In bocca al lupo
春のクラシックは波乱のうちに幕を閉じたが競馬は続いていく。
ダービーが終わり二歳新馬戦が始まり早くも夏競馬の到来を感じるが、二月のフェブラリーステークスから始まった上半期のG1レース、それを締め括る競走がまだひとつ残っていた。
宝塚記念。
冬の有馬記念と並ぶ夏のグランプリ競走であり、阪神競馬場で行われる。
通常のレースではトライアルレースの上位入賞馬や収得賞金上位の馬から順にレースへと出走できるが、宝塚記念と有馬記念では少し趣が異なる。ファン投票で選ばれた上位十頭にまず優先出走権が与えられ、その後に収得賞金順で出走権が与えられるのだ。前半と後半を区切るお祭りとしての側面が大きいことがここから窺える。
そして今年見事一位を獲得したのは、
「トルバドゥール……」
スポーツ紙に目を落としていた美浦トレセン所属の調教師・京本が厩舎に設けられたミーティングルームで一人呟いた。
票数は歴代最多の四十万票にも上り、クラシックの話題を独占していた二位のアレクサンダーをゆうに上回った。だが、なにも不思議なことはない。
トルバドゥールは昨年の菊花賞を皮切りとして、有馬記念、大阪杯、春の天皇賞とG1を四連勝した。名実ともに彼は現役最強の名を恣にしているのである。
前述の大阪杯、天皇賞春、そして今回の宝塚記念をの中長距離レースを括ったものは春古馬三冠と呼ばれており、トルバドゥールが宝塚記念を勝てば歴史上初めてとなる春古馬三冠制覇が達成されるということも今回の投票数が伸びた一因であろう。
前述した通り、宝塚記念は日本競馬の前半戦を締め括り、有馬記念とは対となる存在だ。しかし、その盛り上がりは有馬記念には遠く及ばない。
その理由はいくつかあるが一番大きいものはその開催時期だろう。
日本において競馬は通年開催されているがG1レースは春と秋に集中している。これは馬が暑さに弱いためだ。馬の実力を最大限に発揮できる期間に格の高いレースが設けられている。
そのような事情もあり、一線級の馬たちにとって夏は適鞍がないことから通常秋シーズンに向けて休養へと入ることになる。
三歳馬の総決算たる日本ダービーが終わった六月半ばという時期もあり、グランプリといえど春のクラシックを走った有力な三歳馬は秋に備えまず宝塚記念には出てこない。それに加え日本はちょうど梅雨時期とあり開催後半で痛んだ馬場状態は決して良いとは言い難い。それにたとえ晴れたとしても近年の日本においては異常な暑さが常だ。結局のところリスクとリターンが釣り合っていない。
以上のことからファン投票で選ばれた有力馬の辞退も少なくなく、有馬記念と比べてどうしても地味なグランプリとなってしまっている。
新聞に目を落としながらそんなことを考えていると厩舎の扉を叩く音がした。
来たか。
京本は紙面から顔を上げた。
「……開いてる。入っていいぞ」
「コンニチハ、京本さん」
扉をくぐる時にブラウンの癖っ毛が風に揺れる。ジュリオ・ルピが口元に薄っすらと笑みを浮かべて入ってきた。京本は近くに置かれた簡素な椅子にルピを促す。
「で? 今日はなんの用?」
ルピは椅子に座ることなく京本に問う。
「そんなに事を急ぐなよ」
そこで言葉を切ると、
「〈座れ〉」
イタリア語で低くルピに命じた。ひとつ息を吐き、ルピも渋々椅子に座る。
「そういうイタリア語ばっかり上手だネ。愛を語る言葉でも覚えたほうが有意義だヨ」
京本はにやりと笑い、余計なお世話だ、と毒づいた。
「〈遅い〉、〈黙れ〉、〈バカ〉、〈アホ〉、……ほかにもたくさん覚えたな。生意気で反抗的なイタリア人を躾けるためによ」
