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奇術師の種

 負けた。

 由比は検量室前に置かれた画面で映像を見る。着順を見て、詰めかけた関係者たちはどよめき、敵味方問わず歓喜の声を上げた。

 ゴール前の光景が思い出される。

 既のところで差された。アレクサンダーと、ピクチャレスクに。

 勝負を分けたのはクビの上げ下げの差。

 馬は最も速い歩法である襲歩において体全体で伸長と収縮を繰り返して走る。この伸び切った時の歩幅を完歩といい、四肢を収縮した時に馬は宙を駆ける。

 馬の到達順位は「馬の鼻端が決勝線に到達したタイミング」と定義されており、一般的に馬がクビを下げた時(伸長時)が着差を競う場面においては僅かに有利になる。よって騎手は馬の完歩、クビの上げ下げのタイミングをその決勝線に最適なタイミングに合わせようとする。

 このレース、アマクニとピクチャレスクは見事に合わせ、アレクサンダーは僅かにズレた。そして最後、那須はアマクニのクビを押し、僅かにだがたしかに伸び一着でゴールしたのである。

 その点において、馬ではなく明確に騎手の差が出た。

 不意に肩をポンと叩かれる。

「残念だったネ」

「ルピさん」

 由比が振り返ると、ルピが笑って肩を竦めた。

「お互いアマクニに一本取られたネ。強いのはわかってたけどあんな走りができるなんて想定外だヨ。……いや、凄いのはあの魔術師(Mago)の方かな」

 そう言ったルピの視線の先には那須がいた。結果を受けて、騎手や関係者から手荒い祝福を受けている。対照的にこちらは異様なほどに静かだった。

「……ルピさんは悔しくないんですか?」

「くだらないことを訊くネ」

 そう言ってルピは鼻を鳴らす。 

「人前でそんな無様を晒す気はないってだけサ。――君と違ってね」

 ルピの言葉に、由比ははっと目を開き、無意識に握り締めていた拳の力を抜いた。ルピは笑う。

「別にいいよそれで。みっともなく落ち込むくらいが新人らしい。若いのに澄ました顔されるほうが癪に障るからネ。……でもその様子だとティーンのうちに本気でダービーを取る気だったのかい?

 いいネ、若いっていうのは怖い物知らずで」

「……ダービーを取るのに、年齢が関係ありますか?」

「そうだネ。たしかに年齢は関係ない、訂正しよう」

 ルピは意味深に片頬を上げる。 

()()()まだ早かったみたいダ」

 そう言い残し、ルピも那須のもとへと向かった。由比は見送りもそこそこにすぐ近くで陣取っていた父、由比駿明のもとへと歩を進めた。

 近づいてくる由比に、由比調教師がゆっくりと視線を向ける。

「負けました」

「そうだな」

 そう言ったきり沈黙が流れる。

「手厳しいな君は。少しは労ってやってもいいんじゃないか? タイム差なし、写真判定にまでもつれた三着なんて立派じゃないか」

 由比調教師の隣に立つ、品のある背広を着こなした白髪の男。アレクサンダーの馬主、兵主(ひょうす)景介が由比調教師を肘で小突いた。

「勝てたレースを落としたことには変わりありません」

 兵主は目を瞑り小さく首を横に振る。

「それは驕りだよ由比くん。君らしくもない」

 由比調教師は険しい顔をしたままだ。

「……なんと言われようとあの馬は、アレクサンダーはイスカンダルを超えうる馬でした。ここで躓くような馬じゃなかった」

「躓きなんかじゃない。言うなれば高く跳び上がるためにしゃがみ込んでいる状態。だろう?」

 由比調教師に向けていた視線を由比の方へ向けて問う。返答を待たずに兵主は続けた。

「きっと彼がこれからアレクサンダーを高みへ導いてくれるはずさ。この負けを糧にしてね」

「……はい。必ず」

 由比は短く。だが、はっきりと告げた。

 その姿を由比調教師は無言でじっと見た後、沈黙を破った。 

「まだ今日のレースは終わっていない。最終レースの目黒記念、お前の乗る馬の馬主にとって、一生に一度、ダービー以上に重要なレースかもしれないんだ。その腑抜けた顔で乗るつもりじゃないだろうな」

