよ行くで!」
隆と拓は急いで自転車に飛び乗ると、猛烈にペダルを漕いだ。隆の運動不足の太腿が、悲鳴をあげるようだ。山道から民家のある辺りに下りて、そっと後ろを伺う。イノシシは追ってきていないようだった。
「危機一髪やったなぁ」
「ほんまじゃ」
額の汗を拭う隆に、拓は安堵のため息をついた。こんなに自転車を漕いだのは、子供の頃以来だ。隆は子供の頃、特に目的もなく速度を出して自転車を漕いだことを思い出した。太腿やふくらはぎの張りをもみほぐしながら、隆は「アイス食べに行こか」と、拓を見た。水筒の麦茶をすっかり飲み干した拓は、頷いた。
爽やかな海風が、汗まみれの身体を乾かしていく。隆は軽やかに自転車を漕いで小中学校の跡地に向かうと、自転車を停めた。
「こんにちは。予約してた者です」
「はい。ああ、仁さんとこの。お待ちしてました」
喫茶室に案内されて、隆と拓は席に着く。綺麗にリノベーションされているが、見覚えのある風景だ。
「ここ、職員室やったとこか」
「多分」
「なんや緊張するなぁ」
「タカ兄、職員室で緊張したことなんかなかったじゃろが。せんせーって大声出して扉開けて、もっと静かに扉は開け閉めするようにって叱られとったじゃろ」
少ししてから運ばれてきたカレーとスープをじっくりと味わって、二人はほっと息をついた。じっくりと煮込まれたチキンカレーにはスパイスが効いていて、刺激の中にも爽やかさがある。汗が引いた後の清涼感に、エアコンの風が気持ちいい。
「呉もカレーが有名じゃけど、ここのも美味いな」
拓は何度か頷きながら、スプーンを動かす。すっかりカレーを食べ終えた二人の元に、アイスクリームが運ばれてきた。食後のデザートに頼んだものだ。
ガラス製のティーカップに銀色の装飾がついている。見た目も涼しげなアイスクリームに、二人はスプーンを入れた。ひんやりとしたアイスクリームの中に、優しい甘さがある。多度津の街で栽培されているイチジクが入っているようだった。柔らかな甘味と、プチプチとしたイチジクの食感が美味しい。
「はぁ、生き返るわ」
「アイスも美味いな」
隆はビスケットをかじりながらスプーンを進めていく。すっかり食べ終えて、「ごちそうさまでした」と両手を合わせる隆の横で、拓がほっとため息をついた。
会計を終えて借りていた自転車を返すと、二人は実家に荷物を取りに戻った。仁はまだ片付けから戻ってきていないらしい。玄関の引き戸を開けて、仏壇の前に座る。隆と拓は灯篭船の船底に入れていた石を一つずつポケットに入れた。
「親父、おふくろ、また今度な」
火の元の安全のためにおりんだけ鳴らして拝んでから、二人は台所で水筒を洗う。麦茶はすでに飲み干している。荷物の入った旅行カバンを持つと、隆は拓に向けて火打石をカチカチと鳴らした。旅の安全祈願だ。
「それ、灯篭船のときもしてたやつじゃの」
「そうや。親父が島を出るとき、鳴らしてくれたやろ」
「ああ、あったな、そういうこと」
拓も隆に向けて、火打石を鳴らす。玄関の靴箱の上に火打石を置くと、二人はゆっくりと玄関を出て、引き戸の鍵を閉めた。
多度津港に向かうフェリーは15時25分に出る。海沿いを歩いて本浦港に向かうと、仁が撤収作業をしているところに出会した。長机を脇に抱えた仁に、隆と拓は礼を言う。
「ありがとう。また来るけん」
「ん。二人とも、元気での」
手短な挨拶を済ませて、二人は船着場へと向かう。フェリーはすでに港に入っている。桟橋からフェリーに乗り込むと、仁が手を振っているのが見えた。
やがて汽笛が鳴って、穏やかな海をフェリーが進んでいく。フェリーのスクリューが泡立てる白波を眺めながら、隆と拓は島に手を振る。桟橋に、猫が何匹か並んでいるのが見えた。しっぽをゆったりと動かして、防波堤の上を歩いている猫もいる。
「多度津に着いたら、電車で本州へ渡るやろ? そこからは逆方向やね」
「そうじゃね。……またタカ兄にも連絡するけん」
「おう。今度はお好み焼きやのうて、他のもん食べに行こ」
二人はしみじみとしながら、遠く離れていく島を眺める。ポケットには、灯篭船の船底に入れていた石がある。フェリーが高見島に着いて、新たな乗客を迎え入れた。多度津に向けて出港したフェリーの上から見える佐柳島は、三人の故郷だ。
薄く霞んでいく島を眺めながら、隆は大きく手を振った。隆のいる神戸も、仁のいる佐柳島も、拓のいる呉も、瀬戸内海で繋がっている。
晴れ渡った空からの日差しが、海に降り注いでいた。
<おわり>
【参考資料】
ネコノシマホステル https://neconoshima.jp/
多度津観光協会 佐柳島 https://www.tadotsu-kanko.jp/sightseeing/entry-39.html
【あとがき】
お読みいただき、ありがとうございました。
この作品は『JR西じゆうに小説大賞』の「せとうち部門」に応募するために書いた作品です。
以前和歌山県で舟送りの儀式を見たことがあり、似たような儀式がないかなと探して、香川県佐柳島であったという記述を見つけたので書きました。
いずれ失われていく儀式なのかもしれないなということで、埋め墓と同じく、舟送りの儀式を小説に書き残しておこうと考えたものです。
ご意見ご感想、評価、ブクマなどしてもらえると、大変喜びます。誤字脱字報告も歓迎です。
現地をご存知の方にとっては違う箇所もあるかもしれませんが、お楽しみいただけたなら幸いです。
参考資料に使わせて下さった方々も、ありがとうございました。
2026.5.30 網笠せい