「その節はタイヘンお世話になりましタ」
「お前のほうこそ、そのけったいな日本語はどこで覚えてきたんだか。――それとその片言やめろよ、わざとらしい。もっと普通に喋れるだろ」
そんなやりとりを数語交わした後、暫し沈黙が流れる。先に口を開いたのはルピだった。
「残念だけどデザートストームには乗れないよ」
そう流暢な日本語で言う。
「……俺の頼みでもか?」
「なんで宝塚に出すんです? 春だって海外で走らせればよかったのに。ドバイに香港に欧州、今の時代選択肢は豊富でしょ」
ルピは京本の質問に答えず、反対に質問を返した。
「海外なら勝てると?」
京本は片眉を上げ睨みつける。ルピは力なく首を振った。
「違う。国内で過去の栄光を追いかけるより、海外で挑戦者として散ったほうが格好がつくだろうってことだよ」
「潔く死ぬ美もあれば泥を啜って生きる美もあるだろ」
「デザートストームは三歳の春に完成した。いや、歩みを止めた、かな。あの頃は間違いなく世代ナンバーワンだった。でも、それは決して悪いことじゃない。早熟性っていうのはダービーを取るのに欠かせない素養だからね」
そこで息を入れ、ルピは上目遣いで京本を覗いた。
「だから引退させるべき。こんな使い方をするなら尚更、ね。このまま早熟の馬をダラダラ走らせても、今度は早枯れだったとマイナスのイメージがつきかねない。これじゃ種牡馬としての価値に傷をつけるだけだ。違う?」
「そうだな」
「それに、残酷だけど今年の宝塚記念で観客が期待していることは史上初の春古馬三冠の達成でしょ? ダービー馬の復活じゃない」
「……三冠達成の期待か」
京本は懐かしむように目を細めた。目尻に刻まれた皺が深くなる。感に堪えず声が漏れた。
「去年の菊花賞を思い出すな」
「勝ったのはデザートストームじゃなくてトルバドゥールだったけどね」
ルピがすかさず水を差す。
「だったら今回は逆にデザートストームがトルバドゥールを倒して古馬三冠を阻止するかもしれないじゃないか」
「菊で負け、有馬で負け、大阪で負け、それなのにまだ挑むの? 三度目の正直もなかったのに四度目? 別に引退でいい。欧州じゃダービー馬が三歳で引退して種牡馬になるなんてなにも珍しいことじゃない。あの化け物が国内で走ってるのに、それでも走る意味はなに?」
「あいつが走り続けてるからだ」
「逃げると思われるのが嫌? 別にそんなこと誰も思わない。ただ二頭の全盛期が違っただ――」
「ダービー馬は」
京本はルピの言葉を遮った。
「ダービー馬は世代最強を示す称号だ。くだらないと思われようがそのプライドを捨てた馬はその時点で死んだも同然だ」
「馬として死ぬのはプライドを捨てた時なんかじゃない。勝てなくなった時だ」
だから、デザートストームは競走馬として死んだ。
ルピは努めて冷たく言い放つ。
それも彼のプロ意識の高さ故だ。
デザートストームは菊花賞で二着に敗れた後、有馬記念で七着。年が明け、初戦となったG2中山記念でまさかの三着、大阪杯は六着と振るっていない。デザートストームがもう旬を過ぎた馬だということは、これまで鞍上を務めてきた彼自身が一番感じていることだろう。だから、ついにデザートストームから降りた。
「ボクは勝てる馬にしか乗らない。それがトップジョッキーである僕の責務だ」
「知っているよ。だから頼んだ」
ルピをまっすぐと見つめる京本の目は一寸の曇りもない。
「このレースでトルバドゥールを倒す。頼む。これが最後のチャンスなんだ」
京本は深々と頭を下げる。
