魔王
十五時四十分。
六月の終わり、第三回開催八日目、阪神競馬場第十一レース・宝塚記念のゲートが開いた。
内回り芝二千二百メートルの旅路が始まる。
勢いよく飛び出てばらけた黒い群れにあって、外から一頭がすっと抜け出す。
深い緑のターフに引かれる白い線。
所々にまだ斑が目立つ芦毛に青いメンコ。
八枠十三番ラパンシャスールだ。
数頭はそれに続いたが、まだ春の三歳馬など歯牙にもかからぬというように、多くの古馬たちはそれを黙して見送った。これ幸いと、スタンド正面、五百メートルを超える直線の喚声を一身に背負って若馬は駆けていく。第一コーナーを前にして十四頭は縦に長く連なった。
一昨日までしとしとと降り続いていた雨で、良馬場といえど芝は湿り気を含んでいる。分厚い雲により逃げ場を失った熱気が纏わりついた。
レースは淡々と進んでいく。
向正面、早くも千メートルを通過。タイムは――五十八秒〇六。
スタンドがどよめく。
前傾ラップ。人々の視線はトルバドゥールに注がれた。舞台が着々と整えられていく。差し馬である彼にとって絶好の舞台が。そしてそれは、同じく差し馬であるデザートストームにとっても同じであった。
このレースの流れ、そのすべてがこの二頭の決着をつける舞台の筋書きのように思えてくる。綴られる物語は果たして喜劇であるのか、それとも悲劇であるのか。
――まあ、どちらでもいいか。
観客席の興奮に反して、ルピの思考は静かに研ぎ澄まされていく。
申し分のない役者が揃ったこの宝塚の舞台、そんなことは些末な事だ。
第四コーナーを迎える。
ラパンシャスールに釣られていた先行馬の脚が鈍い。縦に伸びていた集団は一気に圧縮され、塊を形成していく。
それを尻目にデザートストームに鞭を入れ一足早く抜け出した。粘りのある末脚を生かしたロングスパートはデザートストームの持ち味である。
デザートストームは次々と馬を追い越していく。一瞬後方に目をやると、岸が鞭を入れるのが見えた。
瞬間、トルバドゥールがしなる。
弦のように絞られた四肢は勢いよく弾け、獲物を追う肉食獣と見紛うばかりにターフを駆ける。
無論、そんなものは錯覚にすぎない。
馬の背骨は吊り橋状になっており、固く頑強な代わりに著しく柔軟性に欠ける。これは消化しづらい草から最大限に栄養を得るために長大となった腹部の内臓を支えるためなのだが、その構造のおかげで人は馬に乗ることができる。
つまり、たとえばチーターに代表されるネコ科肉食獣のような背骨の伸縮はそもそも不可能なのである。だが、その荒々しさ、強靭なバネを感じさせる走りはそう錯覚させるのに十分なものがあった。
馬に併せる度にトルバドゥールはしなり、その速度を上げる。さながら捕食者に追われる被食者の群れ。仁川の直線に生き物の根源にして絶対なる恐怖が蘇る。
追われる者にとって、トルバドゥールは恐怖、すなわち死そのものだった。
この馬がここまで強くなるとは、去年のこの時期には予想できなかった。それなりの走りは見せていたが、小柄で痩せぎすな馬体からはオーラというものをまったく感じなかった。この一年の、いや昨年の菊花賞に至るまでの成長は恐ろしいものがある。
馬の年齢は人間に換算すると、クラシック期にあたる三歳馬は高校生くらい。古馬となる四歳以降でようやく成人するといったところだ。歳を重ねると人間と同じように、肉体的にも精神的にも充実し落ち着いてくる。四歳ともなれば能力的にも競走馬のピークを迎える。
しかし、それを成長と表現するならば、トルバドゥールにおいてはその表現は相応しくないかもしれない。
荒々しく、奔放な走り。三歳、いやまだレースもわからぬ二歳の新馬のようだ。ここに押し寄せたどれほどの者がそれに気づいているのだろう。
この馬がまだ未完成であることに。
未だ荒々しい原石のまま、磨き抜かれた馬たちを深い闇に呑み込んでいく。
――これが古馬の走りか?