 そうだ。まだ今日のレースは終わっていない。

 由比はレース後の検量を終え、検量室前を離れる。

 薄暗い通路を歩きながらもレースの映像が繰り返し頭に流れた。だが、今はそのことを考える時間はない。

 頭の中の雑念を振り払い、歩く速度を少し上げた。


「那須さん!」

「……ん? 青ちゃん?」

 地下馬道に声が反響する。青の姿を認めた那須が驚いて目を丸くした。青は息を弾ませて駆け寄る。

「やっと見つけた」

「まいったな、トイレって言ってようやく取材から逃げ出してきたのに、まさか青ちゃんに見つかるとは」

 那須はこのあとの十二レースに予定されるG2目黒記念への騎乗はない。そのため、勝利騎手インタビューが終わったあとには我先にと取材陣が押し寄せていたのだが、

「いいんですか? ほっといて」

 那須は手をひらひらと振る。

「いいのいいの。少しくらい休憩しないとね。

 それに、結果はもう出てるんだから僕の発言なんてそれの添え物だよ。極論なくてもいいし」

 そこまで言って青の方を振り返った。

「でも、青ちゃんはなんで僕を探してたの? まさかお祝いしに来たわけじゃないでしょ? そんなに息を切らして来る理由もないし」

「どうしてアマクニで勝てたんですか?」

 青は食い気味に那須に訊いた。その目は心拍数が上がっているのもあるのか爛々と輝いている。青は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。

「皐月賞ではまったくだったし、弥生賞はアタマ差で勝ってたけど中距離ではきついかなと思ってたのに。……ううん。みんな駄目だろうと思ってたはず。

 私が乗ってたアマサカルとアマクニはなにが違うんですか? なんでマイル馬を勝たせることができたんですか? なんで――」

「ストップ、ストップ」

 那須は両の手の平を体の前に出して青の話を止めた。

「あっ……すみません」

「謝ることはないよ。でもね、青ちゃんは少し勘違いしてるみたいだけど僕はアマクニをマイル馬だとは思ってないよ。――いや、正確に言えばたしかにアマクニはマイルでも強い。でも、そこで収まるような器じゃないと確信していた。

 そういった意味で生粋のマイラーであるアマサカルとアマクニは似ているようで全く違う」

「でも……」

 青はそこで口籠る。

 そんな言葉だけでは納得できない。事実、アマクニは年始に走ったマイル戦のシンザン記念は完勝したが、一方で二千メートルの中距離戦となった弥生賞ではアタマ差辛勝、皐月賞に至っては十一着の惨敗だった。

 それなのに、日本ダービーの行われる府中二千四百メートルでなぜ勝てたのか。

 那須は暫し宙を見つめた後、ふっと微笑んで青に視線を落とした。 

「いいよ、まだ時間がある。もう少しだけ詳しく教えてあげよう。少し付き合ってよ」

 そう言って那須は地下馬道を調整ルームの方へ進む。階段を上がり地上へ出る。外はまだ明るい。

 もう春が終わり、夏に移ろうのだなと少し寂しく思った。

 那須が足を止める。

 調整ルーム近くのこれといって特徴もない場所。この時間ともなればもう少し人気がありそうなものだが、喧々とした場内とは打って変わって恐ろしいほどに静まり返っていた。

 青々とした木々が風でそよいだ。湿った風が髪を触る。

「昔、僕が青ちゃんに言ったこと覚えてる?」

「……私に言ったこと、……ですか?」

 青は小首を傾げる。そんな漠然としたことを訊かれてもなんとも答えようがない。那須は破顔する。

「ごめんごめん。この訊き方はちょっと意地悪だったね。答えはね――」

 那須は唇に人差し指を当て、幼子を見るように柔らかく目を細める。 

「『僕がかけているのは魔法なんてそんなきらびやかなものじゃなく。タネも仕掛けもありふれた手品みたいなものだ』。一言一句正確ってわけじゃないけどこんなところ。覚えてる?」

「……あっ」

 たしかに聞いたことがある。

 春にアドバイスを貰った時、那須の異名である「魔術師」の話題が上がった際にたしかに聞いた言葉。魔術師が魔法を否定した言葉だ。

「今それがなにか関係あるんですか?」

「勿論。僕は魔術師なんて大層なものじゃなくて有り触れた奇術師である。これは重要なことだよ。魔術師と違って、奇術師っていうのは魔法を使えないからね」

「はあ……」

 魔術師ではなく奇術師。

 本人としてはこだわりがあるのだろう。しかし、それがそんなに重要だろうか。魔術師だからといって本当に魔法が使えるわけでもないし、雷霆だからといって本当の雷というわけでもない。そんなのは皆わかっている。魔術師というのは言ってしまえば紙面を賑わすための単なる掴み、キャッチフレーズにすぎない。

