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魔法のかけ方

 ゲートが開く。

 全馬スムーズなスタート。レースが始まった。

『スタートしました。好スタートはラビットバロー、外から――』

 少し前を行く那須さんの後ろ姿を見る。

 レース前に那須さんが言っていた言葉。ヒントとはいったいなんなのか。

「……」

 一瞬目を閉じ、肺に残る空気をゆっくりとすべて吐き出す。

 集中しろ、青。

 那須さんがわざわざあんなことを言ったのだ。このレースで得るものが、突破口となるものがあるはずだ。

 まばたきする暇すらない。この目で絶対に掴み取る。

「これだよ、これ。この那須のフォーム。

 この乗り方ができれば俺がお前たちに教えることはなにもない」

 競馬学校時代、そう言って教官がよく那須さんのレース映像を私たちに見せてくれた。

 濁流のなか、浮かぶはずのない木の葉が静かに漂うような違和感。その木の葉のように那須さんは際立って美しいフォームをしていた。そしていま、レースをともに走るなかで見るそれは映像で見たものより遥かに美しい。

 何度見ても綺麗な騎乗フォームだ。

 短い鐙に長手綱。肩、臀部、膝を頂点とした逆三角形は馬上で一切ぶれることはない。高速で動く競走馬の上でその姿勢を保つことは想像よりも遥かに難い。それを実に簡単そうにこなすのが彼が超一流の騎手たる所以だ。

『――さあ、最後のコーナー、ラビットバローは先頭をキープ。ここで外からプラチナマイン。

 ……! コンサートベニューが大外、青い帽子が上がってきた!』

 那須さんが鞭をひと振りすると、コンサートベニューが滑るように馬群から抜け出す。ぐんぐんと速度を上げ、あっという間に先頭に立った。

 前走掛かりに掛かってスタミナ切れを起こして大敗した馬にはとても見えない。一頭脚色(あしいろ)が違う。

 まるで杖によって魔法をかけられたかのようだ。

『コンサートベニュー先頭! コンサートベニュー先頭! 

 ここで突き抜けた! いま……ゴールイン! コンサートベニュー完勝!

 “魔術師”那須が今日も鮮やかな魔法をかけました』

 図ったような鮮やかな差しを決めた那須さんが握った拳を掲げるのが見えた。

 

「やあ、なにかわかったかな?」

 レースの口取りを終えた那須さんに声を掛けられる。

「……正直に言っていいですか?」

「もちろんいいよ。むしろそのほうがいい」

「全然わかりませんでした。綺麗なフォームだなって、ずっとそんなことばっかり考えちゃって」

 少しの沈黙が訪れる。那須さんはこちらを見たままだ。重い空気に耐えらず言葉を紡ごうと口を開いたその時、那須さんの口角が上がった。

「そう、それならよかった」

「え?」

「君の見た通り特別なことなんてなにもない。僕は教科書通り馬に乗ってるだけだ」

 教科書通りって、あんな綺麗な乗り方をそんな簡単にできてたまるものか。本に書かれている理想と競馬場での現実はまったく違う。

 那須さんはこちらに構わず話を続ける。

「いつの頃からか僕のことを“魔術師”って囃し立てる人が出てきた。伸び悩む馬をまるで魔法みたいに勝たせるからってね。

 光栄なことだよ。褒められるのも悪い気はしない。

 ――でもね、僕がかけているのは魔法なんてそんなきらびやかなものじゃない。タネも仕掛けもそこらにありふれた、言うなれば手品みたいなものさ」

「……手品」

「そう。タネと仕掛けを十全に整え、お披露目する手品。僕が競馬場(ここ)で見せているのはそれだけ。

 ――けど、ときにそれは()()()()()()()()()()

 那須さんの目が光を反射して一瞬ギラリと光った。背筋に冷たいものが走る。 

「さあ、青ちゃん。君にできるかな?」


 青ちゃんの背中を遠くに見送る。

「――さてと」

 次のレースまでは少し時間が空く。調整ルームのほうで少し休息を取ろうか。

「日鷹には優しいんですね。那須さん。俺にはなにも教えてくれないのに」

 声のする方を振り向く。少し嫌味を含めてこちらに話しかけてきたのは、たしか……美浦の猿江くんだ。

「……優しい、ね。そう見えるかい?」

 猿江は眉をひそめる。

「……? はい」

「まだ基礎もレースの駆け引きも未熟な新人騎手に甘い言葉を使って希望を持たせただけだとしても?」

「……。そうだとしてもです」

 猿江の澄んだ瞳はまっすぐとこちらを射抜く。純粋でありながらその奥には底の見えない飢えが伺える。いや、純粋であるがゆえに貪欲なのか。その目の色は野心に溢れた若人に特有のものだ。

 思わず頬が緩んだ。

「そんなふうに見つめられると余計になにも教えたくなくなっちゃうな」

「そんなつもりハナからないくせに」

「はは、傷つくなあ。手強い敵に塩を送る気はないってことだよ。足下を掬われるのは怖いからね」

「絶対そんなこと思ってないですよね」

 訝しむ猿江に無言で笑顔を返した。

「……いつまでもトップに座り続けられると思わないでくださいよ。俺たちはいつでもアンタの首を掻き切る準備は出来てるんだ」

「そう。楽しみにしてるよ」

 少し喋りすぎたかな。すっかり体が冷えてしまった。猿江を残してこの場を離れる。

「クラシック、絶対に俺が勝ちます!」

 猿江の声に立ち止まり、振り返る。彼は少し離れたところで微動だにせず仁王立ちしている。やはりアドバイスは不要だったな。

「挑戦は受けよう。――でも、勝つのは僕とアマクニだ」

「……! 望むところです……!」


 同日、阪神競馬場。

 後検量を終え、取材を振り切り通路を早歩きで進む。

「……くそっ!」

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 目に焼き付く那須さんの騎乗を意識すればするほどフォームはぎくしゃくと覚束ないものになる。呼吸が合わない。リズムが合わない。

 第五レースを終え、今日私が乗るレースはなくなった。ただでさえ時間がないというのに。このままではスプリングステークスまでに間に合わない。

 足りない。もっと乗らないと。いまよりもっと。

「……」

 自然と足が向かった先、その人物はちょうどひとりでそこにいた。一度大きく深呼吸をする。

 一歩踏み出し、ゆっくりと距離を詰めた。

 目が合う。

「お願いします。私を馬に乗せてください」

「……なんだい急に。なんの冗談だ?」

 目の前に立つ由比調教師がこちらを静かに見定める。気圧されぬよう、その瞳を見つめ返す。

 腹の底から目一杯の声を出した。

「大真面目です。私は」

次回は1月28日(火)更新予定です。

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