比べれば比べるほどに、早熟で早い時期から完成していたデザートストームとは真逆を行く馬だ。
そして現在の立ち位置もまた然りである。
トルバドゥールとデザートストームはもうライバルなどという言葉で括られる存在ではない。既に主役の座はトルバドゥールに渡っている。
こんな依頼断ればよかったのかもしれない。
大きなレースともなれば一レースで何百億という金と数多の人生が動く。だからこそトップジョッキーは情にほだされず、怜悧に馬を選別しなければいけない。
強者には勝利の権利が与えられ、同時にその義務に縛られる。勝利に追われる日々、その底なし沼に絡み取られず藻掻き続けるものだけがトップとして君臨し続ける。甘い考えを持つ者は生きていけない。
だが今回、その勝負の世界の理に背いた。
今回の依頼を断ったところでこれから先の騎乗依頼に影響など出るはずもない。京本調教師とはイタリアから日本へ活動の場を移した時に身受けをしてくれたから今でも縁があるというだけで、近年は騎乗依頼もめっきり減っている。どれだけ贔屓目に見ても美浦の中堅厩舎の域を出ず、その証拠にデザートストームが結果を出すやいなや全弟たるトルメンタデオロは京本厩舎ではなく関西の有力厩舎へと引き取られた。
運を掴み取る実力も重要だが、それを掴み続けることがどれほど厳しく難しいものであるか。
この世界に情は不要だ。その考えは変わらない。
だからこそ証明してみせよう。ジュリオ・ルピがこのレース、この馬で挑むことが正しかったのだと。決して情にほだされたわけではなかったのだと。
トルバドゥールがあっという間に後方に迫る。
時を同じくして先頭で風を切っていたラパンシャスールが力尽き、ついに失速した。三歳で挑んだ心意気だけは讃えよう。君の本意ではないかもしれないがね。
跫音が大きくなる。恐怖の跫音が。
恐怖に立ち向かうために必要なのは思考だ。挑む勇気はそこに至るために備えておく資質にすぎない。
考えろ。トルバドゥールに勝つ方策を。
そこで寸刻、ルピは静かに瞠目する。そしてその目を細めると、口に微笑みを浮かべた。
「散る前にもう一花咲かせておいで。ラパンシャスール」
内に切り込みラパンシャスールを躱す。視界の端、ラパンシャスールが下がったことで後続の二頭が揺らいだ。なんとか踏みとどまろうとするラパンシャスール。ついに三頭横並びになる。
そして――トルバドゥールの前に瞬く間に壁が出来た。
加速が止まる。
観客席にどよめきが広がった。
どれだけ能力の高い馬であっても必ず勝てるわけではない。馬も騎手も、そしてレースも力強くそれでいて儚く脆い生き物なのだ。機械を動かす歯車のように正確無比に進んではいかない。
歴史上、負けることの想像できない強い馬があっさり負けることなど数え切れないほどにあった。それは時に「不運」と呼ばれ、「悲劇」と叫ばれる。
トルバドゥール、今日君が刻むのは歴史的偉業を成す勝利ではなく、誰に語られることもない凡庸な敗北だ。
そこで観客席が沸き立ち、圧となって半身に押し寄せる。その喚声の理由に辿り着くのに時間は掛からなかった。
トルバドゥールが三頭並んだうちの僅かな隙間を突き、即座に横に流れて進路を見つけた。小柄な馬体を目一杯使い、壁を打ち破る。裂け目から漏れ出たほんの小さな光、標を見つけた闇がそれすら塗りつぶさんとばかりにそこから噴き出した。
浅はかな人智など嘲笑いどこまでも追いかけてくる恐怖。さながらそれは、詩人ゲーテの綴った「魔王」を彷彿とさせた。
吐いた息とともに小さな笑いが漏れる。
こんな化け物と同じ時代に生まれてしまうなんて、君は本当に不運な奴だな。この闇に飲まれ、後世その影としてさえも人々の目に触れることは叶わないかもしれない。
不意に手綱が強く引かれる。
もう一度手綱が引かれ、デザートストームが鼻息荒く速度を上げた。
その裡に燃える火は消えるどころか勢いを増し、僅かにでも揺らいでいない。勇ましい背中にあって、その熱がルピにも流れ込んでくる。
己の負けなど微塵も考えていない。誇り高く勇敢なる戦士の往く音。
薫風に靡く鬣に視線を落とし、ルピは目を細めた。
「ごめんよ。君は不運なんかじゃない。あんな強い馬と同じ時代に本気で戦えるんだから」
寧ろこれ以上ないほど幸運だ。
デザートストームはまだ強くなれる。君がいる限り。それに気付くのが少し遅くなってしまったことだけが心残りだ。もっと早く気付いていれば、これから先も幾度となく戦えただろうに。
「〈さあ、来い、トルバドゥール〉」
ルピの口元が悪魔が嗤うように大きく裂けた。
残り百メートルを切り、トルバドゥールは一完歩、また一完歩と距離を縮めてくる。
二頭の一騎打ち。
残り五十メートル、ついに二頭は並んだ。
二冠のダービー馬デザートストーム。
現役最強馬トルバドゥール。
幾重の戦いを経て、二頭はようやくここで並び立ったのだ。――だが、それも僅かな間だった。
トルバドゥールがこの日一番のしなりを見せ、弾ける。
『一着はトルバドゥール!
宝塚の舞台での主役ももちろんこの馬!
昨年の菊花賞から怒涛のG1五連勝! そしてJRA史上初の春古馬三冠を見事達成です! これほどまでに強い馬がいていいのでしょうか! 二着――』
此度の主演はトルバドゥール。
宝塚記念は満員の観客によるスタンディングオベーションでその幕を下ろす。魔王がその強さを遺憾無く発揮し史上初の偉業を達成したこの日、三冠を分け合った戦友は静かに舞台を去った。
彼を倒す勇者は、いまだ産声を上げない。
次回は8月12日(火)更新予定です。
 