 那須は青の反応に構わず話を続ける。

「魔術師は気儘に杖を振れば魔法が使えるかもしれないが、奇術師ってのは手品を披露するためには周到な準備が必要になる。いわばタネってやつだね。手品に肝要なのはタネと仕掛けだから。

 そしてそれは、奇術師は舞台に立つ時にはすべての仕掛けを仕込み終えていなくてはならないってことを意味する。

 つまり――」

 そこで那須は言葉を切る。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、って言ったら、僕の言いたいことは伝わるかな?」

「? ……ダービーの前に、タネを仕掛けていた?」

 眉間に深く皺を刻んだ青を見て、那須は満足そうに頷く。

「そう。じゃあ最初から説明しよう。

 まず、僕がアマクニでダービーを取れると思ったのが年初に行われたシンザン記念だ。そういえば青ちゃんもクラッシュオンユーに乗って出てたね。

 ――さて、そこから今日のダービーまでに僕たちはふたつのレースに出た」

 そう言って右手の人差し指と中指をピンと立てた。

「『弥生賞』と『皐月賞』だ。ここでタネを仕掛けた」

 薄暗い通路で那須の目が怪しく光る。思わず唾を飲みこむ。

「まず弥生賞。そこでアマクニの脚を測った。いくらキレる脚だといっても届かなければ意味がないからね。皐月賞に出るにしてもダービーに出るにしても、例年の収得賞金のボーダーは越えるはずだったから弥生賞は無理に勝ちにいくレースでもなかった。

 ま、勝ったのは結果オーライかな。そして、弥生賞の結果をもとに後は皐月賞で微調整のつもりだった。でも――」

 滔々と語っていた那須がそこで止まった。 

「……雨、ですか?」

 那須は微笑む。

「そう。雨での不良馬場。皐月賞のコンディションは最悪だった。だから、あのレースはもう無理をしないことにした」

 無理をしない。それって――。

「皐月賞を捨てたってことですか?」

「そうだね」

 那須はあっさりと言い切った。

 三冠競走の一角。伝統あるクラシック競走。中央競馬において二十四個しかないG1レース。

 それをそんなに簡単に諦めることができるのか。第一、二千メートルの距離とダービーよりも短く、加えて曲がりなりにも勝利した弥生賞と同じ条件のレースなのだから、日本ダービーよりも勝つ可能性はずっと高かったはずだ。それなのに。

「全てのレースを勝てる馬なんていない。そんな事ができればそれこそ神の馬だ。

 でも、馬には全てのレースに勝てなくても勝たなくてはいけないレースっていうものがある。それに勝つためだったらたとえ皐月賞だってその礎にするってだけさ」

「ダービーを勝つために皐月賞を……」

「ああ。ホースマンにとってダービーより優先すべきレースは存在しない。僕はそう思っている」

「……那須さんの言いたいことは分かりました。でも、それだと皐月賞でタネを仕掛けたって言うのは矛盾しませんか? だって、言ったらなんですけどつまりなにもしなかったんですよね、皐月賞では」

「なにもしない、ってことも立派な作戦だよ。事実、()()()()()からアレクサンダーを始め上位に入賞した馬たちの多くはダメージを負った。上位組は今回のレース、アレクサンダーの三着を除けば下位に固まったからね。

 傍目にはなんともないように見えて、ああいう馬場でのダメージっていうのは案外体に残る。そういった意味では、あの雨こそタネと言ってもいいかもしれないね。あれはアマクニにとっては間違いなく恵みの雨になった」

 そこで不意に青の脳裏に追い出しの時のアレクサンダーの姿が蘇った。あの時感じた猛烈な違和感。その正体は――。

「……疲労。そうか、アレクサンダーの足音がいつもより弱く聞こえたのはそれが原因……」

 今度は那須が眉間に皺を寄せる。

「足音? まさか、足音の違いを聞き分けたっていうの? あの喚声の中で?」

「いや、聞き分けたというか……、わかったというか……」

 青自身困惑した様子で弱々しく返答した。

「……まあ、その話はまたにしよう。とにかく、ダービーのために人事では万全を尽くした。それがこのダービーのためのタネと仕掛けだ」

「でも、それだけで勝てるとは」

 詰まるところ、那須が言ったタネは「脚を測った」「無理をしなかった」この二点だけだ。

「十分さ。元々それだけの実力はある馬だ。たしかに実力が拮抗すれば最後はどうしても運否天賦になる。でも、そこまでやって勝てなかったならしょうがない。その幸運を掴み取れないなら最初からダービー馬の資格がなかったてことだ。それに」