言葉に嘘はない。
このレースでデザートストームの強さをもう一度証明する。
そして、これがおそらく最後だ。
ルピはそれをじっと見た後、静かに目を閉じた。
宝塚記念記念当日を迎えた阪神競馬場。
昼休憩を前に既に気温は三十度を超え、纏わりつくような暑さにうんざりしてしまう。しかし、それにも関わらず阪神競馬場は偉業達成の瞬間を一目見ようと駆けつけた観客で寿司詰め状態となっていた。
出走する馬の数はフルゲート十八頭に対して十四頭。
一番人気は勿論トルバドゥールだ。
それに続くのは、昨年の秋華賞とエリザベス女王杯を勝った牝馬マリアブレス。同じく昨年の二冠馬デザートストーム。重賞馬のナイトフォール、トレビュシェット、パールヴォイスなど実に出走している十四頭中十一頭が重賞馬である。
そして、強豪の古馬たちが犇めくなかで毛色の違う注目を集めているのが三歳馬で唯一出走してきたラパンシャスールだ。
毎日杯でラットアタットの三着に敗れた後、京都新聞杯へ進み見事勝利を収めた。当然日本ダービーへ進むものかと思われたが、元来の体質が弱いこともありレース後の快復が芳しく無く無念の回避。しかし、ここにきて体調が良くなったため、どうせ秋まで待つならとオーナーが宝塚記念への出走を決めたらしい。
例年と比しても華やかなメンバーだ。ただ、そのどの馬もトルバドゥールの前ではどうしようもなく霞んでしまう。
第七レース。
第十一レースの宝塚記念が近づき、パドック横に併設された騎手控室の空気は息苦しいほどに張り詰め、次第に研ぎ澄まされていく。
トルバドゥールの鞍上を務める岸飛馬はベンチに腰を下ろし静かにパドックを眺めていた。それを遮るようにルピは岸の前に立つ。
物言わず、岸はルピを上目遣いで睨んだ。
自ずと周囲の視線が集まるなか、岸は徐ろに立ち上がりルピの横をパドックの方へと通り過ぎようとする。
「僕もそろそろ宝塚記念が欲しくなってきタ」
すれ違いざまルピが囁く。岸は重なり合うところで足を止めた。
「挑発のつもり? らしくないね」
「ああ、実は僕も困ってるんだよ。ちょっとある人の熱に当てられてしまってネ。でも悪い気分じゃない」
「そう」
岸のすげない態度に、ルピは大袈裟に肩を竦め鼻を鳴らす。
「……馬に乗ってない時の君は輪をかけてつまらないネ」
「なんでデザートストームに乗るんだい? 直前の想定だと違う馬だったはずだろ。なにをそんなに拘ってるんだ」
「別にたいした理由じゃないヨ。騎乗予定だったリアルビューティはドバイ、香港と遠征続きで頑張ってたからネ。宝塚記念はやっぱりお休みしようってなったダケ。身体が空いたんだからどの馬に乗ってもいいだろう? デザートストームは僕にダービージョッキーの勲章を与えてくれた馬だ。それに――」
ルピは岸の肩に手をかける。
「僕は勝てると思った馬にしか乗らないヨ。勿論今回もそうダ」
「止んでしまった嵐がもう一度吹くことはない」
「そんなことないサ。地球の裏側にいる蝶の羽搏きだって大嵐を引き起こすんダ。蝶にできて人間にできないはずがないじゃないカ。ましてや、この僕が」
岸は無言で首を振り再び歩き出した。
「僕は春古馬三冠なんてものには別に興味はないが負ける気もない」
「そうかそうか」
ルピは含んで笑うと、去り行く岸の背中に向けて言った。
「〈|健闘を祈るよ《In bocca al lupo》〉、ヒウマ。お互いベストを尽くそう」
岸は振り返ることなく外へと繰り出す。
鈍重な雲が覆う空の下、パドックを回る足音が淡々と響いていた。
次回は8月5日(火)更新予定です。