 そこで風が吹いた。 

「勝ったでしょ?」

 那須が屈託なく笑う。

 全てがタネと仕掛けで裏付けられた奇術。だが、話を聞くほどにそれはまるで魔法のように捉えどころがない。

 奇術の小さな種は大木として成長し、長年の鍛錬と経験によってそこから削り出された杖は魔力を帯びた。

 那須がどれだけ論理的に説明しようともあれは魔法だ。そして彼は、間違いなく魔術師である。

「でも、残念だったなあ。ダービーではクラッシュオンユーに乗った青ちゃんと戦いたかった」

「それは……私もそうですけど。でも、アマサカルにも乗れたし、私がもっと上手く乗れば」

 そこまで言って思わず口を閉じた。

「……まさか」

 あることに思い当たる。嫌な汗が背中を伝う。

 那須さんはなにも言わない。

 全てを見通すようなその目は、先程とは打って変わって冷たく光った。


 青が地下馬道を戻り厩舎地区へ向かうと、ひと仕事終えて田知花と矢尾が話し込んでいた。

「おお、どこ行っとったんや」

 矢尾が努めて明るく声を掛ける。青に近づくと肩を強く叩いた。

「いやあ、惜しかったなあ。まあ、あんま落ち込まんと」 

「……乗りこなせないと思ったからですか?」

 矢尾を無視して田知花に向けて訊く。

 田知花はなにも言わない。声の震えを悟られないように青は肺の空気を満たし、先程よりも大きな声で繰り返した。

「私がアマサカルのことを()()()()()()()()()()()()()乗せたんですか?」

「? どういう意味や? そんなわけあるかいな」

 頓狂な声を上げ矢尾は眉を顰めた。それを無視して言葉を続ける。

「もし、アマサカルの力を引き出せる騎手を乗せたらダービーで壊れてしまうかもしれないから。だから私を乗せたんですよね。私の実力が、……劣っているから」

「そうだよ」

 田知花は無表情に冷たく答える。銀縁が鋭く光った。

「あれはルピが乗ったからG1を取れた。並の騎手じゃ力があるといってもまだ幼いアマサカルは乗りこなせない。だからお前を乗せた。万が一にもアマサカルを動かせないと思ったからだ。アマサカルに合っていないこんな舞台で無駄に消耗する必要はないからな」

「でも!」

 思わず声が出る。 

「オーナーは、……オーナーは先生にダービーを取ってもらいたくてアマサカルをダービーに出したんじゃないですか? 矢尾さんだって、スタッフのみんなだってそうです。みんな、先生にダービーを……。なのに――」

「俺のダービーなんてくだらんことのために馬を犠牲にできるか。こいつはこれから先勝つべきレースがある」

 田知花はぴしゃりと青の言葉を遮る。青はかっとなって言い返した。

「くだらなくなんてありません!」

「だったら、勝たせてみりゃ良かっただろうが!」

 轟くような一喝。思わず一歩退く。辺りの視線が一斉に突き刺さった。 

「口だけならそこらのガキだってなんとでも言える。だがな、騎手は口が上手いやつが偉い仕事じゃねえんだ。求められるのは結果。なにもできなかったのはお前だ。もう少しまともに乗れるようになってから口答えしろ!」

 その通りだ。

 青は項垂れ地面を見つめる。

 田知花の思惑がなんであれ、アマサカルを乗りこなせなかったのは自分自身だ。

「それに大方お前の今回の目的はダービーを勝つことじゃなかっただろ? お前も俺たちと同じだよ。それを今更青臭く反論するんじゃねえよ」

 違う。私は――。

 だが、言葉にはならない。

 強く噛んだ下唇。鉄の味が口内に広がる。

 汗でじっとりと張り付いた勝負服。先程まで吹いていた風が止む。

 

 この日、春のクラシックがすべて終わった。

次回は7月29日(火)更新予定です。

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